日本初の僧 藤原恒雄(=狩籠護法神/忍辱/豊国法師) | 筑前由紀のプチトリップ

筑前由紀のプチトリップ

2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

中津宮からほど近くに祠跡。

…祠跡って、祠、修復してあげるまではないの?



狩籠護法(かりこめごほう)


藤原恒雄という人物を、狩籠護法神として祀る祠跡と伝わる。




中国北魏から、善正という人が普泰元年[531]に太宰府に来て仏法を弘めようとしたが、志を遂げられずに故国に帰ろうとした。 

其の夜、仏が姿を変えて現れ、善正に彦山の由縁(天竺摩訶陀国の慈悲大顕王が五本の剣を投じ、日子峯・石鎚峯・楡鶴羽峯・切部山・神蔵峯を経て、崇神二年[B.C.96]に彦山に還った)を説いた。

これを聞いた善正は彦山の石窟に入った。



その頃、豊前国日田郡に藤原桓雄という者がいて、狩猟を好んでいた。 

獣を追って山に入ったとき、岩窟に座している善正を見て不思議に思い、尋ねるが言葉が通じず、善正も恒雄に仏の教えを説こうとするが通じない。

恒雄は猟を続けるが、善正の姿を見ているうちに信心の気持ちが起こったのか、善正の窟のそばに小屋を建てて住んだ。




宣化天皇三年[538]、桓雄は一頭の白鹿を瑞獣と知らずに射た。鹿は倒れたが、そこに三羽の鷹が来て、その鹿を蘇生させた。 

桓雄は鹿・鷹が神仏の変化であると感じ、弓矢を捨て謝罪した。 また、仁祠(仏堂)を建て、善正が持って来た仏像を祀った。 

その後、桓雄は善正の弟子となって剃髪し、忍辱と名乗って修行した。 

これが、日本における僧の始めであるという。



言葉が通じないのに、なんとなく善正の側に小屋建てて住み出した桓雄さんよ…。



善正さんも、太宰府で布教出来なくて、山籠りした甲斐があったね。

良い弟子が出来て良かったね。


ってか待て待て、布教するつもりで来たならまず、日本語喋れるようになっとこうよ善正さん💦

と思ったりなんかして。

そんなだから、「日本に仏教を広めた人‼️」って伝わってないんだぞ〜。



『日本書紀』によれば、587年(用明天皇2年)
用明天皇が病気となったとき、天皇が仏教に帰依しようかと群臣に相談した際、蘇我馬子が賛成し、穴穂部皇子に連れらてきた豊国法師というのが、この忍辱だと考えられるという。