今回は学校のなりたちから
学校と家庭それぞれの教育について、
さらには家庭での教育は
何をすると効果的なのかを書きました。

【 目次 】
・学校ができた理由
・学校と家庭それぞれの教育
・勇気づけ
・親の関心と自立



■学校ができた理由

アルフレッド・アドラーによれば
学校とは社会の人々の要求に応じて
つくられたもの
です。

学校ができるまでは
学校で教えるようなことは
家庭で親などの大人
子に教えるしかありませんでした。

それが、
働き手を社会が必要とし、
それに応える形で学校は
つくられたのです。

はじめは
一人で読み書き、計算ができる
くらいの要求でした。

それまでは
一人で読み書き、計算ができる人が
少なかったのです。

それから
あれもあった方が良い
これもあった方が良いと
社会の要求や国家の要請に
応じる形で教えることが増えて
現代の学校の形になっているわけです。

初期の学校は貴族などの
お金のある家の子だけが
通うものでしたが、
社会の要求や国家の要請で
どの子も通えるようになったのです。

また、
当初は「教師」とは専業ではなく
知ってる大人が知識や技を
共有するだけだったようです。

それから社会の要求に応じて
「専業の方が望ましい」として
今の状況になっています。

さらには、
ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ
1800年頃に登場するのですが、
彼が登場するまでは
教育には暴力を使うのが普通
だったようです。

彼が非暴力の教育法
提唱してくれたおかげで
暴力と教育を区別するように
なりました。

これを思うたびに
感謝を感じます。
ありがとうございます。

■学校と家庭それぞれの教育

学校の目的は
社会適応能力の向上ですが、
そもそもそれは家庭で
親などの大人がすることでした。

つまり、
家庭での教育は
学校ができたおかげで
減ったのです。

そう思うと、
家庭での教育は
家庭でしかできない教育
することで学校との相乗効果を
期待できます。

その家庭でしかできない教育とは
その子に合わせた形式での
「他者への関心を養うこと」
です。

アドラーいわく
教育とは相手の関心を
他者に向けるように援助すること

ですので、学校の教育も
それは入っています。

しかし、
学校は「家庭の外の社会」という
子にとっての”外の世界”なので
どちらかといえば
関心を他者に向ける練習をする場
という要素が強い場です。

当然、
子は「思ったのと違った」
という失敗
をするので、
その度に困難に直面し、
その困難に立ち向かうことになります。

ずっと勇気を使えたなら
子は自力で関心を他者に向け、
社会適応能力を養うことができますが、
そんな子はまずいないでしょう

直面する困難は
子にとっては自力で克服など
到底無理だと感じてしまうような
ものもあります。

そこで学校も親も
「がんばれ~」と応援するだけでは
子は勇気を使おうとはしないでしょう。

むしろ、
どうやってその困難を回避できるか
ばかりを考えるようになってしまいます。

子が何が大変だと思っているのか、
それをすると何が起きると思っているのか、
などの、
「かわいそうな自分」の話や
「悪いあの人」の話

聞いてもらえる人がいなかったら
よし、困難に立ち向かってみよう
とはなかなか思えません。


学校の教師は
知識や技術の共有するだけでも
たくさんの力と時間を使います。

そんな中で、
生徒それぞれにそれらの話を
聴く時間をとるのは
現実的にはなかなか困難です。

そこで、これはやはり
家庭で引き受けること
適切な対応となるでしょう。

■勇気づけ

子が直面する困難は
すべて対人関係の課題です。

その課題についての
「かわいそうな自分」の話と
「悪いあの人」の話

親が評価を下さずに
ただただ承認するがごとくに
訊き続ける
のです。

そうして聞き続けると
子は話尽くした状況となり、
もうひとつの話をしたくなります。

そのもうひとつの話が
これからどうするか」です。

この「これからどうするか」の話を
引き出すまでは親は大変ですが、
それ自体が子への援助となるので
自分の評価はまるごと横に置いておいて
辛抱強く子の話に耳を傾けるのです。

ここが親の頑張りどころです。

そうして
子の気持ちが整理されていくと
子は「困難に立ち向かってもいいかな」と
思えるようになります。

その
「困難に立ち向かってもいいかな」と
思う心の力を勇気と呼びます。

このようにして
子の勇気を呼び覚ますので
勇気づけ」と言うわけです。

■親の関心と自立

親自身が
その親から適切に勇気づけられて
他者への関心を養う援助を
受けて育てられた
のであれば、
家庭での子の教育に
大きな困難を感じることは
とくにないでしょう。

しかし、
おそらくほとんどの親自身が
そうして育っておらず、
家庭での子の教育に
大きな困難を感じて、
その困難を避けたくなったり
することがあるでしょう。

その困難でよくあるのが
自分は失敗してはいけない」です。

親は子の手本となるべき存在、
という考え方自体は
何も問題ありません。

そこに
手本となるべき存在は
失敗してはいけない
もしくは、
失敗したと子に見られてはいけない
としてしまうと
たちまち問題を抱えることとなり、
その困難を回避する活動を
したくなるでしょう。

そして、これは親の関心が
他者ではなく親自身ばかりに
向いている状況です。

でも、
親の失敗を子に知られても
何も問題ないのです。


大切なのは、
親自身が失敗したときに
その失敗に適切に応じることです。

その適切に応じるとは、
親自身が他者への関心
持とうと努力することです。

失敗したときに
その失敗を「悪」とせずに
思ったのと違った」と扱うことです。

そして、
関係する他者に協力を求めて
対人関係の調和につとめること
です。

失敗をなかったことにしようとするより
今後のしあわせをさらに増やせる
大切な経験として扱うことです。

親自身がそうして
失敗に適切に向き合う姿に
子は勇気づけられます

もし自分が失敗しても
すべてがダメじゃないんだ
、と。

ただし、
失敗しようとして失敗するのは
「失敗に見せる」という成功ですので、
これはしない方が良いです。

そうして失敗に向き合う親は
他者への関心を持っており、
他者への関心を持って
対人関係の調和につとめる親は
自立しています。

そんな親を見る子は
教育を受けているのと
同じ状況
です。

そこで効果的なのが
親は子に
「かわいそうな自分」の話と
「悪いあの人」の話は
なるべく減らして

「これからどうするか」の話を
増やすようにすること
です。

親は親で
「かわいそうな自分」の話と
「悪いあの人」の話を
したくなりますから、
それは子ではなく
親同士などの他の大人
聞いてもらうようにする方が
子によいです。

なぜなら
「かわいそうな自分」の話と
「悪いあの人」の話は関心が
自分ばかりに向きがちだからです。

一方で、
「これからどうするか」の話は
関心が他者に向きやすくなります

そうして親自身が
よい手本となることで
自然と子も他者に
関心を向けやすくなります。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ10年目、常楽でした。



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