水平社創立宣言の起草者であり、部落解放運動、平和運動の活動家であると同時に、劇作家でもあった西光万吉が1923年10月に中外日報社から刊行した『戯曲二編 毗瑠璃王 浄火』(二刷以降は『浄火』と改題)のなかの一編、『浄火』の最終回です。

 

西光の生涯にわたる思想と行動

 1933年の転向声明以後、西光はさらにその考えをすすめて、「マツリゴトの確立による高次的タカマノハラの展開」をとなえて国家主義運動を推進していった。「高次的タカマノハラの展開」とは、日本神話に描かれた「高天原」は「単なる神話であるよりも歴史である」として、「天照大神を中心に、みんなが、その赤ん坊として真実に同胞として楽しく生活してゐたような」「君民一如搾取なき社会」「赤子思想と奉還思想の理想郷」である「高天原」を現代に展開するというもので(1)、天皇のまなざしのもとで、すべての国民が等しく「仁」(慈しみ)を受けることができるという天皇制の「一視同仁」に基づいた主張であった。

このような「高次的タカマノハラの展開」について、西光の妻・清原美寿子は、「西光独自の日本主義の運動でした」(2)と語っているが、日本神話そのものに社会的諸矛盾の解決を求めたのは、西光の場合だけではなかった。たとえば、橋川文三が『昭和維新試論』(『朝日新聞社』1984年)で三章にわたって取りあげている渥美勝(1877―1928)がそうである。西光より18歳年上の渥美は、京大時代に学業放棄し、仏門を訪ね、教会の門をたたき、西欧の哲学に沈潜することによって煩悶の解決を求めるという、のちの西光とよく似た道を歩んでいる。そうした渥美がたどりついたのが、日本神話による自己救済であり、「皇国の神話は、決してたんなる伝説ではない。過去の神話的な物語や記録として神殿に祭りこまれてしまうべきではない。」として、西光に先駆けて「真の維新を断行して、高天原を地上に建設せよ」という詩的な空想の実現を訴えた(3)。橋川は渥美を昭和維新運動の原点に存在する者として位置づけているが、「天皇制の帰結としての国家主義、国体完成としての同胞社会主義、マツリゴトによる高次的なタカマノハラの展開こそ、昭和維新のスローガンではなかろうか」(4)と考えた西光は、間違いなく昭和維新運動の願望を受け継いでいた。

このように、西光にとって「高次的タカマガハラ」とは、煩悶から脱出するために希求してきた搾取や抑圧のない純粋で清らかな理想世界と日本神話とを接続させたものであった。その後、西光は、「党誓」に「光輝ある建国の本義に基き君臣一如搾取なき新日本の建設を期す」ことをかかげ、天皇主義、国家社会主義、アジア主義、超国家主義を綱領とする大日本国家社会党(1934年3月に石川準十郎を総理として結党)や、国体的農民運動(赤子・奉還思想によって国体を明徴しつつ行う)を推進する皇国農民同盟(1933年11月に吉田賢一を理事長として結成)、さらに神国主義を純化させた〈大「惟神(かんながら)」運動〉(1938年)を経由しながら(5)、「高次的タカマノハラ」を原理とする社会運動に突き進んでいった。

その中で、水平社に対して、「かくしてまさしく水平社とは皇国日本に対する反逆の名であり、そこには厘毫も国体的意義は含まれてゐない。」と激しく非難し、「今や我らは『人間に光りあれ』人世に熱あれの願望を惟神道に求め八紘一宇の高天原展開に精進せんとするものだ」と述べ、水平社創立宣言と「八紘一宇」とを結びつけていった(6)。こうして西光は、「八紘一宇は民族と打算を超えて、他民族にもマツリゴトをもってし、地上億兆の民をしておのおのその所を得せしめ、これをおのずから、皇民として帰らしめる」(7)、「もとより、こんにち、忠勇なる皇軍が捧げて、中国の民衆に太陽の回帰を告げる旭日軍旗も、また大和御平定の金鵄と意義を同じうするものてあることは論をまたぬ。」(8)と述べて、中国侵略を全面的に支持していった。

