鞠智城跡 温故創生館 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
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季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

 

歴史公園 鞠智城 温故創生館

熊本県山鹿市菊鹿町米原443-1

 

鞠智城は、東アジア情勢が緊迫した7世後半(約1350年前)にヤマト政権が築いた山城。
663年の「白村江(はくそんこう)の戦い」で大敗したヤマト政権が唐(や新羅)の侵攻に備えて西日本各地に築いた城の一つで、西海道(九州)の統治の起点となった大宰府もしくは、その前身となった拠点を守るための支援基地と考えられています。
有明海からの侵攻や西海道の南部地域(隼人(はやと)などのヤマト政権(大宰府など)の地域支配の拠点だったと考える説もあります。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』など、国の歴史書にもある国の重要遺跡として、平成16年2月27日に国史跡に指定されました。

 

 

ころう君いた😆😆😆

 

 

 

熊本城に遊びに行った時に度々見かけていたころう君。

あざとい位の可愛い動きで、結構好きだったんだよね。

 

これは八角型鼓楼。
鼓の音で時を知らせたり、見張りをしたりするための建物だそうな。

ころう君の名前って、鼓楼から来てたのね!今更知った。

 

鞠智城のシンボルになっている八角形鼓楼は国内の古代山城では似かよった例を見ないけど、韓国の二聖(イーソン)山城で同じようなものがあるんだそうな。
同じ技術者が作ったとか、そういう繋がりがあるんだろうか。

 

こちらは米倉。

 

 

兵舎。

 

板倉=武器庫。

 

景色が良いねぇ。

 

あっちに見える山は何かなって思って近くの案内板を見たけど、書かれてなかった(笑)

山の形が面白い。

 

鞠智城温故創生之碑(きくちじょうおんこそうせいのひ)
鞠智城のシンボルとして平成8年度に建てられました。

 

中央に立っているのは防人(さきもり。北部九州の防備にあたった兵士)。

意味や読みは岬守で、防人っていう漢字は唐の制度から来ているとか

前面で手を繋いでポーズとっているのは防人の妻と子。

 

西側に築城を指導したといわれる百済(くだら)の貴族。

あ、百済の貴族が築城を指導したってなってるんだ⁉

 

東側のこちらは、八方ヶ岳に祈りを捧げる巫女。

 

 

台座には鞠智城の歴史を解説した6枚のレリーフ。

「改新の詔発布646」

 

「百済滅亡660」

 

「白村江の戦い663」

 

「鞠智城の築城664頃」

 


「鞠智城の異変858」

 

「米原長者伝説」


台座には、以下の防人の歌も書いてあった。

 

防人に良くは誰が夫と問ふ人を見るが羨しさ物思もせず
わが妻も畫にかきとらむ暇もが旅行く吾は見つつしのはむ
父母が頭かき撫で幸く在れていひし言葉ぜ忘れかねつる

 

 

一通り外を見た後、温故創生館へ。

貯水池跡から出土した、百済系菩薩立像の復元品。

 

この仏像は、7世紀後半の百済仏の特徴を持っていることから、百済で造られて日本に持ち込まれた可能性が高い。
百済でも身分の高い人のみが持つことが出来たという。

『日本書紀』に、古代山城の築城を百済の亡命貴族が指導したって書かれていることと照らし合わせると、百済の亡命貴族がこれを持っていたのかも!って繋がるの、良いね晴れ

 

 

ここの出土品ではないのだけれど、百済や新羅の出土品の復元品が展示されていた。

きれ~キラキラ

 

鞠智城。

もうちょっと知識ついてから来たらより一層楽しめそう。

また時期を開けて来たい。