水平社創立宣言の起草者であり、部落解放運動、平和運動の活動家であると同時に、劇作家でもあった西光万吉が1923年10月に中外日報社から刊行した『戯曲二編 毗瑠璃王 浄火』(二刷以降は『浄火』と改題)のなかの一編、『浄火』の第5回目です。
第5回 3.15事件と西光文学
1924年12月1―3日、全国府県委員長会議が開催され、警視庁のスパイ遠島哲夫と、南梅吉をはじめとする全水幹部との癒着や金銭授受の問題で、委員長の南梅吉、中央執行委員の平野小剣を除名、阪本・西光ら創立幹部の総辞職が決定された。しかも、それ以前の3月4日にもたれた全水府県代表者会議では、この問題に関する西光も含めた創立幹部5名に対する査問糾弾も行われており、「お前はどうかと一人一人を虱つぶしに糾弾し始めた」神戸水平社の前田平一は、「『西光君、君はどのような事に使っとるのかね』というと、(略)『前田さん、私は年が若いですからね、前田さんの考えているような聖人でも君子でもございません』といったね。私はこの言葉が胸に突き刺さりましたね。私は何という事をしているのだと考え、西光君に誤りましたよ。(略)実に西光君は、ええ事をいいましたよ。私自身、振り返って見たのですが、何もそんな金で無いにしても、ろくな事はしてないもんね。」(1)と語っている。
また、愛媛県水平社から出席していた『愛媛新報』の記者でもあった松波彦四郎は、「三十にも五十にもなった大の男が、ある者は大声を挙げて号泣し、ある者は座にたえられなくなって隣室にころがって行って泣き叫び、ある者は泣きに咽び泣いて嗚咽した(略)あれを思いこれを考えた時、五名の闘士の胸には反逆と憤怒と痛恨の焔が燃え挙がった事であろう。そうして無限の恨みを含んで地下に眠る祖先の霊や、のたれ死するより外に道なき三百万の将来を考えた時、思わず胸が一杯になって男泣きに泣いたのであろう。」(2)と報告している。
この時の創立幹部を総退陣に追い込んだ査問糾弾の背景には、内務省・警察および日本共産党の存在が指摘されているが(3)、西光自身はこれについて何も語っていない。その後、西光は「私は水平社創立後、まもなく農民運動に移った。それはもとより封建的な農民の生活と観念が変わらぬかぎり、われらに対する賤視差別も消えないからである。」(4)と述べているように、農民運動に転身していった。しかし私は、こうした理由だけではなく、先の査問糾弾に直面することで、全国水平社がもはや西光が願ったような「相互の心が密着し」たものでなくなったのを実感したことが理由の一つであったと思っている。
こうして西光は、地元の奈良県で日本農民組合の組織づくりや小作争議の指導に没頭していき、この時の経験をふまえて戯曲「ストライキ」「足」(1926)、「冬の夜」(1927)を書いた。これらの作品は、地主との小作争議裁判で敗れた農民組合による同盟休校、同じ村の中で地主側の証人となった料理屋の亭主と小作人の対立、農民組合の中の小作人同士の矛盾を描いており、「ふと登場する名もなき庶民の活き活きとした会話場面にこそ西光の西光らしさがあった」というような特色が最も発揮された作品であったが(45)、農民の「われらに対する賤視差別」の問題は一切出てこない。
この当時の運動の状況について、宮崎芳彦は、渡辺徹の著書『解放運動の理論と歴史』(明治図書、1974年)を引用しながら、「1926年、7年には、共産党は公式文書において、〈身分〉(従来は〈エタ〉民族の語の使用例が多い)差別としての部落差別は〈もうほとんどとない〉と宣言していた。のこるは階級差別と規定して、水平社運動内の党員・シンパ・同調者をそこに〈かりたて〉、運動と人びとを〈いかに利用するか〉に腐心した。〈大衆運動の統一と団結に、どれだけの配慮をしたか―なんにもしていない〉。その意味で共産党は運動にとって〈ガン〉であった。」(46)と指摘している。西光も、このような部落差別を軽視し、階級闘争を最優先課題に設定する共産党の方針に影響されていたのではないだろうか。
