話の途中で
話と関係ない話題に
突然かわる。



だから、お前はわかってない。
だから、お前はバカなんだ。
だから、お前はうまくいかないんだ。

そんなんだから終わってると言われるんだ。
そんなんだから誰にも相手にされないんだ。
そんなんだから友達いないんだ。

話し合いだったのに
突然、評価を下されて
捨て台詞のように
「お前の負けだ」と宣言される。

それは
話し合いをしたいのではなく
勝って安心したいだけ。

権力争いをしているだけ。



自分は
相手に謝罪したり
相手を優秀とみとめたり
することは、ありえない。

上下関係で生きてるから
自分が下になることは
あってはいけない。

なんとしても
上になれるように
自分を守らねばならない。

自分に非があるとしても
下になることだけは
避けなければならない。

自分で自分を
呪縛するような
苦しい生き方をしてる。



話し合いで旗色が悪いと感じると
権力争いに持ち込もうとする。

お前が負けで
自分が勝ち。

敗者は黙って勝者に従え、と。

話し合いではなく
権力争いで勝つことで
終わらせようとする。



私が小学生の頃。

父親が探し物をしてて
私がなくしたと疑ってきた。

何度も「知らない」と答えるのに
それを信じようとしない父親。

私がなくしたと信じている父親は
自分が信じていることを実現させようと
懸命に何度も私を疑った。

死んで証明するしかないのか、と
思ったくらいに、
父親は私の話を信じなかった。



その後、母親が
その探し物を父親自身が
仕舞うところを見ていて
自分で仕舞っただけと
判明した。

見つかってうれしいと
私に報告する父親。

ものすごく不快で、
あれだけ疑ったのは何だったんだと
謝罪を父親に求める私。

すぐ「ごめんね」と
言ってくれると期待したが、
違った。



さすがに父親も
自分が悪いと思ったようだが、
上の自分が
下の子供に
謝罪することはありえない。

断固としてそれだけは
避けなければならない事態。

そのためには
何をしてもかまわないと
本気で信じている。

「お前はそんなこと言う子じゃないよ」

「見つかったから、良かったじゃないか」

「おとうさんは疑ってないよ」

「お前を信じてるよ」

「おかしなこと言うね」

「おとうさんがそう言った証拠は?」

「お前だってあるでしょう?
勘違いすることだって」

「そんなこと言ってると笑われちゃうよ」

「おとうさんは、何も悪いことしてないよ」

「おとうさんは一生懸命に
家族のために働いているよ」

「ひどいこと言うね」




母親も横から入ってくる。

「そんなことおとうさんに言っちゃいけません」

「見つかったんだから、もう終わり」

「おとうさんのおかげで
私たちは生活できているんですよ」

「そんなこと言う子は、要りません」



ひどく疑われて
信じてもらえなくて
とても悲しかった。

それを話しているだけなのに
扱ってもらえない。

親の役に立ちたいだけなのに
権力争いにされてしまう。

小学生が大人ふたりに
かなうはずもなく、
さらにひどい扱いを受けたと
おき火のような怒りが
残るだけだった。



権力争いをする、ということは
上下関係で「自分が上」を
成立させようとすることです。

自分が上になれば
安心できます。

しかし、
下となる人がいなければ
上にはなれません。

相手に犠牲を払わせて
自分の利益を得ようと
しています。



上は下にどっぷり依存しているのに
上は自立していて
下は自立できてないと見えてしまう。

そうして権力争いで
他を支配すると
何かと自分に都合よくなります。

その状態を維持継続するために
何かあると
「権力争いをして勝つ」を
すればよいと思う人となります。



意見や価値観が違うのは
ただ「違う」のであって
どちらが善で
どちらが悪だ、
ということではありません。

設定する目的によって
それぞれの貢献度が
変わるだけです。

常に自分を善とするべく
権力争いをするのは
自分の属する共同体の利益ではなく
自分の利益を優先しています。

それでは
共同体感覚は高まらず
感じるしあわせは増えません。

権力争いよりも
共同体全体の利益を実現する方法を
選べば、
感じるしあわせは増えます。





お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。


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