“変わりもん“がいいじゃない!!

“変わりもん“がいいじゃない!!

人間も動物やん!って気づき、人と動植物が共に生きる”いきとも®︎”を当たり前にしたい!!と考える、人を元気にする獣医師のかおりんです。そんな思いをYouTubeでも配信中。人を元気にする獣医師かおりん 又は「いきとも」で検索してみて下さいね!

このブログは、
“変わりもん“がいいじゃない?!
ですが

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“変わりもん“ということについて・・・
私の中で、
“変わりもん“というのは
少数派かもしれないけど、
自分を持っていて
それを貫いている。

それでいて、
孤独でなくて
「孤高」である。

これからは
“変わりもん”の時代❣️
“変わりもん“がいいじゃない?!
って思いませんか?!
      


お友達が

息子さんと一緒にお花を習いたいと

言ってくれていたのですが、

お花屋さんが廃業されて

どうしようかと

思っていたのですが・・

 

 

灯台下暗し‼️

 

少林寺拳法をしている仲間に

お花屋さんをされている方がおられて

お花用の花を

お願いすることができました。

 

 

お花のお花は、

木の枝物がいるので

普通の花束や

フラワーアレンジメントとは

また、ちょっと違うので

お花屋さんに行って

仕入れてもらえるか

聞かないとわかりません。

 

それに、

いろいろな流派や

好み?!というかがあり、

すぐ生けられるイメージであるか?!とか

なかなか難しいのです。

 

^^^^^^^^^^^^^^^^^^

 

 

昨日は、

お友達にお花を受け取りに行って貰ったので、

今までのように、先に自分で生けておいて

それを

見本にしてもらうということが

できなかったのですが、

初めてのお花を前に

イメージが湧きにくいようだったので、

途中まで一緒に生けていましたが

ささっと生けてこんな感じでと

見本にするようなことができるくらいに

いいお花のチョイスで、

私が好きな感じでした。

 

しかし、

久しぶりに買ったお花を生けました。

 

迷いなく生けられる‼️

 

 

これは

お花屋さんが

花道を知っておられるからこそで、

お花屋さんが凄い❣️

 

感謝しかありません‼️

 

久しぶりに

人と一緒にお稽古しましたが、

お花はやっぱり教えて

初めて身につくなあ・・

と感じました。

 

 

親子で来てくれたので、

息子ちゃんが

「自分の作った竹の花器に生けたい!」

と持ってきてくれました。

 

せっかくなのでそちらにいけてみよう!

ということでいけましたが、

自分で生けたいものがあると

持ってくるくらい興味もあるので、

それを伸ばしてやりたいと思いましたが、

何も心配することもなく・・

彼は天才でした❣️

 

お母さんには、

お花の切り方や

生ける時のちょっとしたコツのような話を

したかなあ???!

 

 

事前に準備していたような

お花のことは話さなかったけど、

それよりも

お花が楽しいもので

興味を持ってくれたことが嬉しい。

 

お花を身近に感じて

愛でて欲しいです❣️

 

これが私の目指す

”いきとも”🄬~ともに生きる~

 

 

 

 

一つ前のブログで、

「無駄」について書いた。

 

 

そして・・・

その後

何だか心の中が

「ざわつく」?!

というか・・・

「違和感」というか?!

 

ちょっと

引っかかる。

 

それは

何なんだろうか?!

 

と考えた・・

 

それでまた、

自分の考えを書いてみたい。

 

 

前回、

お花のことを書いた。

買ったお花は真っ直ぐであったり

お花もたくさんついているし

とても豪華で良いのだけれど・・

 

自然の花を扱うようになると

言い方は悪いけれど

生けていて

「面白くない」

のだ。

 

 

これは

きっと好みの問題で

お花を作っている

農家さんが悪いわけではない。

 

で、思ったこと。

^^^^^^^^^^^^^^^

 

そもそも、

お花は元々は

野山のものを取ってきて生けていた。

 

山を持っている人は

山の手入れをするときに

剪定をして、

いい枝をお花の材料として売っていた。

また薪としても

使ったり売ったりしていた。

と思う。

 

それが「自然」であった。

 

 

 

そうして

人が

山の手入れをすることで

山の中に光が入り、

余計な枝木を切って、

何十年もかけて木を育てていたのだ。

 

今は山は手入れされていないから

本来奥山から降りてこなかった

猿やクマが出てくると問題になっている。

 

 

なぜ

手入れされなくなったのか?!

 

お風呂や火を起こす役目の

薪はガスを捻ったら

出てくるのでいらない。

 

山の木も

外国から輸入された方が

安いから、儲からない。

 

みんなが働くことで

必死で

働くことが変わってしまった。

 

そこは

「経済」であり、

儲からないことはしないという

「事実」

 

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そう考えていくと・・

「無駄」というのも

少し見え方が違ってくると思った。

 

 

今書いた山の木の話のように

昔は

いろいろなものが

「循環」していた。

 

今日食べることが

一番であった時代。

 

今は

日本ではそのようなことを

考える必要はないくらい

「豊か」?!