しかし、大西巨人が民衆の多層構造間の反目や対立を取りあげた小説「黄金伝説」(『新日本文学』1954年1月))で、主人公に「日農や細胞がいくら呼びかけても、一般農民がわれわれと共同闘争に立ちあがらないのには、この部落民と非部落民との疎隔・不和が全部でないにしろ重大な支障・理由になっている。」(7)と語らせているように、部落の農民と部落外の農民の共同闘争の困難さの問題は奈良県においても存在していたのは間違いないであろう(8)。とするなら、西光は部落差別による民衆の分断と共同闘争の断絶の問題に焦点をあてるべきではなかっただろうか。「浄火」の作者・西光ならそれができたと思われるが、そのような西光の可能性を暴力的に押しつぶしたのが、全国の労働運動・農民運動・水平社運動の対する大弾圧であった1928年の3・15事件だった。
この3.15事件で検挙された西光は懲役5年の刑に処せられ、奈良刑務所に服役し、独居房に入れられ、獄中で共産党(西光は1927年頃に入党)からの転向声明である「『マツリゴト』についての粗雑な考察」を書き、教務所に提出した。日本共産党ついて、西光は「小さな争議にまで天皇制打倒を持ち出そうとする共産党の方針に反対した。そんなことをすれば、いたずらに争議を悪化させるのみならず、組合大衆まで離反させるおそれがある。のみならず、私は純然たるマルキストになりきれぬものがあった」(9)と述べ、民衆の生活実感と隔絶した性急な政治冒険主義の誤りを的確に批判している。
こうして1933年2月11日に仮釈放された西光は、高松地方裁判所糾弾闘争に入っていた全国水平社に対して、この闘争を国際的な視野をもったものとするべく、「当時ナチスの人種偏見による日本人賤視の事実と関連して、効果的に解決すべく、ドイツ大使館への抗議文の手交とともに、反ナチス国民大会の開催等」を申し入れた。しかし、「抗議文だけは届けられたが、『国民』運動の展開はファッショ的であるとして、左翼的な人々に拒否された」。これに加えて、「出獄後二三年頃であったが、私は関西地方の委員会の何かの席へ特に招かれた。そして私の転向について聞かれたので、想っていることを話した。そして人々から冷たい嘲笑を浴びた。」ことなどにより、西光は「水平運動から遠ざかった。」(10)。
このようにして、搾取や抑圧のない純粋で清らかな理想世界の実現を水平社運動に求めた西光の夢は、完全に破れ去ることとなった。3.15事件以後の西光の文学について、山岸嵩は「やや観念的な史劇作家西光万吉はその後も生きたが、被差別部落が生んだはじめての部落問題作家であり、プロレタリア農民作家西光万吉は3.15で死んでしまっている」(11)と語っているが、私もその通りだと思う。たしかに部落問題文学に関しては、戦後も西光は差別糾弾闘争を描いた戯曲「荊の冠」(年月日不明、未発表。『西光万吉著作集』第三巻、濤書房、1974年収録)を書いている。しかし、それはもはや、闘争の渦中にある部落と部落民衆の心の動きに鋭敏に感応して書き上げられた『浄火』のような輝きを放つものではなかった。
注
(1)稲田耕一『わが水平社―前田平一と神戸水平社』神戸水平史研究会、1973年、103―105頁(宮崎芳彦遺稿『新・水平社運動史 1921―1924年』宮崎芳彦遺稿刊行会、2019年、360―361頁からの重引)。
(2)高市光男編『愛媛県近代部落資料』(上)近代史文庫大阪研究会、1979年、276頁(宮崎芳彦遺稿『新・水平社運動史 1921―1924年』前掲、357―358頁からの重引)。
(3)詳しくは宮崎芳彦遺稿『新・水平社運動史1921―1924年』(前掲)を参照されたい。
(4)西光万吉「略歴と感想」(『西光万吉著作集』第一巻、濤書房、1971年、87頁)。
(5)梅沢利彦・平野栄久・山岸嵩『文学の中の被差別部落像 戦前篇』(明石書店、1980年、257頁)。
(6)宮崎芳彦遺稿『日本共産党と水平社 コミンテルン報告を読み解く』(宮崎芳彦遺稿刊行会、2021年、18頁)。
(7)詳しくは拙稿「大西巨人と部落差別問題(上)―「黄金伝説」と『神聖喜劇』」(解放文学の軌跡 第1回)(『革』第33号、2020年)を参照されたい。
(8)『奈良県の特高資料』の「水平社幹部の重なる者は、いずれも農民組合の幹部たるに至れり」(宮崎芳彦「年譜―西光万吉(清原一隆)伝」『西光万吉集』解放出版社、1990年、441頁)という記述は、そのような状況を反映しているのではないだろうか。
(9)西光万吉「略歴と感想」(前掲書、88頁)。
(10) 同前、91頁。
(11)前掲『文学の中の被差別部落像 戦前篇』262頁。