■器官劣等性と過補償

器官劣等性とは
生活に支障をきたすような
身体器官の状況のことです。

手足など外から見て
すぐにわかる器官劣等性もあれば
「近眼」とか「難聴」のような
外から見ただけでは
すぐにわからないような
器官劣等性もあります。

その劣等性と
神経症(心の病)の関係が
アルフレッド・アドラーの
最初の著書のテーマでした。

その中で「過補償」という
ことばが出てきます。

「補償」というのは
劣等性を克服する活動のことです。

近眼の人が
眼鏡やコンタクトレンズを
使うことで克服するのも
「補償」ということです。

そしてその「補償」が
行き過ぎると「過補償」
ということになります。

例えば近眼であれば
近眼のない人の状況に
自身がなろうとする活動の
すべてが「補償」です。

そしてどこまでやれば
克服したことになるのか、
その「補償」をどこで終了すれば
良いのかがわからないと
結果、補償し続けることとなり、
それは「過補償」になる、
というわけです。

「過補償」となると
生活に支障をきたす状況から
社会に適応できるレベルになっても
さらに補償を続けることになり
際限がなくなります。

そうなると
補償することが生活の中心になり
それ以外のことが
おろそかになりがちです。

自然と他者へ依存的になり
依存されるのが嫌な他人は
自身から離れていくことになります。

そのため、補償は
「適切に」する必要があります。

■適切に補償する

どこまでやったら
克服したことになるのか、
そんな補償の活動は
ゴールを決めて取り組むことが
とても大切です。

着手する時点で
ゴールの状況がわかっていれば
「何を」「どのくらい」すれば
到達できそうかが見えてきます。

そしてそのゴールとは
「社会に適応できていると
自身が自然に感じられる状況」
です。

例えば
近眼の学生なら
教師が教室の黒板などに
書く文字が無理せず見える程度
などになるでしょう。

自動車を運転するなら
無理なく安全に運転できる程度
になります。

逆にそれ以上あったとしても
使い道がないわけです。

そんなふうに
今の自分にふさわしい程度が
見えてくれば
「適切に」補償することが
できるようになります。

一方で、
「他者にどう見られるか」を
ゴールの要素に含めると
その他者によって必要な程度も
変わってしまうため、
しばしば無限ループのように
過補償に陥りがちです。

特定の一人、であれば
「その程度ならOKだよ」と
言って終われるでしょうが
不特性多数を相手にして
それらすべての人からOKを
もらおうとしても
もらうことはまず無理です。

自分自身の基準で
まずは社会に適応できる程度を目安に
補償を進めると
ゴールに到達することも
難しくなくなります。

そこから先は
ゴールに到達してから
考えても遅くはありません。

■足りない自分が見えるとき

当初のゴールに到達したときは
それまでの経験があるため
「社会に適応できていると
自身が自然に感じられる状況」も
当初のものから更新されて
いるでしょう。

それは
それまでに経験したことにより
情報量が増えて判断材料が
増えたおかげです。

それを「今まで」に
あてはめてしまうと
「不足している」と
感じてしまいます。

しかし
ゴールに到達したおかげで
「不足している」とわかるわけで
当初の自分はそんな判断ができるほど
情報を持っていませんから、

そう思えるということは
「当初の自分」から
「今の自分」へと
確実な進化を遂げた、
という証拠です。

そこに到達できたのは
自分が今まで取り組んできたからです。

つまり、
自分自身の功績です。

「不足している」と感じたら
それを今までに当てはめて
自分にダメ出しするよりも、

その「不足している」が
見える今の自分の力をもって、
次のさらによくなる目標設定に
活用する方が、楽しくなります。

そうして常に
成長し続けていけるのですね。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ9年目、常楽でした。




正解は、やってみるまでわからない
しあわせになる、よりも、しあわせになり続ける
形にするまでの困難と楽に向き合うには