感情にも
行動にも
それぞれに目的があります。



目的があって
それに応じた感情が湧き出し、
目的があって行動をする。

その時は
その時の目的を達するために
自分が「正しいもの」として
自分の意思でやっています。

後からそれを

無意識にやってしまった...
不可避的にやらざるを得なかった...
などと

自分の意思の存在が
なかったかのように話し、
自分には責任はないと釈明する人を
見たことはあるでしょう。

しかし、
その行為は間違いなく
その人の意思によって
行われていますから、
当然その責任も
その本人に、あります。



行為に及んだ時と
後から振り返る時は
「目的」が違います。

行為に及ぶ時は
それをやりたかった。
その「やりたい」が目的です。

後から振り返る時は
その行為の責任とるのは
不都合だから、
責任は自分にないことにしたい。
その「ないことにしたい」が目的です。

目的が違うから
その人の行動も
違うわけです。



例えば、
話し合いの中で
感情的になって
相手を叩いた場合。

叩いた人は
叩く目的があって
それを達したいために
自分の意思で叩いています。



でも、
叩くことは暴行ですから
場合によっては
刑法で裁かれる行為です。

叩いた人は
叩いた事実が
不都合な事実となります。

そこで、叩いた事実の
責任を負わずに済むように
うやむやにしたい、
なかったことにしたい、
そんな行動をしたくなります。

叩く時と
叩いた後とでは
行動の目的が違うのですね。



しかし、いくら努力しても
叩いた事実が
消えることはありません。

当然、その叩いた責任も
消えずに叩いた人にあることも
変わることはありません。

「無意識にやってしまった」
「気づいたらやっていた」
などと言い訳することは、

事後に自分の不都合を
消すそうとしているに
過ぎないわけです。




元配偶者が
子供の教育と称して
おしり叩きをしてました。

本人は
叩きたくて叩くのではない。

叩かないと子供はわからないから、
叩くしかない、として
自分が子供に暴力するのを
正当化していました。

元配偶者の世界では
子供の教育のためには
おしりを叩くことは、
正しいことになっています。

でも、叩くことは暴力です。
暴力は、する本人にしか
利益をもたらしません。

元配偶者が
「叩きたいから叩いている」
わけです。

無意識とか
不可抗力とか
いくら言ったところで
叩いた責任は、
その本人にあります。
消えることはありません。



本当に正しいことと
信じていたようで、
元配偶者は
子供の教育として
おしりを叩いてますと
児童相談所の人に話してました。

当然、
虐待する母親として
公式に認定され、
これを機に状況が一変しました。



相手から
自分のした何かで不快になった
と聞いた時に
すぐに「ごめんね」と言うと
関係が悪化していかないのは

不快にした事実、を認めたためです。


「そんなこと気にするの、おかしい」
「いちいち言わなくていいよ」
「私が悪いって認めりゃいいのか?」
「無意識にやったことだから私は悪くないよ」
などと、相手の不快の事実を
認めない場合には、
良好な関係の維持は難しいですね。



これからやることには
やることの責任も織り込んで
取り組んでいくことで、
確実に幸せも増えていきますね。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ7年目、常楽でした。



《関連記事》
失礼なことを言ってしまったときは、言った自分ではなくその出来事を見る
気持ちと行動を、大切に分けて扱いたい
「感情的」より「真剣」に伝えたい
暴力とは:行為+認定
未来をみる、とは
子に生き方を説くなら、最後まで誠実に