いうまでもなくアジア太平洋戦争とは、西光が「当時の英国は、私にとっては世界最大の搾取者であり、アジア侵略者であった。」(9)と強調したように、一面では対帝国主義のための戦争であったが、同時に植民地侵略戦争でもあった。そして、戦争中に喧伝された普遍主義的な多民族国家の倫理を装った「八紘一宇」(世界中の全ての人々が天皇というひとつの屋根の下に住まうことができる)は、排他的な民族主義を内包する帝国的国民主義のあくまで建前であって、日本の植民地侵略戦争を隠蔽するために用いられたスローガンであった。

こうした戦争とファシズムを代表する「八紘一宇」というイデオロギーに西光が吸引されていったのは、戦後すぐの「日本がその悪行のために敗れ、自分がその悪行を浄化するための真の智恵と気力を欠いて、その悪行に引きずられていたからである。日本の悪業は、分に相応した私の悪業にほかならぬ。」(10)という発言から読み取れるように、搾取や抑圧のない純粋で清らかな理想世界の実現を熱烈に追いかけるあまり、植民地侵略のための戦争という現実と自らが内面化している植民地主義、天皇主義の問題に厳しい目を向けていなかったことによるものと思われる。しかも、そのような個人の理想の全体への総合という熱望は、歴史的に国民共同体によって排除され虐げられてきた少数者であるがゆえに、より一層加速化されていったのではないだろうか(11)。

戦後、アジア太平洋戦争の敗北によって夢を打ち砕かれた西光は、平和憲法の理念に「不戦日本」(絶対平和主義)の理想を見出し、その基礎の上に「和栄政策」(国際的な平和貢献)を日本に義務づけることで「不戦世界」を実現しようと努力した(12)。そして、死の間際まで「キムラサン、コノゴロ、ネッシンニカンガエテイルコトガアリマス、ソレハ、ヒブソウ中立トセカイボーウエキケンショウノコトデス コノモンダイコソ大セツナコトデス」と、見舞いに訪れた木村京太郎にボールペンで便せんに書いて訴え(13)、人間解放の闘いをやりつづけるという不屈の意志を示した。

このように見てくると、西光の生涯にわたる思想と行動は、水平社運動、農民運動、国家社会主義、天皇主義、アジア主義、農本主義、超国家主義、絶対平和主義、非武装中立と、左右に激しく揺れている。しかし、その底には、自らの理想を時代のイデオロギーに接合させて普遍的な人間解放の原理として拡大しようとする熱望が一貫して流れていたと思われる。そのような意味からすると、西光の戦前・戦中は、自らの理想や熱望のみをフィルターにして現実を見つめることの危うさを露呈させた時代であったといえるのではないだろうか。

 

(1)西光万吉「君臣一如搾取なき高次的タカマノハラを展開せよ」(『街頭新聞』第7号、1944年12月。『西光万吉著作集』第二巻、濤書房、1974年に収録、194、193頁)。

(2)清原美寿子「夫・西光の思い出」(『西光万吉集』解放出版社、1990年、389頁)。

(3)橋川文三「渥美勝のこと」(前掲『昭和維新試論』)。

(4)西光万吉「明治維新のスローガンと昭和維新のスローガン」(『街頭新聞』第20号、1935年10月。『西光万吉著作集』第二巻、前掲、27頁)。

(5)宮崎芳彦「年譜―西光万吉(清原一隆)伝」(前掲『西光万吉集』、460、466―467頁)。

(6)文中の引用は、西光万吉『新生運動』第8号、1938年2月15日、3頁(朝治武『水平社の原像 部落・差別・解放・運動・組織・人間』解放出版社、2001年、45頁からの重引)。

(7)西光万吉「新体制夜話」(『ひのもと』第4巻第2~5号、1941年2~5月。『西光万吉著作集』第二巻、前掲、137頁)。

(8) 同 「事変下に金鵄を語る」(『学生・青年運動』1941年3月。『西光万吉著作集』第二巻、前掲、92―93頁)。

(9) 同 「略歴と感想」(前掲書、94頁)

10) 同 「略歴と感想」(前掲書、96頁)。

11)酒井直樹「マイノリティを魅惑する国民主義」(伊豫谷登士翁編『グローバリゼーション』作品社、2002年)を参照。

12)西光の和栄制政策については、詳しくは加藤昌彦『水平社宣言起草者 西光万吉の戦後―非暴力政策を掲げつづけて』(明石書店、2007年)を参照されたい。

13)宮崎芳彦「年譜―西光万吉(清原一隆)伝」(前掲書、492―493頁)。