アフター4月バカ | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

4月バカの日にどんなウソついてやろうかと考えながら
switchの『ブレイブリーデフォルトⅡ』をやってたら
2日になってしまいました。

『能力者憲章』の元になった論文がイグノーベル平和賞を受賞したとか
考えてたんですけどね。もちろんウソです。
ロシー・アドノア=イェネンコフ・デキネフスキーとか
そんなふざけた名前のロシア人がいるわけねーだろと。
アレは多分じいさんのでっちあげでしょう。決して断言はしませんが。

ところでビデオ屋のぞくとX-MENのパクりみてーな超能力モノは腐るほどありますが、
旧人類との存亡をかけた最終決戦とかいい加減飽きません?

『能力者憲章』の回目で書いた通り超能力と権力は本質的に同じものですから
そもそも好き勝手に使っていいものではありません。
磁界王のニート野郎黙示録のタラコ唇あたりが弱肉強食やら優生思想やらをダシに
ナンか言ってるのは結局“自分が”“たまたま”便利な能力使えるからであって、
そんなモノに乗っかって古い秩序にケンカを売るのは、それこそ『大衆の反逆』にて
オルテガの指摘する通りパンを求めてパン屋を破壊するのと同じなので、
仮に最終戦争とやらで勝利を収め、旧人類に取って代わってみたところで
「これで好き勝手使えるやったぜベイビー」なんて喜んでいられるのは一瞬のことです。

それで具体的に何が起こるかは分かりませんが、
使い方を間違えればとんでもない事態を引き起こす力を
好き勝手に使えるようにしたらどうなるか?

少しでも考える頭があれば決して良い結果にはつながらないことが分かるはずです。

平和的共存が実現したら能力バトルなんか出来ないから
わざと考えないようにしているのかもしれませんが、

本気で考えれば新たな秩序の構築は、決して不可能ではありません。
そういう話の一つや二つそろそろ出て来てもいいんじゃないでしょうかね?
能力バトルとかではなく、日常モノとしてなら意外といける気がします。

あとそれから超能力つながりで言いたいんですが“異形・異能の悲劇”みたいなの、
現代日本でやるのはいい加減無理があると思うんですよね。

漫画とかアニメで散々やってきたンだからいい加減予習しとけよと。
見たこと無くてもネタぐらいは知ってるはずなのにいつまでもビクついてるのはねぇ
…というか怯えたり拒絶したりする前にまず感情がついてこないでしょう?
現実にもある色々な排斥運動は出会った瞬間にいきなり起こるわけじゃなくて、
お互い関わっていく中で色々と積み重なってきた後に起こるものです。

「嫌なら見るな」と人は言いますが「見た」から
嫌なのであって見なければ嫌も何も無いんですよ。


物語において異形・異能に怯えて拒絶するのが許されるのは、
それに関する明確なトラウマを持っているヤツだけです。


つい最近、東映のYoutubeチャンネルで『仮面ライダーアギト』やってまして、
いま見たわけではなく本放送で当時見てた頃からの感想というか不満になりますが、
ギルスの扱いの悪さ…というか彼が劇中で見舞われる不幸の数々に必然性が感じられず、
そういう展開になる度に学生だった当時かなりイラついてたのを思い出しました。

しかも最後の最後に出会って親しくなった彼女がアンノウンに殺される展開は
あまりにも雑過ぎて最後まで見たのを本気で後悔しました。

駆けつけるのに間に合わなくて助からないならそうなるだけの
理由が無ければ「寸前で間に合う」ようにも出来たはずです。
物語上での必然性が無ければ人死に演出は控えるべきです。

主要キャラの身近でやる場合は特にそうです。

作者の都合が透けて見える作為的な悲劇は
ホントくだらねーと思います。