Jリーグを退任して2年半が経つというのに、いまだに多くの日本のスポーツ関係者とお話しをする機会を頻繁に頂いている。普段私は、スペインの人たちとしか関わる機会がないので、日本のスポーツ界を牽引される皆さんとのオープンなスポーツ談義は新鮮で心地良い。
一方で、そんな皆さんとの会話の中でたまに、「ピースの収まりが悪いパズル」のような感覚を覚えることがある。うまく表現できないのだが、違和感という言葉が近いだろうか。一体、その微妙な収まりの悪さの原因はなんなんだろう。そんなモヤモヤを私はずっと抱えてきた。
そして最近になって、そのモヤモヤの輪郭が少し見えてきたような気がしている。
今日は『民主主義と資本主義の狭間で揺れ動く日本スポーツ』と題し、欧州スポーツに代表されるような民主主義的スポーツの理解と、資本主義の効力を最大限に生かしスポーツを発展させてきた米国的なビジネス手法について考察してみたい。
人にはそれぞれ、その人がどこに身を置き(環境)、何を生きてきたのか(体験・経験・実践)といったコンテクスト(背景)がある。改めて言うまでもないが、私のキャリアはコテコテの欧州型スポーツなので、米国型スポーツビジネスに関しては、素人どころか無知であることをご了承いただき読み進めてもらえれば嬉しい。
【欧州民主化とフットボール】
今日、民主主義と資本主義は多くの国で共存している。近年グローバル化の影響を受け国際的な経済システムの中で、民主主義的な決定と資本の論理が衝突することもあり、しばしば緊張関係が生じる。こうして資本主義が民主主義を脅かす側面を持ち合わせるなど、両者の関係性はなかなか複雑だ。
さて、その民主主義と資本主義は、スポーツ界においてどのようなプレゼンスをもつのだろう。
欧州フットボールの歴史を辿ると、欧州における民主化の波、人権概念の発展、自由の獲得、市民社会の形成といった「民主主義化」と共に、150年かけて発展してきたことがうかがえる。
1789年フランス革命などもそうであるように、専制政治や強大な権威への抵抗からはじまった市民社会への波。パリ五輪の開幕式などからも、フランス国民の自由、平等、市民社会への思いの強さを感じたのは私だけではないだろう。
フットボールを語るとき、それまでの欧州では、奴隷貿易や身分制度などといったとんでもない社会が「あたりまえ」であったことを忘れてはならない。
イギリスやフランスで奴隷貿易や奴隷制度が禁じられ社会が改善されはじめ、さらに米国でも奴隷制が廃止されたちょうどそのころ欧州でフットボールクラブが誕生し始めている。
身分、人種、民族、性別などによって、できることできないことが制限・制約される社会。権威の前に無力な存在。自分の思いや考えを表現できる場や空間もなく、自己を実現することが許されない社会。つまり、権威を持たない階層の一般市民は自由でない存在として、「自分はなぜこの世に生まれてきたのか?」と永遠の問いに悶々としていたのではないだろうか。
1900年代、人類は二度の世界大戦を経験する。第一次世界大戦後、多くの君主制が崩壊、新しい民主主義国家が誕生する。そんな時代背景の中、1923年に私たちビジャレアルCFも誕生している。
そこからのスペインは、陸軍大将によるクーデターと強権政治、国王の退位亡命、共和政体の誕生、多くの市民が命を奪い合った内戦、そして独裁政権と、壮絶な暗黒時代を過ごす。
さらに1939年第二次世界大戦が勃発するもスペインは参戦せず。しかし、1945年第二次世界大戦終結後に設立された国際連合は、スペインをファシストの国として排除している。
人類史上最大の死傷者を生み、多くの人々がいまもなお心に深い傷を負う第二次世界大戦後、人権が世界平和の基礎であるという考えが広まったと言われている。そして、その世界人権宣言の第一条には「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と記されている。だれにも奪えないあなたの権利。けっして奪われず譲ることもできない不可侵性を持つもの。すべての人が同じように、平等に無条件で持つ普遍のもの。それらを「人権」という。
1973年、昭和48年生まれの私には、「あなたは自由な存在だ。尊厳と権利をもつ平等な存在なんだよ」と言われても、生まれたときから自由や人権を(ある程度)普通に与えられて生きてきたので、私自身一体どこまで本当にその価値を理解できているのか、実はあまり自信がない。
私たちが生きるこの時代にある「いまのフットボール」を深く理解するには、こうして150年かけて欧州が辿ってきた時代背景抜きには語れない。
イギリスの歴史と照らし合わせてみれば上流階級やブルーカラーなどといった言葉が示す通り「階級制」、ドイツなら「ギルド」や「優生思想」、そしてスペインでは「民族や自治権」といったキーワードが浮かびあがる。
自分たちの言語を禁じられ、教科書を塗りつぶされたり、書物を廃棄されたり、民族衣装を焼かれたり、民族独自の音楽や芸術またはお祭りが禁じられたり、さらには身柄を拘束されたり、言葉にしたくもない残酷で想像を絶する抑圧が社会に蔓延っていたことだろう。
