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 意識障害から一年目


私。現在も3年前の(?怪しげなんで)


    9月3日


記憶がありません。

私の3年前の9月3日は、自分で記憶した思い出ではなく、


家族、医療関係者の方々から聞き、その聞いたことで

成立しています。


意識障害となり、当時は「髄膜炎」という判断で治療したようです。頸部後部硬直、発熱ありなため。

家族には「もしもを考えて下さい」と説明があったと聞いています。

しかし、経過を辿ると髄膜炎とはちょっと違うような?典型的な髄膜炎とは少し違うらしい。

結局今まで当時のことは


  答えがない状態


で現在に至っています。

この意識障害になる数週間前に暑い中草むしりをして、胸痛発作と動悸、頻脈があり心臓に負担がかかった状態。それ以降酸素濃度が88~93%となる日々が続くようになりました。

 

意識障害とこれが関係あるかはわかりません。

ただ、40代から高血圧が顕著(投薬開始レベル)となっていて、職場の健康診断で40代前半から心電図にも波形が出たりしたのは確かでした。だから毎年職場の健康診断の心電図検査は私は非常に長く一緒に行った同僚たちから置いていかれてました。笑 治療ほどではないが経過観察、動悸が起こりやすい心臓とは伺ってました。


意識障害直後、


・右半身の麻痺

・右目の眼瞼下垂

・複視

・言葉の出にくさ、理解が難しい。字がわからない。

・場所の認識

・家族始め誰だかわからない

・ひらがなカタカナ、足し算(1+1)、引き算、かけ算が理解できない。

・縦書きの文章の理解ができない

・気分のムラ(入院中点滴引っこ抜こうとする、暴れる)


など、意識回復後は自分が変わっていました。


もう、

普通に生活ができるか?


というくらいになりました。しかも当時、コロナ(デルタ株)のとんでもない状態。ですので、いつもの搬送先病院はコロナ患者受け入れ病院となりパンク。あまり詳しく知らない病院へ搬送となりまして…

当時パンデミック化してましたよね?

現在も当時、退院直後からの記憶が今でもあやふやなんです。


記憶のほうは、後に検査をしたら長期記憶の欠如がわかりました。

当時ぬいぐるみに非常な執着がありました。

また、現在も実はあるのですが鳥類を見ると喜びが湧いていきます。


喜びが制御利かないんです。


当時は自分の変わりように混乱し、分からなくなり、大変でした。


意識障害から1ヶ月後から次第に「発作」というのがちらほら始まりました。


それから次第に発作が本格的となり、運転はドクターストップとなりました。

結局今年これが一番の理由で免許更新ならず返納となりました。


その初めて発作から半年ぐらいたち、右足指小指薬指から痙縮がはじまり、この先は現在の通り四肢に広がりました。


意識障害直後の右半身片麻痺は、一時的に違和感程度になりましたが、この痙縮がはじまってからは現在のようになりました。


また、後に右目の複視、眼瞼下垂、舌の変位、舌からくる構音障害嚥下障害などが悪化となり現在、服薬効いているのもあり構音障害はまだましになりました。


昨年10月に病名が一応着きました。 



   「病名」について

私自身考え方が変わっていて、自身の経験より病名自体はあまり拘らないほうが上向きになったりすることもあり、場合によりこの先にまた病名が変わったりする可能性もあるのではと勝手ながら思っていたりもします。人間の体は常に変化しますから。一つのパターンに拘らないほうがという感じもする。実は最近も似たような経験しています。

ただ症状の出所さえ判明できればそれでセルフケアでも色々考えることが思い浮かぶから良いかなと思ったりもします。



↑私にとっての「病」について考えが書いてあります


  パンダパンダパンダパンダパンダパンダパンダパンダパンダ


この中、意識障害直後はもう絶望だらけでした。


家族や関わりのある方の顔も名前も認識できず、「なぜ、知らない人と家にいなければならないのか?」という違和感だらけの自宅。


唯一


「声」だけが判断しやすく、声で人を認識していました。


始めは何もかにも変わってしまった自分を認めていくので、精一杯でした。

手足の痙縮がどこから(上位ニューロン)来ているのか初めて指摘して下さったのは、内科医ではなく整形外科医でした。


もう、難しい。完全に治るのは


と聞いたときは、誰も見ない夜中に、受け入れられるまで泣いて過ごしたこともありました。今だから言えること。


しかし、人間、いつまでも

泣き言言ってられません。

時は待ってくれないし、進みますから。


受け入れるしかありませんし。そんな経過を一年目に過ごしました。


   星星星星星星星星星


意識障害退院から間もなく


「ドリル」をすることにしました。









残っていた画像これだけでした。

ドリルを始めた時に、記憶検査の結果を眺めながら医師から「ドリルをしてみたら?」というアドバイスをいただきましたが、

いやいやもうドリルはじめてますから。おいで

と心の中で言ってました。笑 しかし、医師からアドバイス受けて私が考えていた「ドリル作戦」は当たり⭕だったと確認できました。

やはりこのあたりは、慢性疼痛時代の生活改善で模索したことが学びとなっていました。

当時困ったのが、

書類の書き方が理解できない

というのでかなり困りました。現在は理解できて記入できますが、当時は代わりに書いていただいたりしていました。内容の理解ができない前に書かれている字が読めない。理解できないのですから、内容どうこうの前段階です。

当時は、結婚式の写真。自分の花嫁姿すら理解できず、

「これ、誰?誰の結婚式?」

と家族に聞いて驚かれました。

ま、今では想像できない細身で若い自分

でしたから!余計理解できなかったかも!ゲラゲラゲラゲラゲラゲラ

この一年目は、発作というのがあり、右手足の痙縮など、あらゆることが始まり、リハビリよりかは

体の変化に心をついていかせる

ことで手一杯でした。

有酸素運動は、出来るときには散歩というか、短距離歩きをして、片麻痺がなれてきたら距離を伸ばしていきました。

最初は玄関から家の敷地内まで、二メートルくらいから始めました。
片麻痺間もない頃自転車に無謀にも乗り、転倒して後頭部を強打。あきらかに単独事故(勝手に転んだだけ)ですが警察まで来て救急車内で現場聴取受けました。その後、
現在のリハビリ先の病院に救急搬送されたという、伝説もあります。現在もたまに話題になってます。笑

当時は、「体の状態の理解」が自身でできていなく、過信ばかりで無謀行為ばかりしていたように思います。

体と気持ちを合わせるのに大変だった一年目。

つづく…

  お弁当今日のお弁当お弁当


はいっ!「手抜き」です。
最近どうも、手が。

昨日、手に持った卵を落としキッチンがとんでもないことになり、

トングを握り炒めるのが本格的に難しくなり、

しかし!今日は、卵焼きが上手くできました。キラキラ

最近


卵焼きが三角になる現象

が多かったので。

「プチ自信」になりましたラブラブ

では、今日も1日。
穏やかにすごせますように流れ星


読んで下さりありがとうございました

「療養期間シリーズ」




お時間あるときにぜひウインク飛び出すハート