フットボールはエンタテイメントが保証されていない

 

ひとは何故にこうもフットボールに熱狂するのだろう?

 

スタジアムで一喜一憂する人々を観察しながら、いつもこの問いについて考えてきた。

 

「フットボールは、エンタテイメントが保証されていないエンタテイメントである」

 

これはある試合の翌日、「しょぼい試合だったね」「退屈だった」「内容の薄いゲームだったよね」といったスタッフ間での雑談の中で、私が発したもの。

 

私たちスペインのクラブは、年間リーグ38試合、UEFAコンペティションや国王杯にもよるが、ざっと50試合をこなす。

 

そもそも、フットボールを「エンタテイメントである」と位置づけることにすらアレルギー反応を示す方もいらっしゃるのを承知で、またスペインではフットボールを「エンタテイメント」ではなく「スペクタクル」という言葉で表現することが多いが、ひとまずここではフットボールをエンタテイメントと位置付けて思考を深めたい。

 

一般的にエンタテイメントとは、コンサート、ミュージカル、演劇、オペラ、サーカスなどの興行を指す。

 

フットボールの試合開催を舞台に置き換えてみると、計50試合のうち半分がホームゲームなので、私たちクラブが運営する公演日数は365日のうちの25日ほどとなる。

 

全人類に平等に与えられたもののひとつが「時間」であるが、資源としての「時間」。資産としての「時間」。時間を24時間という有限で貴重なものと理解ができる。

 

私たちクラブを応援してくださるサポーターは、彼らのその貴重な「時間」のうち、試合前後を含めおよそ3時間を私たちの「公演」のために費やす。

 

また当然だが、「時間」だけでなく、チケット、年間シート、OTTやPPV視聴のための入会金など、金銭的な消費もする。

 

サポーターからは、「僕にとっては光熱費や食費と同じ生活費の一部さ!」「私にとっては幸せへの投資なの!」といった素敵なコメントを頂戴する一方、チームがふがいない試合をした後や、満足のいく結果が残せなかったときには、「無駄だった!」「かねかえせ~」などといった厳しいお言葉を受けることもある。

 

ハズレ試合

 

フットボールには、俗に言う「ハズレ試合」がある。

 

スローペースで退屈なゲームもあれば、ファイト溢れるプレーが伝わってこないもどかしい試合もあるし、格下と言われる相手に対し惨敗することもある。

 

「ハズレ」の定義は人によって若干異なるのかもしれないが、やはりフットボールには「ハズレ試合」が少なくないものだ。

 

なのになぜ、フットボールはこれだけ人を魅了するのだろう。

 

多くの人にとってフットボールは、貴重な時間とお金を使って、それらが結果的に「浪費」になったとしても、「それでも鑑賞したい」と思うに値するエンタテイメントである。

 

「ハズレ」を承知で、幕が下りるまで未知数だらけの「フットボール」という公演に対し人びとは、眠くなる演劇や、感動しないコンサート、ドキドキしないサーカスにはおそらく費やさないであろう「時間」と「お金」を躊躇うことなく使う。

 

そして、プレーのひとつひとつに一喜一憂する。

 

民主化とフットボール

 

人びとをそうさせるのは何故なのか?その「何」を探るべくまず、30年ぶりに教科書を引っ張り出しスペイン史をおさらいしてみた。

 

フットボールが「クラブ」として組成され、そのクラブが「ソシオ(会員)」制度によって発展、文化となりスペイン各地に根付いていった。

 

この100~120年という月日を、歴史的背景を探りながらフットボールの発展経緯と重ね合わせ振り返ってみたい。

 

世襲王制、貴族の爵位継承などの縁故主義(西語:Nepotismo)への大衆の不満、より民主的なメリトクラシー(西語:Meritocracia)を求める動きなどが、フットボールの発展に多少なりとも影響したのではないか。

 

教権主義、君主制、独裁政権による支配統治下において、自由と民主化を訴える国民感情がそこにあったのではないか。

 

思想や信仰、意思や思いすら自由に表現することが認められない社会で、抑圧・弾圧からの解放を人びとは求めていたのではないか。

 

そんなとき、民主化や自由への希望として、そこに「フットボール」があったのではないだろうか。

 

