■闇が存在するためには

闇が闇として成立するためには
光が必要です。

闇が闇だけなら
「無」です。

ただの「無」なので
闇も何もありません。

目の前のものが
「闇」に見えたとしたら
どこかに必ず光があります。

悲しいことも同じ。

ずっと悲しいだけなら
それは、ただの「無」です。

何もない状況です。

「悲しい」と感じるなら
どこかに必ず「嬉しい」があります。


■声を使えない自分

私は生まれてから
「声を出せない」という状況に
なったことがありませんでした。

なので「声を出せない」ことによる
悲しい気持ちになったことが
ありませんでした。

その反対に
「声を出せる」ことによる
嬉しい気持ちも感じません。

つまり
「声を出せる」は当然なことなので
そこに悲しいも嬉しいも
なかったわけです。

あるとき声帯をひどく痛めて
病院で診てもらったら
「ひどく痛めましたね。
最低でも2日間は声を出さないで
休ませてあげてくださいね。」と
言われました。

話そうと思えば
話せるのですが
のどが痛いし、
これ以上悪化させたくないので
守ることにしました。

そのときに初めて
「話せない自分」
「喋れない自分」
「歌えない自分」
「笑い声を出せない自分」
そうした声を使うことが
できない自分がいるんだと
自覚しました。

言葉が出てこない、じゃなくて
言葉は出てくるけど
声に出して伝えられない。

声を出せないことを
わかってもらえず
「失礼なやつだ」と
白い目で見られたりする
場面もあったり。

声を使えないのは
こんなに悲しい気持ちに
なるんだ、と
ひとりしみじみと感じてました。

今までの私の世界では
私は、ただ「私」でした。

でも声を使えなくなると
「声を使える私」と
「声を使えない私」とが
いることに気づきました。

もともと「使える/使えない」は
ありましたが、
「使える」が当然すぎて
「使えない」が
目に入らなかった感じです。


■不自由に自由を知る

悲しいことがあると
悲しむ必要があるから
悲しい気持ちを感じています。

それはそれで
自然なことです。

そして
その悲しいことには
私の「声を使える/使えない」のように、
闇に対して光があるように、
どこかに嬉しいことがあります。

手に持っていたものを失うと
その「失った」に注目しがちです。

一方で
手に何も持たず自由になると
これから持ちたいものを
持つことができます。

どこまでも続く闇など
ありません。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。



《関連記事》
その花が美しいのは、栄養に悲しみも入っていたから。
悲しいことの恩恵。それは喜びのタネが育つこと。
おならの使い方。悲しいも、楽しいも、それ次第。
目線を上げると悲しめない
自分のしあわせを増やすことは大切