(再録)筋道立てた斬新さ『カオスシード』・③(加筆修正) | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

筋道立てた斬新さ『カオスシード』
①、 ②、 ④、 

 

“中華風ファンタジーの世界でダンジョンを作るゲーム”は、
RPG全盛期の頃に西洋風の世界観が幅を利かせる中で、これまでに作られてきたもの
“ではない”ものを考えていけば、自ずと導き出される発想だと思います。
世間から誤解され、悪者扱いされる主人公(=洞仙)の設定も、ただ単純に
“ダンジョンのヌシを悪者にしないためのこじつけ”だったわけです。

独特に見える世界設定も、こうして1つ1つ紐解いてみれば、どれも人間の頭で理解出来る
ものばかりだ、ということが分かるかと思います。真に優れた創作は、そうあるべきです。

それでは今度は“他に類を見ない”と言われる最大の所以(ゆえん)でもある、
複雑怪奇を極めるゲームシステムの解説に挑んでみることにします。
まずは実際に動いてるトコを見てみましょう。動画はスーファミ版のものです。

↓トレーニングシナリオ

↓本編シナリオその1

 

『カオスシード』のダンジョン(=仙窟)は、様々な機能を持つ“部屋”と、
それをつなぐ“通路”でもって構成されています。

“部屋”には、それぞれが持つ機能の他に“大きさ”“属性”
(主に)機能の維持に必要なエネルギー消費/生産力
(主に)機能強化に用いる“仙丹”の生産力、
(侵入者は時たま部屋を攻撃してくるので)“耐久力”がそれぞれ設定されており、
エネルギーと仙丹の生産力は(壁を含む)部屋の中に囲った色粒『因素(いんそ)に比例します。

“属性”はの5種類。作る場所とタイミング(ターン経過で変化)により決定され、
そしてこれこそがこのゲーム最大の醍醐味である“風水システム”に欠かせない要素となります。

あまり馴染みは無いかもしれませんが前述した5種類の“属性”は、
いわゆる『陰陽五行』というヤツで、それに基づく相性関係によって、
つないだ“部屋”同士に気が流れ込む…もとい『風水ポイント(勝手に命名)』が加算され、
その数値の組み合わせを条件として、さらに強力な機能が開放されます。

たとえばコレ

土属性の部屋を中心に見てみますと、金属性水属性それぞれの部屋と接続し、
火属性の部屋とは2つの通路でつながっています。通路の端にくっついてるのは“扉”で、
くっついた側に向けてポイントを倍加させます。

陰陽五行では、…の方向で相性が良く、
…の方向で相性が悪い、とされています。
よってこの場合、土属性の『風水ポイント』は、
(良相性)+(扉で倍加)、(自身の属性)、(通常)、(扉で倍加)
となります。(相性が悪い場合は“扉”があれば1ポイント加算

コレを考えるのがメチャクチャ楽しいんですが、分かりましたか?
分かりませんよね。えぇ、分かりませんでしたとも。

ココまでなら、過去にさんざん読み漁ってちっとも頭に入らなかった
雑誌記事の内容と大して変わりません。問題はその先です。
スーファミ版サターン版どちらともゲーム内で懇切丁寧に説明してくれているんですが、
やはりルールやシステムは、何のために存在するのか?という“理由”“必然性”
基づいていることを証明しなければ、理解につなげるのは難しいのだと思います。
逆に言えばそれが証明出来ないのは、ルールの方が間違っているということです。

「人生で大切なことはすべてゲームで教わった」とはラストコンテニューの歌詞ですが、

自分はテレビゲームから、特にクソゲーのクソっぷりを自分の中で明確にする作業を通じて、
“ルールの方が間違っている”という感覚を、正しく育てることが出来ました。

基本的に出来ないことは絶対に出来ないテレビゲームの世界では、

その中での決まり事や周囲の環境によって人がどう動くのか、ということが明確に可視化されます。
ですがそのこと自体は、必ずしも作者の意図や都合に一致してくれるとは限りませんので、
そうした“ズレ”を顧みることなく、作者側の一方的な都合と価値観だけを優先すれば、
プレイヤー側の能動的な行動にいちいち水を差し、やりたくもないことを強制させられるだけの
単なる“不自由”と“不愉快”にしかなりません。それはルールの方が間違っています。

 

つい横道に逸れてしまいましたので本題に戻りますと、『カオスシード』の複雑怪奇な
ルールやシステムの“理由”や“必然性”とは一体なんぞや?ということになります。
そのためにはまず、このゲームの肝であるダンジョン作ることすなわち、
“拠点防衛”“作るゲーム”の構造的欠点について

書かなければならないわけですが、長くなりそうなので、その話はまた次回にて。

〈続く〉