ソシオという名のアイデンティティ

 

広義での「Voz & voto」=「声と票」(意見をする・票を投じるという意味)、すなわち彼らは意思決定プロセスへの参加や国民としての社会参画の文脈と同様に、自らの存在意義を確認するかのごとく「自己表現の機会や場」を求めていたのではないだろうか。

 

そして、まさにその「場」や「機会」を得るための手段こそが「フットボールクラブのソシオ(会員)になる」だったのではないか。

 

それが町づくりのスタンダードなのか、スペインではどんなに小さな町にも教会、広場、劇場、闘牛場、そしてサッカー場がある。

 

宗教・信仰、祭り・集会、演劇・文化・芸術、闘牛(※現在は禁じる自治州も)、そしてフットボール。これらはいつも市民の生活圏内に当然のごとくそこにあった。

 

100年前なのでいまほどの規模ではなかっただろうが、小さかれ、ひとつの組織において「Voz & voto」を手にし意思決定プロセスに参画するという事実は、抑圧された時代を生き抜く人びとにとって「アイデンティティ」という名の希望となり、強固なコミュニティが確立されていったではないだろうか。

 

ムーブメントを起こすコミュニティ

 

1990年、スペインでは法改正を受け、それまで非営利であったスポーツクラブの法人化が義務付けられ、プロリーグに所属する全スポーツクラブは「SAD」(スポーツ株式会社)に組織を変えた。(※レアル・マドリード、バルセロナ、アスレティック・ビルバオ、オサスナを除く)

 

法人化されたことで、フットボールクラブの機能や役割は多少なりとも変化したし、時代の変化や情勢に伴って、フットボールクラブへの社会的要請が厳しく求められるようにもなった。

 

一般企業であれば株主が主権を握るのであろうが、スペインのフットボールクラブでは法人化し30年経ったいまでも旧来の「ソシオ文化」が根強く残っているのが特徴だ。

 

例えばうちのクラブだと、筆頭株主は会長であるフェルナンド・ロッチュ氏以下実業家ファミリーであるが、ロッチュ会長は「あくまでも私は経営者に過ぎず、クラブのオーナーはサポーターの皆さんです」との姿勢を貫いている。

 

こうしたトップの発言も、ソシオ文化が歴史を経て確固たるコミュニティとして確立された証かもしれない。

 

こうしてみると、過日バルサ女子がカンプノウに9万人を動員した"奇跡"も説明がつく。

 

バルサのようなメガクラブはそもそも規模が違うが、コミュニティという名のマス(mass)を動かせばムーブメントが起きる。

 

「"うちの"レディースがカンプノウで試合するらしいよ!」となれば、ソシオひとりあたり4名まで招待券を付帯させるなどの戦略をうち、もちろん簡単とはいわないが、9万人を動員することは十分可能だったのだろうと想像する。

 

フットボールは人を幸せにしない?!

 

フットボールは他競技と比べても加点が極端に少ない競技なので、感情曲線のピークに到達することが限定的である。

 

観る者にとっては、歓喜よりも失望やフラストレーションといったマイナス感情を感じる回数や頻度が高い競技とも言える。

 

それでも何故か人々はフットボールに熱狂する。

 

スタジアムのスタンドで、自分の会員番号が印字されたシートに座り「ああだ!こうだ!」と誰にともなくフットボールについて熱弁をふるう。

 

決定機を逃したプレーに対して、「あれは足じゃなくて頭で押し込むべきだった!」などと、周囲を見渡し見知らぬ他人と「なぁ、そうだろ?」と謎のアイコンタクトで承認し合う。

 

そこに”ソシオ”たちに特別な一体感が生まれるのだ。

 

空間、機会、体験

 

これから私たちクラブは、サポーターの皆さんに何を提供し続ければいいのだろう?

 

・感情を開放できる

・意思や意見を表現できる

・見知らぬ人とも繋がり合う

・一体となって帰属意識を感じる

・「自分」というアイデンティティを実感できる

 

これらの要請に応じる「空間」「機会」そして「体験」をサポーターの皆さんに提供する。

 

フットボールに従事するとは、強いチームを作るだけでなく、こうした側面も大切にすることを意味する。