例えば
教師と生徒は
「同じ」ではありませんが
「対等」です。

上司と部下は
「同じ」ではありませんが
「対等」です。

親と子は
「同じ」ではありませんが
「対等」です。

特的の目的については
その技術や情報、経験の
多い人の方が優秀ですが、
存在としての価値に
優劣は、ないわけです。



これを混同すると
とたんに関係が
「上下関係」に
なりがちです。

「上下の上」の人は
「上下の下」の人よりエライ、
というやつです。

しかし、
教師は生徒がいるから
仕事が成立します。

つまり生徒に支えられています。

上司も部下がいるから
一人ではできない規模の
仕事をすることができます。

親が子を育てることで
人の営みは続いていきます。

それぞれの
技術や情報、経験によって
責任範囲や担う仕事が
違うだけで、
存在の優劣はそこにありません。



私が幼い頃、
私が親との約束を忘れてると
親は私を座らせて
「いかに自分が損したか」を
延々と何度も繰り返し
説明してくれました。

親は
私が親の気に入る返事をするまで
私を解放してくれませんでした。

無理に席を離れようとすると
「見捨てるぞ」と脅されるので
当時の私は
親の言う通りにするしか
ありませんでした。

そのお気に入りの返事は
「今後はもうしません」
です。

再び忘れたときには
これを持ち出して
「あのとき、
今後はもうしませんって
言ったのはお前だよ!?」と
使うためです。



確かに約束を
忘れた私が悪いので
ねちねち言われ続けるのを
ひたすら耐え続けてました。

その後に
親が私との約束を
忘れたことがありました。

あんだけ言われたんだから
自分が忘れたときは
どう責任とるんだろう?と
興味津々です。

親に約束を知らせると
「忘れてた。
忙しかったからね。」
と流されてしまいました。

私のことは
とても責めるのに、
自分のことは
責めないのか!?
驚きました。



「約束わすれたんだから謝ってよ」
などと食い下がりますが、
「今忙しいから」と
相手にしてくれません。

幼稚園や小学生では
力も弱いので
くやしいけど、
どうにもなりませんでした。



高校生にもなると
力も強くなり、
食い下がり方も
親が無視できないレベルに
なります。

ものすごくくやしかったので
ものすごく食い下がりました。

それでも絶対に親は
私に謝罪はしません。

自分が悪かった、とも
言いません。

私は不公平な扱いを
公平にしてほしいだけですが
伝わりません。



父親に食い下がってると
母親に横から入られて
「おとうさんは
家族のために一生懸命
はたらいているのだから、
そんなことを言って
おとうさんを困らせては
いけません」と
妨害されます。

母親に食い下がってると
父親に横から入られて
「おかあさんは
家族のために
毎日一生懸命に
家のことしてるでしょ。
そんなおかあさんを
責めてはいけません」と
妨害されます。

1対1での
話し合いは実現せず
いつも
「私1人 対 大人2人」
という状況で、
どうにもなりませんでした。

くやしさだけが
積もっていきます。



親の連帯にも負けず
親に食い下がっていると
「親が忘れたことを
責めるのは良くないことだ」と
言い切られました。

子が親との約束を
忘れることは、悪いことで
親が子との約束を
忘れることは、あっても良いこと
だそうです。

なぜなら
親は子の面倒を見る存在、
だから親は子よりエライから、と
本音を話してくれました。

そう言われて
これ以上、この人たちに
何を言っても変わらない、と
悟りました。



営業の仕事をしている頃も
よく「同じ」と「対等」を
混同している人を
見かけました。

私自身も
そうだったかもしれません。

売れる人が偉くて
売れない人が卑しい、
そういう空気が
社内にはありました。

渦中にいると
見えにくいものですね。

でも魅力的な人は
「同じ」と「対等」を
分けている人でした。

今振り返ると
よくわかります。

そういう人は
売れない人は
売れないから
その人に価値がないんだ、とは
扱っていませんでしたから。



人はそれぞれ違います。
「同じ」ではありません。

でも「同じ」でなくても
「対等」です。

心に
この基礎があることで、
共同体感覚は
高まりやすくなります。

共同体感覚が
高まりやすいと、
感じるしあわせも
増えやすいです。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。

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