「無駄」が大事ということを書いた後・・・また色々考えた。実は逆なんやないか?!と・・・ | “変わりもん“がいいじゃない!!

“変わりもん“がいいじゃない!!

人間も動物やん!って気づき、人と動植物が共に生きる”いきとも®︎”を当たり前にしたい!!と考える、人を元気にする獣医師のかおりんです。そんな思いをYouTubeでも配信中。人を元気にする獣医師かおりん 又は「いきとも」で検索してみて下さいね!

一つ前のブログで、

「無駄」について書いた。

 

 

そして・・・

その後

何だか心の中が

「ざわつく」?!

というか・・・

「違和感」というか?!

 

ちょっと

引っかかる。

 

それは

何なんだろうか?!

 

と考えた・・

 

それでまた、

自分の考えを書いてみたい。

 

 

前回、

お花のことを書いた。

買ったお花は真っ直ぐであったり

お花もたくさんついているし

とても豪華で良いのだけれど・・

 

自然の花を扱うようになると

言い方は悪いけれど

生けていて

「面白くない」

のだ。

 

 

これは

きっと好みの問題で

お花を作っている

農家さんが悪いわけではない。

 

で、思ったこと。

^^^^^^^^^^^^^^^

 

そもそも、

お花は元々は

野山のものを取ってきて生けていた。

 

山を持っている人は

山の手入れをするときに

剪定をして、

いい枝をお花の材料として売っていた。

また薪としても

使ったり売ったりしていた。

と思う。

 

それが「自然」であった。

 

 

 

そうして

人が

山の手入れをすることで

山の中に光が入り、

余計な枝木を切って、

何十年もかけて木を育てていたのだ。

 

今は山は手入れされていないから

本来奥山から降りてこなかった

猿やクマが出てくると問題になっている。

 

 

なぜ

手入れされなくなったのか?!

 

お風呂や火を起こす役目の

薪はガスを捻ったら

出てくるのでいらない。

 

山の木も

外国から輸入された方が

安いから、儲からない。

 

みんなが働くことで

必死で

働くことが変わってしまった。

 

そこは

「経済」であり、

儲からないことはしないという

「事実」

 

^^^^^^^^^^^^^^

そう考えていくと・・

「無駄」というのも

少し見え方が違ってくると思った。

 

 

今書いた山の木の話のように

昔は

いろいろなものが

「循環」していた。

 

今日食べることが

一番であった時代。

 

今は

日本ではそのようなことを

考える必要はないくらい

「豊か」?!

 

あれっ?!

昨日話していた「無駄」というのは

京都とかの調度品と

輪島塗りとか

日本の伝統工芸といわれるもの・・

 

 

世界中の博物館にある

昔に作られたもの。

 

今の時代とは全く違う・・・

 

ではその当時の人々の

「何?!」が

そのようにさせたのだろうか?!

思いを馳せてみる。

 

そして

私が至った結論は

「自然に対する敬意」

とでも言えばいいだろうか?!

 

人によっては

それを宗教というのかもしれないが・・

 

例えば

器でも

単に食べるというだけなら

何でも盛り付けられたらいいので、

どんなものでもいいはずだ。

 

しかし、

ものが溢れかえっていない中で

自分のいつも食べるご飯の器を

長持ちするように機能を高めていく中で

せめて自分なりに美しくしようとか

していったのではないだろうか?!

 

 

機能美?!

 

というか?!

 

使い勝手はいいけど

無駄がない。

そして洗練されたものが

今も

残っているのだろうと思う。

 

だから人々の心を打つ。

 

 

長い年月を経てきただけではない

当時の人たちの想い

生き様・・

 

きっとそんなもの。

 

無駄

それは

自然の中で

人の知恵によって

自然に

生まれたもの。

 

だから

何とも言えない味わいがある。

 

 

人が食べることに困らなくなったのは

この100年足らず。

とは言え

世界中には飢えは

存在しているというのも事実。

 

明日食べるものがないというところでは

文化がないのか?!

というとそうでもない。

むしろ、

「今日」生きることについては

充実しているかもしれない。

 

そう・・

「文化」

 

人がいて

生きていく中で

何かをしてもらった

感謝のお礼であったり、

食べて行く為に

天から授かった才能が

生み出したものであったり、

人との違いを認めていく中で、

自分にできることを

みんなが出来て

社会が成り立っていくのであれば

そこに「無駄」という

「ゆとり」ができるのかもしれない。

 

私は「無駄」というのは

究極のゆとりというか

「自己表現」と思った。

 

 

そしてそれは

皮肉なことに

他人より上に立つとか

虐げられるとか

いう社会的な差別や

困難がある中での方が

よりいいものができるような気がする。

 

それは

人間も動物であるから。

 

賢いようでいて

人間はかなり

バカな動物。

 

 

 

自然の中では

道具がなければ

他の動物には勝てない。

 

その辺が

わかっていないことが

人間のアホなところ。

 

自然から

人間が離れすぎて

おかしくなっているとしか思えない。

 

しかし

自然は優しくもあり

厳しくて

何一つ自分の思うようにならない・・。

 

 

それが大前提だとしたら・・

自分の食べる器一つとっても

愛情を込めたり

工夫をしたり

するというのも

わかるなあと思うのは

私だけなのだろうか?!

 

 

私は

いきとも〜ともに生きる〜

という考えで生きたいと思うので

そう思うだけなのだろうか!?