被差別部落への関心と情熱の根元

 前回のブログで触れたように、野間は「私は中学の三年頃に大阪の千日前の盛り場を歩いていて、悪質の靴磨きにひっかかり、それ以後部落の人々を恐ろしく思うようになっていた。」と語り、その一方では「学生時代からその問題解決に向い眼を向け歩みつづけてきた」とも語っている。この発言を見る限り、野間は京都帝国大学の学生の時にはすでに部落に対する恐怖感を克服していたようにも思える。しかし、野間が部落に出入りし、水平社以来の部落解放運動の指導者たちと交流をもつのは大学を卒業して大阪市役所に就職してからであり、そのような直接的な出会いのない段階で野間が部落に対する恐怖感や差別観念を克服できていたとは考えられない。

 それでは学生時代に野間を部落差別問題の「解決に向い眼を向け歩み」させたものは何であったのだろうか。当然、大学に入ってから学んだマルクス主義の影響が考えられるが、それ以上に親鸞の系譜につながる在家仏教の教祖であった父、その父と共に歩んだ小商店主の母をもつという野間の出自が大きく関係しているのではないだろうか。この問題については、丸山眞男の『現代政治の思想と行動』における戦前の知識人形成の問題の分析をふまえた尾末奎司の『作家の戦中日記 1932―45』の「解説」の中での指摘(1)を敷衍させて、針生一郎が次のように述べている。

   もうひとつ、『作家の戦中日記』の解説のしめくくりとして、尾末奎司がつぎ 

  のよう指摘したのは傾聴に値する。彼は日本ファシズムが中間層のうち、主とし

  て進歩的動向に背を向けがちな小工場主、小建設請負業者、小商店主、小地主、

  小学校教員、下級官吏、僧などの層に支えられ、都市サラリーマン、ジャーナリ

  スト、教授、弁護士などの知的職業者層は、西洋的教養のため消極的ないし批判

  的だったが、教養が生活感情化されていないため批判をつらぬく勇気に欠けてい

  たという、丸山眞男の的確な分析によれば、野間はめずらしく後者を出自とする

  知識人だとする。だから。知識人として形成されるまでに何層もの厚い壁をつき

  ぬける必要があり、しかもつきぬけた世界をけっしてきりすてず、つねに自己の

  思想と大衆を媒介する課題を身体にかかえこんだ。そこにさらに小商店主として

  家計を支えながら、亡父の在家仏教をうけついで布教に奔走した母の下層民衆の

  解放と願望が、抗しがたい力で野間にうけつながれているという。(2) 

 このような針生の指摘が的を射たものであることは、野間の大学時代を背景とした自伝的長編小説『わが塔はそこに立つ』(1960年11月より『群像』連載。1962年刊。以下の引用は講談社文芸文庫より)から読みとることができる。野間の分身であるこの小説の主人公海塚草一は、在家専修念仏宗の一流派の教祖実鸞を父とし、子供の頃から実流という法名をもって源空(法然)、親鸞と伝承される専修念仏門の中心者の位置に坐るものと決められていた。彼はファシズムが台頭している1935年4月に京都帝国大学の仏文科に入り、『資本論』の読書会などに参加してマルクスを学ぶなかで、マルクス主義の立場と宗門や同人雑誌『芸術ノ-ト』の友人たちの間で激しく揺れ動く。そのような海塚にとっての重要な場所が、貧しい生活がゆえに形つくられた濃密な人間関係が息づいている「中之町」であった(3)。

   俺の行くところはそこ(中之町―引用者)以外にはない。それを俺はよく知っ

  ている。海塚は足いそがせたが、彼は自分のこの考えを承認するものはそこに一

  人もいないにちがいないと思っていた。それは如何に頭のなかで考えていたとこ

  ろで駄目なことで、彼が実行してみせなければならないことなのである。それを

  実行したもののみを彼等は信じるのであって、だからそれを実行した実鸞を彼等

  は信じ、いまもまた信じつづけているのである。

   これ以上はもう言わんよ。俺の行くところはそこ以外にないし、そこへ行かへ

  なんだら俺はきっと滅んでしまうことを俺はよく知っている。海塚は、中之町に

  特別な心をもって毎日通った実鸞を考えねばならなかったが、もちろん実鸞の心

  の中にあったものは、東国常陸の国の農民のなかにあった親鸞の姿であり、その

  燃えたつ行為だったにちがいない。

   もちろん海塚は実鸞生存中にはまだ余り小さかったので、実鸞の当時の行動の

  意味を明らかにすることは出来なかったが、中之町に特別な力を入れる実鸞の姿

  は彼の小さい心をとらえたのである。そしていま彼が宗門のすべてを否定しよう

  と努力をかたむける時、如何にしても否定することの出来ないものとして彼の前

  に残されるのは、中之町の人たちとともに生きようとしつづけた実鸞の心なので

  ある。そしてそれこそが海塚が実鸞から受け継ぐことの出来るただ一つのもので

  はないだろうか。(444―445頁)

 ここでは、マルクス主義に移行して父の開いた宗門を否定しようとした主人公の心の奥底に、親鸞とその心を一途に受け継ごうとした父がなお生きつづけていること描かれている。その親鸞の心とは、1207年の浄土念仏門に対する思想弾圧(後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然及び親鸞ら門弟7人が流罪とされた「承元の法難」)により京都から追放され、遠く越後へ流され、罪がとけた後も京都に帰ることなく越後にとどまり、さらに山を越えて常陸に移り、当時の戦乱につぐ戦乱のなかで罪を犯さずしては行き得ない民衆のなかに入り、民衆と共に生きた「燃えたつ行為」の底に流れているものであった(4)。

 そうして、この作品の中で野間が親鸞における「東国常陸」に見立てたのが「中之町」であった。この「中之町」について、土方鐵は「この中之町は被差別部落ではないかと、錯覚をおこすほど、わたしの少年期のムラ(被差別部落)に似ている」(5)と述べているが、野間の「学生時代からその(部落差別の―引用者)問題解決に向い眼を向け歩みつづけてきた」という発言からすると、大学時代を背景としたこの作品で、野間が部落を想定して「中之町」を創りだしたのは間違ないのではないだろうか。

 さらにこの場面でもうひとつ重要なのは、「彼が宗門のすべてを否定しようと努力をかたむける時、如何にしても否定することの出来ないものとして彼の前に残されるのは、中之町の人たちとともに生きようとしつづけた実鸞の心なのである。そしてそれこそが海塚が実鸞から受け継ぐことの出来るただ一つのものではないだろうか。」と語られていることである。まさに、針生が「小商店主として家計を支えながら、亡父の在家仏教をうけついで布教に奔走した母の下層民衆の解放と願望が、抗しがたい力で野間にうけつながれている」と指摘したように、部落に対する野間の強い関心と情熱も、ここから根元を発していたのである。

 しかし、野間のこのような考え方は、まだまだ観念的なものであり、それがしっかりと部落とその現実に足を付けたものになるのは、大阪市役所に就職して部落に入り、そこの人たちとの「たえざる対話、たえざる問題提起、たえざる討議、たえざる交渉」を経てからのことであった。

 

(1)野間宏『作家の戦中日記 1932―45』藤原書店、2001年。

(2)針生一郎「戦争中の作家形成過程を市中心に」『新日本文学』No.628、 

   2001年、17―18頁)。

(3)土方鐵「親鸞を否定できず 『わが塔はそこに立つ』再読」(同前、11

   頁)参照。

(4)野間宏『歎異抄』(ちくま文庫、1986年、53―59、62―65頁)

   参照。

(5)土方鐵、前掲論文、8頁。