■「憎む流れ」を変える

憎い相手を憎むことは
「敵がいる」を深めます。

そして憎めば憎むほど
心の中がその相手だらけに
なってしまいます。

その相手を繰り返し思うので
その相手の重要度が
自分の中で高まるばかりです。

そんな「特別な関係」など
望んでるわけじゃないけど
関係は強化されていきます。

そんな流れを変えてくれるのが
「相手の幸福を願う」です。


■関係を深めずに分けること

「あなたを許さない」と
憎み続ける限り
その相手との関係は続きます。

でも
「あなたはあなたで
勝手に幸福になってください。
私も私で勝手に幸福になりますから」と
憎むことから離れて
相手の幸福を願うと
相手と別れることができます。

憎い相手ですから
今後は関係を深めたい相手では
ありません。

憎い相手には
自分の世界から消えてもらえたら
心穏やかに暮らせます。

相手と別の世界に分かれるなら
相手を憎むより
相手の幸福を願うことです。


■憎むと安心できない

私は父親を憎んでました。
なぜなら性的な被害を
中学生の頃に受けたからです。

それ以来、頭の中や
心が壊れた感覚を抱えながら
生きています。

他人ではなく親なので
関係を断つことが
できない相手です。

そして親という存在は
自分の中でとても大切なので
「とても大切だが、とても憎い」
というアクセル&ブレーキ全開な
矛盾も抱えて生きています。

何百、何千、何万と
ぶん殴りたい気持ちを抱き、
同じ数だけ
「自分はそっち側にはいかない」
「こんなヤツのために自分を汚さない」と
自分を制御してきました。

憎い父親に
思い知らせてやることばかり
夢に見て生きてました。

でもそうして生きるのは
父親との関係を
強化するばかりで
心は少しも安らぐことは
ありませんでした。

気づけば心の9割以上を
それに使っていて、
自分のために使うのは
残りの1割です。

自分の9割をも
父親のために使ってるなんて
最悪です。

■「怨親平等」

仏教を学ぶ中で
出会った言葉に
救われました。

それは
「怨親平等」です。
※「おんしんびょうどう」と読みます。

戦争で死んだ人を弔うとき
敵も味方もないよ、
どちらでも手厚く葬りましょう、
という意味です。

もう少し正確に言うと
みほとけ様の大慈悲は
敵も味方も平等に扱いますよ、
という意味です。

憎むばかりでは
その執念に自分が
支配されてしまいます。

敵がいる限り
敵を打ち負かすことばかりに
時間と労力を注ぐことになります。

そして「勝った」ところで
次の敵がいなければ
どう生きたらいいのかが
わからなくなってしまいます。

相手を敵にして
次々に打ち負かしていくと
最後に残るのは自分一人です。

自分の敵になりたくない人は
自分から逃げていきます。

なので
相手を憎むこと、
恨みを晴らすこと、
そればかりを目指すと
孤立します。

アルフレッド・アドラーは
「孤立とは、社会的な死だ」と
言っています。

父親を憎み続けることは
自分を孤立へと向かわせることだ、と
気づきました。


■相手は共に生きる仲間

私はその後さらに
アドラー心理学を学びます。

感じる幸せを増やすなら
共同体感覚を高めることです。

共同体感覚とは
自分の居場所がある感覚です。

居場所があると安心できます。
居場所があると生きていけると
思えます。
居場所があると休めます。
居場所があると生きる力が
湧いてきます。

その共同体感覚を高めるには
・自己信頼
・他者信頼
・他者貢献
をそれぞれ感じられるように
行動していくことです。

自己信頼は
頼もしい自分、という感覚です。

自分には力がある、
自分は○○はできないけど
○○ならできます、
自分は○○する能力がある、などです。

他者貢献は
相手の役に立つことを
してあげることです。

そして
他者信頼は
相手は自分の仲間だ、という感覚です。

仲間と一口に言っても
疎遠な仲間もいれば
近しい仲間もいます。

しかし「敵」はいません。

なるほど、これは怨親平等では?と
思いました。

誰とでも仲良くならないといけない、
ではなくて、
誰でも自分の仲間なんだ、
でも目的によって近くなったり
遠くなったりするだけなんだ、と
理解できました。

当時の私にとって
父親は「親」で「敵」でした。

「親」は大切な存在。
「敵」は攻撃してくる存在。

攻撃されるから反撃する。
反撃すると、それに反撃してくる。
さらに反撃すると、また反撃。
何度も反撃・反撃と
攻撃を繰り返していくので、
「攻撃」というやりとりを
重ねていくごとに
関係は深まっていきます。

攻撃するたびに
自分の身を守る気持ちと
相手との絆が深まる
吐き気のする気持ちとを
同時に感じてました。

そんな父親を
「敵」から「人類という仲間」くらいに
してみたところ、心が変化しました。

父親が不幸なら
助けを求めてきたりして
関係が続きそうです。

助けたくないので
助けないと
「助けてと言っているのに
助けないお前は悪人だ」と
責めてきたりして
また面倒なことになります。

「助けてと言ったのに
息子は助けてくれない。
ひどい息子だ」と
周囲の人に話して
助けざるを得ない状況を
つくろうとすることもありました。

でも
父親が幸福なら
助けを求めてはきません。

私を悪人にして
自分を善人にする必要も
出てこないでしょう。

つまり、
父親が幸福なら
父親との接点が減って
私は安心して生きられる、と
つながったわけです。

そうつながった瞬間から
憎しみから解放されました。

だって憎んでも
自分が孤立へと向かうだけですから。

孤立に進むより
共同体感覚を高めて
感じるしあわせを増やす方に
進みたいと思いましたから。

自分の人生は
自分の大切な人と
自分のために使いたいですから。


■「仲間」と認識してみる

「敵」ではないから
「味方」ということでは
ありません。

逆に「味方」でないから
「敵」ということでは
ありません。

同じ社会を構成する人、
という意味において
誰しもが「仲間」です。

その「仲間」が
「相手より自分優先」で
相手を支配したいと行動すると
「自分に都合よい人」が「味方」で
「自分に都合悪い人」が「敵」に
なります。

こんな区別をしなければ
そもそも皆「仲間」なわけです。

自分がすでに幸福なら
「相手より自分優先」など
する必要がありません。

「相手より自分優先」を
したいと思わない人は
「自分より相手優先」を
しやすい人です。

憎い相手が
「相手より自分優先」な人なら
自分を支配したがったり
自分から何か奪おうと
するかもしれませんが、

「自分より相手優先」な人なら
与えることはあっても
奪おうとは思いませんから、
こちらにかかわりなく
生きていってくれます。

憎い相手が幸福になると
自分とは別に生きていって
くれやすくなります。

だから
憎い相手の幸福を願うと
変わるのです。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。


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