現在において、フットボールクラブがスポーツクラブ以上の役割機能を果たしているようなケースがあるのも、彼らが歴史上多くのことを禁じられ、奪われてきた過去と無関係ではないはず。地元出身選手しか獲得しない方針でチーム編成をするようなクラブも同様で、彼らにとって民族・言語・文化継承を最優先する意思がそこにあるのは、過去に禁じられ、迫害され、はく奪されてきたからだろう。
長い間、抑圧されてきた人々は、やっと手に入れた自由をそう簡単には手放さない。オートクラシー的な動向、つまり特権や強者による作為的な行為にとても敏感だ。そして彼らは、そうした権威に対し全身で抵抗し闘う。のちに言及するが、欧州市民による欧州スーパーリーグ構想への抵抗は、市民社会としての在り方がそのまま映し出されたものだったと私はみている。
市民社会とは、封建的社会体制から解放され自由と平等を獲得した自立的個人である市民によって成し遂げた近代の新しい社会の形である。いわゆる市民階級が封建的な身分制度や権威に反発し、抑圧社会から解放され自由と平等を自ら手に入れた近代社会ともいえる。
そんな時代を経て、市民が自由を勝ち得ながら社会が確立された長い道のりがあり、自由や民主主義というものが欧州市民にとっては「生命」や「存続」と近い意味合いを持つことをまずしっかりと理解しないことには、「欧州ではフットボールが文化になっている」「フットボールが地域に根付いている」「100年の歴史を持つクラブ」などという世界を理解するのは難しい。
【メリトクラシーと資本主義の介入】
さて一方、スポーツ大国アメリカはどうだろう。
当然、米国も「自由と平等」を掲げる国家だが、スポーツにおいては資本主義を優先することで、米国型スポーツビジネスを確立、スポーツの発展に寄与している印象を受ける。
これまでずっと私が、パズルの収まりが悪いようなモヤモヤを感じ続けてきたそのピースの正体は、描く世界観と理念が「欧州型」であるにも関わらず、戦略施策として打つ手が「米国型」であることに起因しているのではないだろうか。
米国のスポーツビジネスの発展は「資本主義」を原動力にパワー全開、牽引することで実現している。一方、欧州型スポーツの土台には「自由と平等・市民社会」といった社会的価値がずっしりと重たく横たわっている。
共に、人の幸せに通ずることに違いはないが、欧州と米国のプロスポーツの本質の違いはここにあるのではないだろうか。
Jリーグ初代チェアマン川淵三郎氏が数十年前に目にされたドイツの景色は、Jリーグの原型になっていると言っても過言ではないが、その原風景こそ、欧州市民が自ら手に入れた「市民社会」そのものだったのではないだろうか。
いまもなおJリーグは理念を掲げ、スポーツの基盤を企業から地域に転換させ、Jリーグ百年構想では「スポーツで、もっと、幸せな国へ。」というスローガンのもと、「地域に根ざしたスポーツクラブ」を核としたスポーツ文化の振興活動に取り組んでいる。
日本のスポーツ業界には優秀な人材が溢れている。しかし、それらスポーツビジネス界のリーダーたちの多くは、米国でスポーツビジネスを学んで来ていることが多い。
Jリーグに関していえば、描いている世界観が欧州フットボールであるにも関わらず、米国型スポーツビジネスが実践されている印象だ。言い換えると、「大義」が欧州型で、「How to」が米国的ともいえるだろうか。
ひとつの例を挙げると、欧州スーパーリーグ構想のような昇降格が無いクローズド型リーグは、欧州市民にとって受け入れられない。欧州市民にとって、スポーツにおける昇降格システムは「メリトクラシー」そのものだ。長く苦しい「オートクラシー」の歴史を経てきた欧州では、オートクラシー的制度は「自由や権利の侵害」を意味する。
欧州スーパーリーグ構想のようなクローズド型リーグは、まさに「オートクラシー」=「権威」「階級」を意味し、限られた者たちだけに与えられる権威社会である。
一方、昇降格制度は、階層や民族を問われることなくあまねく誰にでも、チャンスが与えられるシステムだ。上流階級のチームも、労働者階級で構成されるチームも、外国人移民で編成したチームも、大規模クラブも、町クラブも、そこに差別的もしくは排他的機能は存在しない。
自由と平等が当たり前ではなかった時代、人々は生き抜くために「抵抗し闘う」か、「諦め従う」か、いずれの選択肢しかなかったであろう。
そんな社会で、異なる階層、異なる人種、異なる民族が同じ土俵で、同じルールのもと、90分対等に戦うことができる数少ない「平等」な場、それがフットボールであったはず。そして、そこには「希望」と「期待」が生まれ、生きる勇気が持てたのではないか。
出自で社会参画が制約・統制されていたあんな時代でも、フットボールだけは、おらが町のクラブでソシオ(会員)になりチームを応援することで、誰もが声を上げ(意見)、意思決定に参画することができた(投票)。
