❖千日回峰行をやったら何が分かりますか?
『そんなもんは何もない。大事なのは、やった後や!修行っちゅうのは、自分との闘いや。修行を終わってからがほんまの「行」や。どこまで空っぽにできるか、無心になれるかが仏の修行』
『阿闍梨さんは、なんで二回も千日回峰行をやったんですか?』そう尋ねたのは、慈覚大師の巡礼中(慈覚大師の生誕地である栃木県岩舟まちから青森県の恐山まで一六〇〇キロを歩いた巡礼)に泊まった宿でくつろいでいたとき。
一度の満行でも難しいと言われるのに、阿闍梨さんは五十四歳で一度目、六十歳で二度目の満行という稀な経歴の人やった。比叡山の千年の歴史の中でも二度の満行は三人しかいないらしい。
『まだ歩きたかった、それだけや』
と、拍子抜けするような理由。(それだけかいな?)
『ワシは得度したのも遅かったし(三十九歳)、他の坊主は一回歩けば分かるんやろうけど、ワシには分からんかったからな』
ふーん、二回もやったら、何が分かりますか?
『そんなもんは何もない。大事なのは、やった後や!』
じゃ、なんで修行するんですか?
『修行っちゅうのは、自分との闘いや』
その闘いの中で、いろんなことが分かるとちゃいますの?
『修行中は気がつかないことが多いもんや、修行を終わってからがほんまの「行」や』
修行の後の「行」って、どんなことですの?
『簡単に言うたら、"利他行"のことや。みんな、そのときは必死で修行するやろ?それで何かの称号を授かったとしても、自分の勲章にはなるかもしれんけれど、それまでや。回峰行でいうと、千日のうち七百日は自分のための、"自利行"で、三百日は人のために行う"利他行"。修行は自分のためだけじゃない。草木一本にも仏の魂が宿ってる。それを歩きながら見て、感謝する。すべてを受け入れる。そういうことが行者としての自らを「修(おさ)」める「行」いや』
『仏の修行っちゅうのは、自分をどこまで空っぽにできるか、どこまで無心になれるか、ということや。悟りというのは、とことん人間を知っていったうえで得られるもの。どこまでも空っぽで無心であろうとすることと、どこまでも人間を知っていこうすることは、決して矛盾しない。お前もいつか分かるやろ』
俺には難しい話やなあ
『言葉で分かりやすく言うと、そういう言い方になるけど、言葉にでけへん部分がある。そこが大事なところなんや。こんなん序の口の話や』
言葉で伝え切れんって、そんなら、どうやって理解するんですか?
『ワシを見ろ!』
(見てたら分かるんかいな?) 一事が万事、そんな調子。分りたかったら、とにかく近くにおって見てるしかないと阿闍梨さんは言う。
阿闍梨さん、なんかぼやけた答えですねえ
自分の無理解を棚に上げてそう言うと、阿闍梨さんは決まってこう答えた。
『今にわかる』
いつ分かるやろ?
『死ぬまでには分かるやろ』
(なんやて?明日死んだら、そのときには分かってるんかいな?)と内心は不満だらけ。
阿闍梨さんは、俺の質問を無視することもあった。そんなとき、俺は『阿闍梨さんでも答えられへんのやな』くらいにしか考えてなかった。
今にして思うと、『答えない』という答え方だったのかもしれへんなあという気がする。あるいは『今はまだ言うても分からんはずやから、時機を待とう』という判断もあったかもしれん。
阿闍梨さんは、答えでなく、『あそこ』と指差して『そこまで行けば何か分かる』と示してくれるから、そこまで行けるかどうかが自分の課題になってくる。
『いつか分かる』と言われれば、『いつか』を待ち続けるしかない。だからといって、ぼんやりと待ってても大事な『時』を逃してしまう。そこはしっかり感度を高めて自分でつかまえていくしかない。
阿闍梨さんも、よく言ってた。
『それが遠いか近いかは、ワシには分からん。お前の尺度やから』
その『尺度』もまた難しい話やった、、、
大阿闍梨酒井雄哉の遺言 玄秀盛 著 佼成出版社