■限界と決めたのは自分

限界と決めたのは
自分です。

なので、自分で
選択可能なわけです。

限界だ、と決めたのは
そのときの目的に
限界が必要だっただけです。

目的が違えば
限界を感じずに
どこまでもできそうな
気持ちになったりするわけです。

また、
アルフレッド・アドラーは
こう言っています。

”誰でも
なんでも実現できる。”

”大事なのは今の自分に
何が与えられているかではなく、
今の自分に与えられているものを
どう使うかである。”

「できる」と思いたいときは
「今あるもの」に注目して
それらをどう使うか、
創造的な自分を感じるでしょう。

でも
「できない」と思いたいときは
「今ないもの」に注目して
現状に限界を見出して
諦める理由に利用しがちです。

その場の目的に応じて
自分は限界を
利用しているんですね。

■限界の目的を見る

アドラーは子供が
自ら限界を決めている
こともあれば、
何かに熱い関心を持つと
限界を決めることはせずに
能力を自ら発達させていく
こともあることに触れ、
限界について考えました。

目的を何にするかによって
限界を設けた方が都合が良いか
限界を設けない方が都合が良いか
分かれます。

具体的な目的は任意ですが、
その目的に「限界」が
必要かどうかを
自分で決めているわけです。

もちろん
「1日に活動できる時間は
最大24時間で、これが限界」
といった限界はあります。

しかしそれは
自分で決めた限界では
ありません。

大切なのは
自分で決めた限界であり、
そう決めたときに
自分が持っている目的です。

それを
自分で意識できている、
すなわち理解していれば
その状況は自分で操作可能な
状況となります。

例えば
逆上がりを習得したくて
練習する。

何度やってもうまくいかなくて
周囲の人に嘲笑されてイヤだから
もう限界だと決めて
この活動を終える。

こんな場合は
当初に欲しいと思った
「逆上がりができると得られるもの」
とは関係なく
嘲笑されるのがイヤという理由で
限界を決めています。

と、いうことは
「周囲の人に嘲笑される」が
障害となって活動に困難を
感じているわけです。

その要素を排除すれば
当初に見込んだ成果物を
得られる可能性は十分にあります。

また、例えば
親に何度も逆上がりの状況を
質問されて、それに応じるのが
本当に疲れたから、限界を感じて
活動をやめることにした場合。

これも
「親に何度も質問される」が
障害となって活動に困難を
感じることとなっています。

この場合も
この障害を除くことができれば
当初に見込んだ成果物を
得られる可能性は十分にあります。

さらに、
「どうしても、何があっても
逆上がりをできるようになる」と
熱い闘志を燃やして取り組めば
そんなの関係ないよと
いう人もいるでしょう。

その場合は
自ら限界を決めていないだけです。

また状況によっては
これ以上逆上がりの習得に
時間を費やすと
日常生活に支障をきたす、という
限界を感じる場合もあります。

これも時間の配分や
予定の組み方次第で
限界を超えることができます。

それでも無理というなら
そもそも逆上がりが
必要ないのかもしれません。

当初に見込んだ成果物を
今の自分はどう感じるのか、
今も必須と感じるのか
そうでないのか、を
改めて確認してみることです。

限界を感じたときは
その限界があることで
自分は何を得られているのかを
見てみると、
その限界を決めた自分の意図を
客観視できます。

客観視できれば
改めて今自分は
本当はどうしたいのか、を
再確認できます。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ9年目、常楽でした。



克服とは、どれくらいやることなのか
既成の価値観を問いなおす
自分の課題は誰にも譲らなくていい

本気になると、他人の視線は眼中になくなる