■離れると放棄することになる

アルフレッド・アドラー
共同体感覚から離れた活動は
人生の調和を乱す。
」と
言っています。

共同体感覚を意識して
それが高まるような
活動をすることで
人はしあわせを
増やしていけます。

しかし、
共同体感覚を度外視すると
自分さえ善ければOK」の
世界に行ってしまいがちです。

その世界は
他者の貢献を搾取する世界であり、
そうしてしあわせを得られても
それは一時的なものとなり、
再びしあわせを得るには
再び他者の貢献を搾取する
必要があります。

ちょうど
競争で勝ったときに
勝った瞬間は満たされますが、
また同じ満足を得るためには
また競争して勝つ必要
あるのと似ています。

そして、
そのためには相手に
「負ける」という犠牲
払ってもらう必要が
あります。

それが貢献の搾取にあたります。

家族相手なら
家族の犠牲が必要で、
友人相手なら
友人の犠牲が必要で、
仕事の相手なら
その相手の犠牲が
必要になる世界です。

共同体感覚から離れると
他者を敵・味方に分けてしまうので
常に敵を警戒し、
今は味方でもいつ敵になるかを警戒し、
敵となったら即座に排除します。

そうして排除すると
自分のまわりから人が減っていきます。

あんまり他者を排除しすぎると
孤立して生きていけなくなるので
最低限は残します。

家族がいる場合には
家族との関係は解消できないので、
家族を相手に貢献の搾取をすれば
孤立することなくしあわせを
得続けることができてしまいます。

家族がいくら犠牲になっても
家族は離れられないので、
とくに経済的に自分に依存させれば
どんなに犠牲を払ってでも
自分に犠牲を捧げ続ける
ことになります。
(雇用者と被雇用者の関係にも
似てるかもしれません)

それは、依存させることで
自分との関係が解消されることは
すなわち「死ぬ」と思わせることが
できるからです。

または自分の弱さを利用して
自分に仕えさせ続けることも
できてしまいます。

言葉や態度では
「そんなことない」と言っておけば
表面的にはそうしておくことが
できてしまいます。

こんな状況の深刻さが深まると
DVや虐待になります。

家族が自分の犠牲に
耐えられなくなると
家を出たり、
直接自分に復讐してきたり
します。

いずれにしても
迎える結末は
決まって悲しい結末
なります。

共同体感覚から離れて生きることは
しあわせを放棄することと
同じだと、わかります。

■生きるのに役立つ道へ

アドラーのすすめを
まとめてみると
次のようになります。

人生は単純(シンプル)だ。

複雑にしたい人は
複雑にすることで
課題に立ち向かうことを
回避したい人。

なぜ単純かと言えば
人生は共同体感覚を
高めることを目標として
生きることで、
あらゆる課題の困難を
克服して解決できるから。

そしてその課題は
たった3つだけ。

ひとつは、仕事をすること。
ひとつは、友人を持つこと。
ひとつは、性愛の相手
(すなわち結婚の相手)を持つこと。

仕事をすると
経済的自立ができるため
経済的に誰かに依存せずに
生きられるようになる。

また、仕事は社会貢献であり
その貢献活動から得られる
貢献感が共同体感覚を
高めてくれる。

友人を持つのは
仕事以外での貢献活動を
する相手を持つ、ということ。

そこで得られる貢献感も
共同体感覚を高めてくれる。

性愛の相手を持つことは
本能的な欲求である性欲を
適切に扱うことが大切だから。

適切に扱うことで
そこで得られる深い貢献感は
共同体感覚を高めてくれる。

さらには、そこで子をもうけて
育てることでさらなる課題を得て
その課題を適切に解決することで
さらに共同体感覚を高めることが
できる。

共同体感覚を高めるには
行動の目標を2つ、
その行動を支える心理の目標を
2つ持つこと。

行動の目標は
「自立する」
「社会と調和する」

心理の目標は
「自分には能力がある」
「他者は自分の仲間である」

「自立する」は
経済的自立もあるが
精神的な自立もある。

精神的な自立とは
端的にいえば
愛を欲しがる側から
愛を与える側に立つこと。

「社会と調和する」は
対人関係を持つことであり、
持った対人関係を良好なものに
していこうとすること。

そのためには
相手へ貢献することが
役に立つ。

相手へ貢献することは
自分の関心を自分に向けず、
つまり自分さえ善ければOKとせず
相手の関心事に向けることが
役に立つ。

相手が今何を必要としているのかが
わかれば、相手の利益に貢献するのが
簡単になるから。

「自分には能力がある」とは
今自分にできないことを見ず、
今自分にできることを見ること。

今自分にできないことを
いくら見ても何もうまれず、
できない自分を正当化する活動に
役に立つくらいだから。

「他者は自分の仲間である」とは
他者を自分の都合で
敵・味方に切り分けないこと。

相手を自分の都合で
敵・味方に切り分けると
都合の悪い人は敵となり
排除の対象となります。

味方も、今は大丈夫でも
いつ敵になるかわからないので
安心できません。

唯一安心できるのは
敵を排除できたときと
味方を支配しているときとなり、
これでは対人関係が
対等な関係ではなくなるため
共同体感覚は高められない。

そのため、
共同体感覚を高めるためには
他者は仲間である前提で
いることが大切になります。

これらをまとめると
他者は仲間であり、
仲間との関係の良好さを
高めるために、
今の自分のできることで
その仲間に貢献できることを
しようと試みること、で
共同体感覚は高まります。

すべての他者を対象にするのは
非現実的なので、
近い人から始める感じです。

そしてその途上にある
課題の困難は
勇気を使うことで
立ち向かうことができます。

人生は単純です。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ10年目、常楽でした。



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