中島みゆきの「誕生」の話は何度も書いていますが、追加しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

中島みゆき 誕生

 

ひとりでも私は 生きられるけど
でもだれかとならば 人生ははるかに違う
強気で強気で生きてる人ほど些細な寂しさで
つまずくものよ

呼んでも 呼んでも とどかぬ恋でも
むなしい恋なんて ある筈がないと言ってよ
待っても 待っても 戻らぬ恋でも
無駄な月日なんてないと言ってよ

めぐり来る季節をかぞえながら めぐり逢う
命をかぞえながら
畏れながら憎みながら いつか愛を知ってゆく
泣きながら 生まれる子供のように
もいちど生きるため 泣いて来たのね

※Remember 生まれた時だれでも言われた筈
耳をすまして思い出して最初に聞いた Welcome※

☆Remember 生まれたこと
Remember 出逢ったこと
Remember 一緒に生きてたこと
そして覚えていること☆

ふりかえるひまもなく時は流れて
帰りたい場所がまたひとつずつ消えてゆく
すがりたいだれかを失うたびに
だれかを守りたい私になるの

わかれゆく季節をかぞえながら
わかれゆく命をかぞえながら
祈りながら嘆きながら とうに愛を知っている
忘れない言葉はだれでもひとつ
たとえサヨナラでも 愛してる意味

(※くりかえし)

Remember けれどもしも思い出せないなら
わたしいつでもあなたに言う 生まれてくれて
Welcome

(☆くりかえし)

 

さて、

呼んでも 呼んでも とどかぬ恋でも
むなしい恋なんて ある筈がないと言ってよ
待っても 待っても 戻らぬ恋でも
無駄な月日なんてないと言ってよ

めぐり来る季節をかぞえながら めぐり逢う
命をかぞえながら
畏れながら憎みながら いつか愛を知ってゆく
泣きながら 生まれる子供のように
もいちど生きるため 泣いて来たのね

 

中島みゆきは失恋や、片思い、届かない恋心を歌い続けてきました。

それは、一口に言えば、前世からのカルマなのです。

 

過去世で縁のあったひとと、何らかの恋愛関係になるとき、過去世の関係と逆の立場を互いに体験し、過去世で満たされなかった、魂の成長を果たそうとします。

 

過去世で女性を振って、身勝手に生きた男性は、今世に女性に生まれ変わり、相手の立場に立って、自分の過ちに気づこうとするのです。

 

そのような、魂の関係によって、互いに成長し合っていこうとしているのです。

 

その視点で、上の歌詞を読み返してみましょう。

 

呼んでも 呼んでも とどかぬ恋でも
むなしい恋なんて ある筈がないと言ってよ
待っても 待っても 戻らぬ恋でも
無駄な月日なんてないと言ってよ

 

むなしい恋なんて、ある筈がないのです。

無駄な月日なんてないのです。

 

なぜなら、

 

畏れながら憎みながら いつか愛を知ってゆく

からです。

そして、そのために、

もいちど生きるため 泣いて来たのね

ということなのです。

 

すべての答えが、この歌詞で歌われているのです。

 

ふりかえるひまもなく時は流れて
帰りたい場所がまたひとつずつ消えてゆく
すがりたいだれかを失うたびに
だれかを守りたい私になるの

人生が忙しく、過ぎていきます。

ふりかえる暇もなく、その場、その場の対応に追われて、時が流れていきます。

 

そして、帰りたい場所が消えていきます。

 

この地上から、帰りたい場所が消えていくのです。

 

それによって、もはや地上の執着が消え、霊界へ帰ろうとしているのです。

 

依存する関係が消えていきます。

依存する関係が消えていくことは、人間として成長した証なのです。

だからこそ、誰かを守りたいという、心の広さに代わっていくのです。

 

これが人間界から、天使界への成長なのです。

守護天使に助けを求めて、人生をおそるおそる生きてきて、

魂が成長した暁には、自らが天使界へと階梯を一つ上がっていくのです。

 

そのためにこそ、「愛」を自らの性分にしていく必要があるのです。

わかれゆく季節をかぞえながら
わかれゆく命をかぞえながら
祈りながら嘆きながら とうに愛を知っている
忘れない言葉はだれでもひとつ
たとえサヨナラでも 愛してる意味

天使に祈りながら、嘆きながら、

しかし、気づけば、とうに愛を知っているのです。

 

たとえ、サヨナラでも、そこに愛があることを知るのです。

 

地上界と霊界の関係はネガとポジの関係です。

なぜ、ネガとポジを行き来していくのでしょう?

 

それは、魂の成長のため、

それは、生命の進化のため、

そして、それは、愛の深化のため、

なのです。

 

神様がこの宇宙を創造した秘密がそこにあります。

神が創造した宇宙は、開放系なのです。

閉ざされた完璧な世界は、いわば死の世界と同じです。

悪は存在しないけれど、善も愛も発展する余力がありません。

 

そういう世界を神は創造しませんでした。

神が創造したのは、開放系で、自らが自らの意志で、

自らの成長を認識し、自らに課題を与え、自ら成長しようとする、自己教育のプログラムが仕組まれたのです。

 

そのために、悪は善に替えるため、あるいは、善の未完成さとしての存在を許されているのです。

全能の神が悪の存在を許すことや悪が存在させた理由がそこにあります。

 

だからこそ、私たちはネガとポジを行き来し、

悪を体験し、

苦悩を経験し、

魂を成長させていくのです。