バスハイクで志式神社 | 筑前由紀のプチトリップ

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2024年現在、主に福岡県内をカメラ片手にうろうろ。
着物を着たり着なかったり
たまにバイクに乗ったり
季節の草花を見に行ったり
お寺や神社に行ったりしています。

 

志式神社

福岡県福岡市東区大字奈多1238-2

 

 

こちらも自分で来て大概書いてるのだけど、それでも発見はある。

 

これの使い方!

 

付属のスプーン的な物で掬って、拝殿の前にお供えするんだって!

確かに、設置場所的にそうなんだろうけどやった事なくて、初めてやった🥄

 

で、前回見て気になっていた「遥拝所」なんだけど、海に向かっていたみたい。

 

すぐ側の道を進んで行くと、海に繋がっていた‼︎

 

正面少し右に見えるのが相島。

 

志式神社の祭神である十城別命・稚武王という仲哀天皇の兄弟達。

仲哀天皇と共に九州までやっては来ているのだけど、仲哀天皇が亡くなった後、別の場所を守るようにと中心部隊から外されているらしい。

(葉山姫も、大和に帰る前に、アマテラスを広田国で祀るよう言われて船を降ろされている人。)

 

仲哀天皇が亡くなったという事は、仲哀天皇の兄弟にも次期天皇になる資格がある。

だからこそ、神功皇后らは彼らに仲哀天皇の死を伏せて遠ざけたのではないか。

 

ちなみに私、仲哀天皇と成務天皇って同時期に天皇やってたんじゃないかなぁって思うんだよね。

成務の在位期間と仲哀天皇の父であるヤマトタケルが30歳で亡くなる事考えたらそうなる。

ヤマトタケルが生きていたらすんなりと彼が次期天皇になってたかもしれないけど、亡くなっちゃったから、彼の弟か息子のどっちが天皇に相応しいかで派閥が出来たりとかして。

成務天皇から下は続かないんだけど今度は仲哀天皇も早死にしちゃうもんだから、こっから先の天皇も誰が相応しいかで荒れに荒れての、神功皇后の時代なんじゃないかと思われる。

 

魏志倭人伝にある倭国大乱も、この辺りの事だとするのが私的にはしっくり来るんだけどなぁ、どうなんでしょね。

(と書いた後で、七支刀や広開土王碑頃が神功皇后の時代って方がそれっぽいなと考えを改めたりなどしたのでった。)