中津宮からほど近くに祠跡。
…祠跡って、祠、修復してあげるまではないの?
狩籠護法(かりこめごほう)
藤原恒雄という人物を、狩籠護法神として祀る祠跡と伝わる。
中国北魏から、善正という人が普泰元年[531]に太宰府に来て仏法を弘めようとしたが、志を遂げられずに故国に帰ろうとした。
其の夜、仏が姿を変えて現れ、善正に彦山の由縁(天竺摩訶陀国の慈悲大顕王が五本の剣を投じ、日子峯・石鎚峯・楡鶴羽峯・切部山・神蔵峯を経て、崇神二年[B.C.96]に彦山に還った)を説いた。
これを聞いた善正は彦山の石窟に入った。
その頃、豊前国日田郡に藤原桓雄という者がいて、狩猟を好んでいた。
獣を追って山に入ったとき、岩窟に座している善正を見て不思議に思い、尋ねるが言葉が通じず、善正も恒雄に仏の教えを説こうとするが通じない。
恒雄は猟を続けるが、善正の姿を見ているうちに信心の気持ちが起こったのか、善正の窟のそばに小屋を建てて住んだ。
宣化天皇三年[538]、桓雄は一頭の白鹿を瑞獣と知らずに射た。鹿は倒れたが、そこに三羽の鷹が来て、その鹿を蘇生させた。
桓雄は鹿・鷹が神仏の変化であると感じ、弓矢を捨て謝罪した。 また、仁祠(仏堂)を建て、善正が持って来た仏像を祀った。
その後、桓雄は善正の弟子となって剃髪し、忍辱と名乗って修行した。
これが、日本における僧の始めであるという。
言葉が通じないのに、なんとなく善正の側に小屋建てて住み出した桓雄さんよ…。
善正さんも、太宰府で布教出来なくて、山籠りした甲斐があったね。
良い弟子が出来て良かったね。
ってか待て待て、布教するつもりで来たならまず、日本語喋れるようになっとこうよ善正さん💦
と思ったりなんかして。
そんなだから、「日本に仏教を広めた人‼️」って伝わってないんだぞ〜。
『日本書紀』によれば、587年(用明天皇2年)
用明天皇が病気となったとき、天皇が仏教に帰依しようかと群臣に相談した際、蘇我馬子が賛成し、穴穂部皇子に連れらてきた豊国法師というのが、この忍辱だと考えられるという。