貢献感、
すなわち感じるしあわせは

相手に言われたり
反応を見たりして
感じさせてもらうものでは
ありません。

自分次第で
感じるものです。



相手の身になって
「役に立つ」と思うことをして
貢献感を感じる。

相手の課題は
相手の課題で、
自分の課題は
自分の課題と、
区別することが前提です。



貢献感を感じるのを相手次第、

つまり

相手から
「あなたは私に貢献した」との
反応をもらって初めて
自分が貢献したことにすると、

貢献感を得ることを
相手に依存することになります。

自分が相手に貢献できたかどうかは
相手の判断すること、
すなわち相手の課題です。

その課題の所有者でない自分が
操作しようとすると
無理が生じてしまいます。

これでは感じる幸せは
増えません。



実際に貢献できたかどうか、と
貢献感を感じることは
違います。

例えば
相手が喜ぶ姿を見て
「やってよかった」と
貢献感を感じたら、
それは自分で「貢献した」と
判断したからです。

相手は
「あなたに貢献された」と
思っていないかもしれません。

それでも
自分が貢献感を感じたら、
それは「貢献できたと感じた」と
いうことです。



相手が嫌がっているのに
自分は貢献したと判断したから
貢献感を感じる。

そうすることは、できます。

しかし
それを続けたら
相手との関係は
良好なままには
いかないでしょう。

貢献感を感じたけど
相手を見て
貢献になっていなければ、

良好な関係を続けるには
自分の貢献感の更新が必要です。



ある日父親が
「お前、この人に興味あるでしょ?」と
新聞の記事を切り抜いて
私に持ってきました。

興味がなかったので
「興味ないから、いらない」と
答えました。

「そんなことないでしょ。
こないだ興味あるって言ってたぞ。」

いや、確かにその人の話はしたけど
興味あるとは言ってません。

「受け取れ」「受け取らない」で
押し問答です。

あんまりしつこいので
「いいかんげにしてくれよ。
いらないものはいらないよ」と
言って立ち去りました。

その後、自分の机に戻ってみると
その切り抜きが置いてありました。

「いらない」と何度も言ったのに
どうしても受け取らせたかったのですね。

別の部屋で父親は
「善いことした」と
母親に話しているのも
聞こえました。

迷惑だ、と言っているのに
父親には、私が喜んでいることに
なっています。

こんな貢献感は
いくら重ねても
しあわせは増えません。



私が道を歩いていると
落ちてるハンカチをみつけました。

道の真ん中だと
踏まれそうなので
端に寄せます。

寄せたからといって
このハンカチの所有者が
よろこぶかどうかは
わかりません。

所有者の手に
戻らないかもしれません。

それでも
真ん中に落ちてるよりは
きっと良いはず、と思い
端に寄せました。

自然と貢献感が湧いてきて
一人じんわりと感じてました。



私には子がいますが、
子が居てくれるだけで
うれしいです。

子は何もしてませんが
私に貢献してくれてます。

と、いうことは、
私も居るだけで
誰かの役に立ってるはず。

そう思うと
貢献感を感じます。



貢献感を感じるかどうかは
自分の課題です。
相手の課題ではありません。

相手とどんな関係に
なりたいかは、また別の話です。

相手と良好な関係を
築いていきたいなら
自分の貢献感ばかりでなく
相手とのコミュニケーションも
大切にしていきたいですね。

自分の課題「貢献感を感じた」と
相手の課題「貢献してくれた」が
コミュニケーションで
一致したことがわかったときには
すごくうれしいですよね。

別々の課題なのに
一致することは
本当に尊いことですね。

貢献感を感じ、
その自分の
「貢献感を感じる回路」を
最新のものに
適宜更新していけたら、
感じるしあわせは
確実に増えていきますね。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、
常楽でした。


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