明治時代を代表する文豪、夏目漱石。

漱石が生きたのは、薩長政権が盛んなる時代であり、また、日清・日露戦争で旧帝国が勝利し、国民がいよいよ我らも一等国だと浮かれまくっていた時代であった。

 

だが、彼はそんな浮かれっぷりを冷めた目で見ていた。そして、旧帝国がまさに世界に覇を唱えんと活気づく時代に自身の作品で驚くべき慧眼を示している。

 

その作品は彼の代表作の一つ「三四郎」である。

 

東京帝国大学に合格し、熊本から上京する三四郎は汽車の中で広田と言う男に出会う。

「あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。 今に見えるから御覧なさい。あれが日本一にほんいちの名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。 ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」

と妙に冷めたような言葉に、三四郎は「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と返す。だが、広田は一言こう言ったのだ。

「滅びるね」と。

 

繰り返すがこの作品が出来たのは明治の世、日露戦争に勝ち、日本中が浮かれまくっていた時代、まさにその時代に漱石には後の旧帝国の破滅と言う未来が見えていたのだ。

 

そして、広田はその後に「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より頭の中のほうが広いでしょう」と続け、

「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓ひいきの引き倒しになるばかりだ」

との言葉を残している。

 

漱石の後の世を予言した慧眼もさることながら、広田の最後の言葉は我々日本人も今一度心に刻み込んでおいた方がいのかもしれない。

いきあたりばったりで武士の権益を軽視した建武の新政、そして後醍醐天皇以下朝廷の面々は足利尊氏を旗頭とした東国武士団にNOを突きつけられた。


一旦は楠木正成らの働きで尊氏らを撃退したものの、武士層の離反は止まらず尊氏の再起を許してしまう。武士団の相次ぐ離反を重く見た正成は尊氏との和睦を進言するが勝利に浮ついた朝廷の面々に一蹴されてしまう。その一方で九州で力を蓄え、朝廷から離反してきた武士団も合流した尊氏の戦力は勢いを増してきた。新田義貞に追討を命じた朝廷だったが(ちなみに正成は追討軍からはずされた)、戦略のまずさから敗北を喫し、ますます尊氏軍への投降者を増やすだけの結果となった。


そして尊氏軍が兵庫へと迫ろうとしている中、朝廷方の軍議が始まった。
この軍議で楠木正成は、京都を一時捨てて尊氏軍を誘い込み、兵力を蓄えなおした上で兵站を断ち、しかる後に包囲殲滅する作戦を主張した。

彼の作戦は兵力で圧倒的に勝る尊氏軍に勝つには妥当と言えよう。余談だが戊辰においても江戸に迫る西軍相手に小栗忠順が同じような作戦を立てており、後にそれを知った西軍の智将、大村益次郎をして「実行されていたら、自分達の命は無かった」とまで言わしめている。


しかし、ここで参議(要するに戦を知らない公家だ)の坊門清忠が京都を捨てることに反対したため、正成の案は却下されてしまう。それどころか、後醍醐天皇は正成に対して兵庫への出陣と新田義貞の救援を命令したのであった。かくして正成は大軍相手の正面からの戦いという下策を強制される事となった。


かくして、正成は敗戦がほぼ決定した戦へ臨むべく兵庫へ向かう。

討ち死にを覚悟した正成は摂津桜井(今の大阪府島本町)にて、長男の正行に「俺が死んだら、お前は楠木家をまとめて生きて帝のために戦え」と言い、引き返させた。

 

この後、尼崎にて正成は後醍醐天皇に手紙を送っているがその内容は
「今度の戦いは必ず敗北するでしょう。国中の人々が君に背いているからです。」
要するに「民心はあんたから離れてまっせ」って事である。

めちゃくちゃ辛辣な言葉だが事実なんだから仕方ない。この手紙を見たときの後醍醐の反応を是非とも知りたいものだ。


そうこうしているうちに、湊川へ到着した正成軍。

だが、戦況は不利の一言であった。水軍を用意できなかった義貞は本陣を二本松(和田岬と会下山の中間)に置き、和田岬にも脇屋義助・大館氏明などの軍勢を配置して敵の水軍の上陸に備えた。一方、正成は湊川の西側、本陣の北西にあたる会下山に布陣した。
足利直義らが西国街道から、少弐頼尚が和田岬の新田軍に側面から攻撃をかけた。さらに、斯波高経の軍が山の手から会下山に陣する楠木正成の背後に回り、細川定禅が海路を東進し生田の森(神戸市三宮、御影付近)から上陸した。この為、義貞は退路を絶たれる危険を感じて東走し、正成は置いてけぼりを食らってしまう。
とどめにがら空きになった和田岬から尊氏の本隊が上陸、正成は完全に包囲されてしまう。正成軍も死力を尽くすも多勢に無勢であり、彼は死を覚悟した。

