【緊急投稿】
深夜未明、普段は目を覚ますことはありませんが不思議と目が覚め何故か直ぐにスマホのニュースを見ました。すると、『延暦寺根本中堂改修現場から出火、被害はなし』の速報が、、びっくりしました。被害がなかったことに安堵すると同時に強い憤りを感じました。
比叡山延暦寺は有史以来、火災の歴史でもあります。昭和以降も数々の火災に見舞われ、その度にその因は何かを比叡山の僧侶は『懺悔』し『自問自答』を繰り返し『戒め』としてきたはずです。今回の火災の原因は不明ではありますが、私が最初に頭に浮かんだのが今年初めから問題視されて今も解決されていない『性被害・性暴力』問題です。
因が何であれ『根本中堂』においてこのような事態を招いたことは宗祖・伝教大師最澄様の『気づき』と受け止めなければなりません。
南無宗祖根本傳教大師福聚金剛
❖【比叡山の七不思議】一つ目小僧(ひとつめこぞう)
山僧よ、僧の本分を忘るるなかれ
一つ目小僧(ひとつめこぞう)
東塔エリアに「総持坊」という修行道場があります。その玄関の上部に、1枚の絵が掛けられています。そこには、第18世座主である慈恵大師(じえだいし)、通称・元三大師良源(がんざんだいし りょうげん)の弟子とされる「慈忍和尚(じにんおしょう)」が描かれているのですが、それは一つ目、一本足で右手に鉦(かね)を持った奇っ怪な姿をしています。
慈忍は良源の教えを実践し、戒めを守り、他の修行僧にも厳しい僧侶で、「自分が死んだ後も仏法が廃れないように、お山をお守りする」と、生きているうちから誓いを立てていました。
さて、この慈忍が亡くなった後のことです。若い僧が修行を怠けたり、肉食をしたり、酒を飲んだりすると、必ずその僧の前に、目はひとつ、足は一本の一つ目小僧がスーッと現れ、「しっかり精進しろ!」と大声で怒鳴りつけるのでした。この一つ目小僧こそ、慈忍和尚の化身で、死んでも尚、比叡山の戒律を守り続けたのです。
慈忍和尚のお墓は比叡山の横川から東へ2キロほど離れた飯室(いいむろ)という所にあるのですが、この辺りを荒らすと祟りがあると言われており、“比叡山三魔所”のひとつとされています。
❖慈忍和尚・慈忍和尚廟
比叡山四大魔所の一つ、慈忍和尚廟は比叡山の中心地・三塔からかなり外れた場所にある。比叡山の一番奥にあたる横川から 坂本方面へ下ること約2キロのところに飯室谷という場所がある。飯室谷は“延暦寺五大堂”の一つである飯室谷不動堂があり、観光スポットとなった三塔と比べると小規模ではあるが、比叡山では重要な場所と目されている。その地に慈忍和尚廟はある。
慈忍和尚は僧名を尋禅といい、18代天台座主である慈慧大師(元三大師)の高弟であり、後に19代の天台座主となった人物である。座主に就いてからも修行に明け暮れ、その姿は多くの僧の励みになったという。
そのような名僧の墓所が【魔所】として挙げられているのか。それには次のような伝説がある。
自らも修行三昧であった慈忍和尚は亡くなってからもことのほか戒律に厳しく、一つ目で一本足の妖怪と姿を変えて、『山僧よ、僧の本分を忘るるなかれ』ということで夜な夜な破戒の僧を見つけては鉦を叩いて脅しつけ、山から下りざるを得ないようにさせたというのである。つまり比叡山の格式を守るために“魔道の者”として妖怪の姿へ変化させたのである。自らを魔道に貶めつつ、比叡山を守り固めようとするその凄まじい思いは何とも言い難いものがある。それ故、畏敬の念を持って慈忍和尚廟は聖域となり、また魔所となったわけである。
東塔の根本中堂を少し下ったところに総持坊という寺院がある。その坊の玄関にある額を見上げると、そこに“一眼一足”の妖怪の姿が描かれている。これが慈忍和尚の変わり果てた姿である。そして玄関の脇には慈忍和尚が山を回る際に使った杖が立てかけられてある。