「自分は何のためにこの世に生まれてきたのだろう?」 選択の自由や異なる思想が許容される民主的ではなかった時代、抑圧された社会で自分の存在意義を問い続ける市民たちは、フットボールをきっかけに、自分の存在意義を模索、そこに社会参画といった自己実現の場としての空間・居場所を見出していたのではないか。
日本で最近目にするリーグ戦の新国立競技場開催。はじめこの施策を見聞きしたとき、大きな衝撃とともに、暴動が起こりやしないかと本気で心配した。
私が感じた衝撃は、ホームゲームを他都市で開催するという感覚が欧州的に「あり得ない」ものだったからだ。言うまでもなく、私たちにとってクラブは市民のものなので、それが彼らの「聖なる領域に立ち入る」ことを意味するためだ。
欧州において、ホームゲームを他会場開催するのは、テロや戦争といった緊急事態(私たちも昨年イスラエルの国との対戦で実際にあった)、もしくは、差別行為や発煙筒の投げ込みなどに対する制裁措置を受けての会場変更命令か。少なくとも通常のリーグ戦ホームゲームを他都市に移すだなんて、欧州だったらきっと穏やかには収まらないであろう。
しかし、こうした「あり得ない」といった感覚も、あくまで私がスポーツを欧州的に理解しているからに過ぎない。例えば、スポーツの在り方を米国的に学習していたとしたら、何ら違和感なく受け入れることができるのだろう。
根本的に歴史的背景や文化が異なるので、スポーツが発展してきた過程、スポーツの在り方、スポーツへの理解や期待など、全てが欧州と米国ではずいぶんと異なるのだと想像する。
【原風景そして現実】
さて、それでは、これら欧米両極のスポーツの在り方を参考にしながら、日本国内でスポーツを発展させるには、どのような道があるのか。
30年前Jリーグができたころ、1990年代初期の日本には当然のように自由があったし、市民が命をかけて自由を獲得しようと闘争するような時代ではすでになかった。なので、市民にとって地元サッカークラブが意味するものが、欧州フットボールクラブのそれと異なるのは当然かもしれない。それぞれのリーグが生まれた時代背景、情勢、獲得してきた人権の数々など、あまりにも全てが違い過ぎて、他国のスポーツビジネスモデルと比較すること自体に無理があるのかもしれない。
Jリーグには理念がある。
アメリカの各種スポーツのように、例えば球団が名前を変え、本拠地を移転しても、市民がさほど気にしないような「別物」になるわけにはいかない。市民がスポーツを「エンタメ」として理解し、それをそれとして楽しみ、喜んで消費しに出掛ける場所につくり変えることはできないのだ。
「入場者数が伸びなくて・・」「スペインではどんな集客施策を実践されているのですか?」と悩まれるスポーツ界の方は、サッカー関係者だけではない。そしてそんな相談を受けるたびに、私は最近きまって、この欧州における民主化の話しをする。
もちろん、歴史や文化、市場規模も違うので、集客努力にリソースを浪費せずに済む私たち欧州フットボールクラブと照らし合わせるのは無理があるだろうが、いまある欧州フットボールの姿が、どこからきているのか。何に支えられているのか。それを理解することで何らかのヒントが得られるかもしれない。
ある方は、「ぼくは、スタジアムのディズニーランド化が進むことに対し、ずっと違和感を感じてきました。これが本来、ぼくたちクラブが目指すべきことなのだろうかと」。これまで、立場上きっと言えなかったのであろう思いを共有してくださった。
スポーツクラブは、自クラブの成長のために、あと何千発の花火を打ち上げればいいのだろう。あと何百機のドローンを飛ばせば十分なのか。次はどんな芸人さんや人気グループを招待すれば目的が達成されるのだろう。
このまま、アリーナやスタジアムのディズニーランド化を強化し、演出を徹底することで、クラブは地域に根づき、スポーツは文化となり、半永続的な存在として社会にとって不可欠な役割を担えるのだろうか。
おじいちゃん・お父さん・息子、おばあちゃん・お母さん・娘の三代が揃って2週間に一度のホームゲームに通い続けてくれる家族は、どうすれば増えるのだろう。また、それが四代、五代・・と継承されていくには、いま何を醸成すればいいのか。
アリーナやスタジアムに人を招き入れその内側で可能な限り消費を促す施策から、半永続的や地域密着といった文脈が育まれるために、どのように導線を繋げていくのか。
かく言う欧州フットボール界も、民主主義的理解と資本主義的経営が衝突する毎日だ。近年のフットボール商業化の波に飲まれながら、LEDライトショーで演出をしたり、スタジアムに商業施設を隣接したりといった資本主義的マーケティング戦略にも積極的にチャレンジしている。
いまやどの欧州クラブでも、資本主義を活かした戦略と民主主義的なコミュニティーケーションが(コミュニティとコミュニケーションを掛け合わせ私が作った造語)バランスよく共存し、互いのメリットを活かし相互作用をもたらすようなビジネスモデルを模索すること。それが優先課題であることは間違いない。ただそれは、欧州フットボールを支える「聖なる領域への不可侵」が前提にあることも忘れてはならない。
スポーツを発展・繁栄させるのは難しい。でも、だから楽しい。