 

「いよいよこれまでやな…。正季、なんぞ願いはあるかい。」

正成の言葉に、弟の正季は
「そうやな。わしは生まれ変われるなら七生まで人間に生まれて朝敵を滅ぼしたい。」
と答える。弟の言葉に

「正季、お前が言うのは罪深い悪念、しかし…わしも気持ちはお前と同じや。必ずや本懐をとげよう。」

そう答えた後、正成、正季兄弟は刺し違えて自害して果てたのである。


以上、楠木正成の湊川の戦いのあらましをつらつらと書いた。

しかし、ここで私には一つの疑問が生じた。
「正成ほどの軍略の持ち主なら進退窮まる前に離脱は可能だったのでは?」
大体、千早・赤坂で鎌倉幕府の追討軍相手にあそこまで奮戦し、千早城は最終的に落城したが正成は離脱に成功しているのだ。湊川でも適当な所で、タイミングとしては義貞が敗走した時点で一緒に逃げても良かったんじゃあないかと思う。

だが、正成は敢えてそれをしなかった。桜井で息子を返している事からも見えるように彼は始めから湊川を死に場所に定めていたのだ。何故正成はその気になれば離脱も可能だった戦で敢えて討ち死にしたのだろうか。


私が思うに、正成は湊川で戦死する事で後醍醐が目を覚ましてくれる事を期待したのではないかと思う。その思いは忠義と言うより自分を用いてくれた後醍醐への義理、人情に近いものであったのかもしれない。

まあ、その後の後醍醐の行動を見るに彼の願いは通じなかったようだが。

 

最後に余談をば一つ。
いわゆる神風特攻隊の出撃を命じられた海軍少佐野中五郎(ちなみに彼は「特攻隊」については以前から反対を貫いていた)は、鹿屋基地を出撃する際にぼそりと「湊川だよ」と一言呟いたと言う。

野中少佐は、朝廷に捨石同然の扱いの末に死んだ正成と自分達を重ねたのかもしれない。

 

さらに余談:野中五郎についてはこちらの記事も併せて読んでみてください。

皆さんは一坂太郎と言う人をご存知であろうか。


一坂氏は主に幕末長州の歴史を研究している歴史家なのだが、彼らの中でも異端とも言うべき存在である。現在の幕末~明治の長州史は、基本的にいまだ根深く残る薩長史観に基づいたものだが、一坂氏はそれとは一線を隔した生の歴史(本人曰く「本当の歴史」)を追求している。
それ故に、山口県に限らず薩長史観に囚われた歴史観を持っている連中には受けが宜しくない。しかし、本人はそんな事は気にせず我が道を行き、今も生の歴史を追及している。

 

今回紹介する書「長州奇兵隊」(中公新書)は、一坂氏が維新の象徴の一つのして偶像化された奇兵隊の生の姿を追求している本である。詳しい内容は一度読んでみて欲しいのだが、今ここを見ている諸兄方は今から挙げる事についてどれだけご存知であろうか。

 

高杉晋作は明治時代初期においては故郷では嫌われ者で、彼の縁者と言うだけで見合いの話が来なかった時期もあった。
・奇兵隊においては士分出身と平民層出身で明確に区分されており、平民層には一旗挙げたいゴロツキ・ならず者が多かった。
・戊辰戦争が終わると、(山県有朋・伊藤博文ら)一部の幹部層を除いて平民層の奇兵隊士は弊履の如く切り捨てられた。そして、これに怒って暴動を起こしたものは容赦なく処刑された。


本著ではこう言った感じで、生の奇兵隊について詳細に描かれている。

これらは薩長史観においては決して触れられず、むしろ隠蔽されてきた事実である。


「明治維新」の真の姿とはどんなものだったのかを知りたい、と言う方はぜひとも一読をお奨めします。