 

あれっ?!

昨日話していた「無駄」というのは

京都とかの調度品と

輪島塗りとか

日本の伝統工芸といわれるもの・・

 

 

世界中の博物館にある

昔に作られたもの。

 

今の時代とは全く違う・・・

 

ではその当時の人々の

「何?!」が

そのようにさせたのだろうか?!

思いを馳せてみる。

 

そして

私が至った結論は

「自然に対する敬意」

とでも言えばいいだろうか?!

 

人によっては

それを宗教というのかもしれないが・・

 

例えば

器でも

単に食べるというだけなら

何でも盛り付けられたらいいので、

どんなものでもいいはずだ。

 

しかし、

ものが溢れかえっていない中で

自分のいつも食べるご飯の器を

長持ちするように機能を高めていく中で

せめて自分なりに美しくしようとか

していったのではないだろうか?!

 

 

機能美?!

 

というか?!

 

使い勝手はいいけど

無駄がない。

そして洗練されたものが

今も

残っているのだろうと思う。

 

だから人々の心を打つ。

 

 

長い年月を経てきただけではない

当時の人たちの想い

生き様・・

 

きっとそんなもの。

 

無駄

それは

自然の中で

人の知恵によって

自然に

生まれたもの。

 

だから

何とも言えない味わいがある。

 

 

人が食べることに困らなくなったのは

この100年足らず。

とは言え

世界中には飢えは

存在しているというのも事実。

 

明日食べるものがないというところでは

文化がないのか?!

というとそうでもない。

むしろ、

「今日」生きることについては

充実しているかもしれない。

 

そう・・

「文化」

 

人がいて

生きていく中で

何かをしてもらった

感謝のお礼であったり、

食べて行く為に

天から授かった才能が

生み出したものであったり、

人との違いを認めていく中で、

自分にできることを

みんなが出来て

社会が成り立っていくのであれば

そこに「無駄」という

「ゆとり」ができるのかもしれない。

 

私は「無駄」というのは

究極のゆとりというか

「自己表現」と思った。

 

 

そしてそれは

皮肉なことに

他人より上に立つとか

虐げられるとか

いう社会的な差別や

困難がある中での方が

よりいいものができるような気がする。

 

それは

人間も動物であるから。

 

賢いようでいて

人間はかなり

バカな動物。

 

 

 

自然の中では

道具がなければ

他の動物には勝てない。

 

その辺が

わかっていないことが

人間のアホなところ。

 

自然から

人間が離れすぎて

おかしくなっているとしか思えない。

 

しかし

自然は優しくもあり

厳しくて

何一つ自分の思うようにならない・・。

 

 

それが大前提だとしたら・・

自分の食べる器一つとっても

愛情を込めたり

工夫をしたり

するというのも

わかるなあと思うのは

私だけなのだろうか?!

 

 

私は

いきとも〜ともに生きる〜

という考えで生きたいと思うので

そう思うだけなのだろうか!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本日、

ある方と話していて

奥の深い話になった。

 

 

もともと、

近江商人の3方よしの話から

地域性と人間性と

刷り込みについて話していた。

この話も

かなり面白かったのだが・・・

そこから

昔ながらの伝統工芸や調度品などを

扱う京都や石川などのお国柄の人は

「無駄が大事」

ということを言うという話になった。

 

 

ふと、

大学の学園祭に

当時F1の解説をされていた

古舘伊知郎氏が講演会をされた時も

そのようなことを言われていたなと

思い出す・・・

 

ただ、話の流れが違ったので

そのことは話さなかったが・・・

 

古舘氏は

当時「楢山節考」の映画が流行っていて

本当は、

生活が苦しくてお母さんを捨てに行くという話が

最後のエンドロールから巻き返すと

おばあさんを拾った話になるといわれ、

物事を反対から見てみることが大事

ということを話されていたように思う。

 

その時にも

人生には無駄はない❣

無駄が大事なんだ・・・

という話を

されていたのを思い出した。

 

 

話が逸れたので、戻そう・・・

 

私が話したのは、

私は、長年お花を生けてきた。

最初は恩師に学びながら、

お花屋さんが廃業されて、

いろいろとあって

今は、

自分の家の庭のお花を生けている。

 

 

そうなってみて分かったことだけれど・・

という前置きをして、

その「無駄が大事!」というのが

わかる気がするという話をした。

 

自然の中のお花は、

買ったお花のように行儀よく真っすぐではない。

以前はそれをあたりまえのように

生けていたので何も感じなかったが・・・

 

お花を作っている農家さんの

多大なる努力で真っすぐの枝になっている。

 

 

家の庭のお花はそうはいかない・・・

でもそれを生け続けて来てわかったことは、

それが面白いのだし、それが自然だということ。

 

でも、きっと

20年お花を習って来たからこそ、

今、自然のお花を

自由にのびのびと

生けられるのだと思うようになった。

 

今だからこそ、わかること・・・。

 

少林寺拳法の道場にお花を飾らせてもらう時、

立ち止まってみて下さる人

素通りする人

と様々だと所有者の方に言われた。

 

以前の私なら・・・

そんなことを言われようものなら・・

どうしようと思っていただろう(笑)

 

それ以前に、

そのようなところに

お花を生けようとすることもなかったかもしれない。

 

私はすごいお花を生けられるわけではない。

でも、

お花が好きで、

自然が好きで、

いつの頃からか?!

