三女神の移動ルート 英彦山神宮 中津宮 | 筑前由紀のプチトリップ

筑前由紀のプチトリップ

2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
景色が良い所に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。
参加:古事記FUN‼︎/筑豊地域おこし写真部/飯塚市観光マイスター協会(観光案内人)

ちょっとエネルギー不足が気になるところだけれど、せっかく来たからねと登山開始⛰️

 

下津宮の階段を登って3、4分でコレ。

あ、もうこういう感じの場所を登る感じ?

 

登り切った所から見た鎖⛓️

 

若杉山のはさみ石を思い出す狭さだった。

 

石の階段を登る🪨

 

家を出た時間がまあまあ遅かったのもあり、エネルギーだけでなく時間もあんまり足りる気がしない。

ひとまず中津宮を目指してそこから引き返しても良いかなぁって思いながら進む。

 

 

 

 

大きな岩。

 

 

逆から見た図。

 

 

また鎖使って登るような場所来た!

さすが修験道の山。

 

 

 

 

「中宮」の文字あり。

 

祭神は豊前国宇佐島から遷座したと伝えられ、宗像の三女神である市杵嶋比賣命(いちきしまひめみこと)・多紀理毘賣命(たぎりひめのみこと)・多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)を祀っています。

 

そう、私が英彦山で気になっている伝承がこのあたりにある。

https://www.town.soeda.fukuoka.jp/_common/themes/joruri/densetu/okuninusi.htm

 

 

昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。

 

頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになったという。

 

 

ところがその後、天忍骨尊が英彦山に天降って来たので、大国主命は北岳を天忍骨尊に譲った。

天忍骨尊は、八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。

 

 

関連する伝説が飯塚にもある。

 

三女神が高天原の神々より神勅を受けて、宇佐より宗像へと向かう途中、道に迷い、烏に導かれて豊前国と筑前国の境に位置する山に立ち寄った。

 

だからね、三女神は大分県宇佐市あたり→福岡県田川郡添田町あたり→福岡県飯塚市鹿毛馬あたり→福岡県宗像市あたりって移動してるんだと思うな。

 

中でも市杵島姫命は、大分県杵築市あたり→大分県宇佐市あたり…ってね。

 

三女神はホシホミミと同様、アマテラスとスサノオの誓約の際に生まれた存在。
アマテラスの子とも言えるが…通常、三女神の子孫をアマテラスの子孫とは言わない。

 

今の天皇家に続く一族と、それとは別系統の一族の陣取り合戦があったであろうと感じられる。

 



また、下記のようなものも見つけた。


『鎮西彦山縁起』[LINK]によると、田心姫・瑞津姫・市杵嶋姫命の三女神は日神の勅により宇佐嶋に降り、後に彦山に移った。 大己貴命は田心姫・瑞津姫命を娶り、此の山の北嶺に住んで「北山地主」と呼ばれた。 市杵嶋姫命は山の中層に住まわれた。
天忍穂耳尊は鷹の姿で飛来し、此の峯に留まった。 その後、八角真霊石の上に移った。 大己貴命は北嶽を天忍穂耳尊に献じ、田心姫・瑞津姫命と共に山腹に降った。 後に三女神は宗像宮、大己貴命は許斐山に遷った。 

(※ 許斐山は宗像にある山)

 


三女神の中でも市杵島姫は他2人とは違うんだというのを感じる。

田心姫・瑞津姫命は大国主と共にオシホミミに譲って英彦山から去っていったけど、市杵島姫は英彦山に残ったという事?

最終的に三女神は宗像で合流はしたかもしれないけれど、途中経過が違そうだ。