最後まで残ったのが白川郷の内ヶ島氏である。飛騨の有力豪族の中で唯一、戦国の荒波を乗り切り領土を維持した一族だ。しかし、その滅亡はあまりにも悲劇的で呆気ないものだった。
内ヶ島氏は、足利義満の時代に来る。荘川流域は元々本願寺勢力が力を持っていた。本願寺の強い土地では、門徒宗と武家領主が共存することは滅多にない。本山から領主に従わないように促されるからだ。白川郷も最初は血で血を洗う抗争になった。しかし、次第に両者は歩み寄り、全国的にもかなり珍しい、不思議な共立関係が出来上がる。本願寺からすると、荘川沿いが、仇敵織田が美濃の郡上から本願寺の拠点北陸に直接抜ける道であるため、内ヶ島は貴重な緩衝地帯だった。
また内ヶ島からすると、元々門徒宗が多い土地を治めるために、本願寺との良好な関係が必要だった。
そういったウィンウィンな関係をもとに、天生金山から採れる金と床下の硝石を媒介にした取引が行われる。内政が整い、本願寺が強い土地であるにも関わらず、領主によく従って、民心が安定していたことが、当時の記録にある。
一方、飛騨征伐では姉小路頼綱と同盟を結んで金森氏と戦う。内ヶ島も姉小路と同様、佐々氏と組んでいたからだ。
結果姉小路が追放され、内ヶ島は本領安堵される。これは内ヶ島氏には鉱山経営等の能力があり、生かして置くほうが得だと思われたからだ。小手先の術中策謀に明け暮れ、人を貶めることしかしてこなかった三木氏と、内政に力を入れて、地に足のついた技術を磨いていた内ヶ島氏の差が最後に表れた。
結果、内ヶ島は、飛騨で唯一、戦国時代の荒波を乗り越えた飛騨の武将となる。
金森長近を通した降伏が秀吉に認められ、内ヶ島の当主、内ヶ島氏理は、天正13年11月晦日に、居城帰雲城で秀吉帰順を祝う宴を企画する。家臣だけではなく、城下の領民たちも含んだ大変盛大な宴になるはずだった。他の城に勤める主だった家臣も前日には帰雲城に参集し、城下町では大変な賑わいだった。
ところが、明日には宴という天正13年11月29日夜。マグニチュード8とも言われる巨大地震が発生する。天正大地震である。
山が山体崩壊を起こし、地滑りが帰雲城と城下町を一瞬で飲み込んでしまう。更には土砂崩れが荘川を塞いだ影響で鉄砲水も起こり、帰雲城下は、跡形もなく消えてしまう。
城主内ヶ島氏理始め、内ヶ島一族。家臣たち。城兵等城にいた人は勿論、城下にいた一般人も、誰一人助からなかったと思われる。思われる、とぼやかしているのは、城兵も町の住人も全員死んで、目撃者が一人もいなかったからである。城下の住民で助かったのは、偶他所に所用で行っていた四人だけだった。四人が帰ってきたら、そこは猫の子一匹いない、瓦礫の山だった。
かくして、飛騨で唯一戦乱を生き残ったはずの内ヶ島氏は、生き残りが決定した直後に天災で一夜にして滅亡する。
下の写真が帰雲城の位置だと比定されている三方崩山である。
徳川埋蔵金と並んだ、埋蔵金ハンター垂涎の的であるが、果たして本当にここが帰雲城かはわからない。資料も痕跡も口づても少ないほど、あっという間にすべてが消えてしまったのだ。