その時に感じたものを

自分が表現できたらいいと思うようになった。

 

 

 

私は

お花を生ける時に

そのお花を活かそうと自分なりに向き合って

出来上がった作品・・・

その時は私にとってそれがベストだった。

 

それを

見る側が私と同じように感じて下さったり

私以上の感性を持ち合わせて下さって見て下さったり

違う見方をされたり・・

それは、

見る方の感性に委ねられることで

作品を作った私には関係がないこと。

 

 

それを、

こう見て頂けたら嬉しいという思いはこめているけれど

その通りに見るか見ないかは見る側の勝手なのだ。

 

それが良いのだし、

それで良いのだ。

 

それが

「自由」ということ。

 

そこは強要するものではなく、

そこの違いを

「なぜ?!そう思う」

というのを話し合って

すり合わせたり、

平行線であったり、

違いを楽しんだりするのが

本当の「教養」といわれるものであり

人間のもつ「品格」なのだと思う。

 

それが

突き詰めていくと

「無駄」なのだと思う。

 

無駄は

効率的でないので

今の時代でいうと

本来なくても良いのだろう。

 

 

しかし、

その空間に込められた

作者の想いであったりが存在する。

 

それを無駄という時代は、

人間が面白くなくなってきているとしか思えない・・・。

 

みんな違ってみんないい❣

 

 

無駄があるというのは

心の余裕があるということ。

 

 

そんなことを感じた。

 

いきとも🄬~ともに生きる~

は、無駄があってもいいと思うし

みんな違ってみんないい❣ 

なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

朝散歩は、

朝の空気が美味しい❣️

この季節はいい・・

 

田舎の田んぼの景色が

移り変わって行くのを見ながら

四季やゆったりとした

時間の流れを感じるのがいい・・。

田んぼに水が入って、田植え

小麦が伸びています

小麦が刈り取られ・・

 

こんな日々の変化が

見られます。

 

 

亀が田んぼから出てきて

びっくり❣️

 

 

季節の移り変わり・・・

 

とっても楽しい・・

 

歳を重ねたからか?!

元々

夜型ではなく、

朝型。

 

朝早く起きて

散歩するには良い季節❣️

 

その上、

家の庭の花や植物の中から

『そこにあるもの」を

見つけ出すというのが

とても楽しく

なってしまった・・・

 

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例えば

草に埋もれているけど・・

桜の根っこの新芽が美しすぎて感動❣️

これを生けたい・・

ということで

このように生けてみた😄

 

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思えば

以前は、

家の庭にも

お花は咲いているのに

それらには目もくれずに

お花屋さんから

買う材料を生けていた私。

 

その時は、

自分自身にも

自信がなく

他人軸だった・・・。

 

それが、

お花屋さんの廃業で

家の庭のお花の中にも

生けられるものは

「ある」と気づいた。

 

要は

私の捉え方だけだった・・。

 

 

 

「ない」を探すか?!

 

「ある」を見つけるか?!

 

この差は

すごく大きい。

 

「ない」から始まると、

あれも、これも・・と

より「ない」に目が行き、

自分の中で不安を駆り立てる。

 

しかし

「ある」と思うと、

面白い物で・・

本当に「ある」

 

 

面白いけど・・・本当のこと。

ものすごく

シンプルなことだ。

 

 

もちろん、

結果としては自分の思い描いた形

ではないかもしれない。

 

しかし

そもそも自分の思い描いたものすらも

・・怪しいという事実がある

ということに気づくべきだった。

一旦、

自分だけの傲慢なのかもしれないと疑うこと。

 

これは、

自分に自信が「ある」とか「ない」とかいう

そんな自分だけのエゴイスティックな

ちっぽけなものではない。

 

なぜなら、私は朝散歩で

自分のちっぽけなこだわりを捨てて

大自然の中の「ある」に

身を委ねてしまうと

自分の想像を超えた

面白いものができることに

気づいてしまった。

 

 

そうなると

常に「ある」を探して

発見するのが

癖になるくらい面白い❣️

 

もちろんそれは、

自分が思い描くような

事前に作られた前提ではない。

 

その時々の瞬間に

全部自分がちゃんと関わって、

その時々に自分が一番好きと思う判断を

重ねていった結果に得られる

ご褒美のようなものなのかもしれない。

 

そして、

私は、

きっとこういうのが

好きだったんだと気づいた。

 

これが私❣️

 

 

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先日の

朝、お花を生けて写真を撮ろうとしたら

光が差し込んできて

それが面白いと思って光を取り入れて撮ってみた作品

 

 

私から生まれた言葉

いきとも〜ともに生きる〜

というのは、

このように繋がって、

進化している❣️

 

それが嬉しい❣️