前回取り上げた、慶應義塾大学法学部政治学科名誉教授の故・中村菊男先生の「昭和陸軍秘史」(昭和43年番町書房刊)の姉妹書「昭和海軍秘史**」(昭和44年番町書房刊)より、今回はまず大野竹二海軍少将(海兵44期、英国オックスフォード大学私費留学、海大26期)の証言から、次の部分を読みましょう。大野少将(*当時大佐)は開戦直前まで、軍令部第一部(*作戦部)で戦争指導担当の「甲部員」という重要な立場にあった方です。(*裕鴻註記)

・・・中村:(*前略) つまり本末顛倒していて、戦争がやむをえないものであったなら、国内体制を早く整備し、その上で戦争するというのであればわかるのですが、逆に戦争によって政治が引きずられていった感が強い。最後までそうした状態がつづいていっているのではないかと思います。

 さらにもう一つ、暗殺の脅威も重なっていたのじゃないかと思います。元憲兵(大佐)の大谷敬二郎さんがその著書『二・二六事件の謎』(*柏書房1967年初版、1979年新版)の中で、二・二六事件以降は粛軍ができて陸軍内部での派閥対立も克服され(*皇道派が一掃され統制派が実権を握った)、暗殺の脅威もなくなったのだが、二・二六事件の与えた脅威は大きく、ふたたびあのようなことが起こる場合があるのではないかという不安な気持が終始つきまとった――という意味ことを書いておられました。これは、そのとおりじゃなかったかと思います。

 こうしたことと関連して、日米戦争の前に海軍が内乱状態が起きることを恐れたという話をこれまでの対談できいています。つまり、対米戦争になるのを食いとめても、その結果、(*陸軍の)対米強硬派がクーデターなどを起こしてしまったら、もっと不利な状態で戦争することになるにちがいない、といった考えが永野(*修身)さん(*開戦時の軍令部総長)たちの頭にあったのではないかということですが。

 大野:それはある程度事実ではないかと思いますね。さきほどもいいましたが、(*日独伊)三国同盟は軍令部も海軍省も反対だったのです。ところが、最終的に崩れてしまったのです。この条約(*三国同盟)は対米戦争をやらないために結ぶのだ、締約も十年という長期のものであって参戦の問題も自主的にやればよいのだ、というようにうまく説得されたのだと思うのです。

 この段階ではもはや陸軍と対立するのは非常にまずいとも判断されたのではないでしょうか。大局的判断にもとづく挙国一致ということで、ついに同意することになったと思います。

 その底には、やはり陸海軍の撃ち合い(*皇軍相撃)、ひいては国内における撃ち合いを生じさせるかも知れないという恐れがあったと思うのです。こういうことは、対米戦争のときにおいても、あっただろうと思いますね。

 〔松岡外相の独断〕

 中村:推理をはたらかせてみると、そうした場合、ヤミの力(*右翼勢力)が働いたということはありませんか。

 大野:三国同盟のときも、某々同志会などといって外郭団体で同盟締結を推進する動きはありましたが、一部の国民にすぎません。しかし、たとえ一部の者たちの行動であっても強力な推進力になることはありますね。そういったものに押されて海軍が同盟締結に賛成したわけではありません。だいたい三国同盟は、いってみれば松岡(*洋右)外相が一人でやったようなものですね。松岡さんが、どの程度リッベントロップ独外相やスターマー(*独特使)さんと話し合っていたかはわかりませんが。私などスターマーさんがいつ日本にやってきたかも知らなかったほどで、わかったときには、すでに軽井沢に行っていたというありさまです。だからもはや問題は事務当局の手から離れてしまっていたのです。

 本来なら事務当局で連絡し連絡会議を行ない、重要なものであれば内容によって両総長(*参謀総長と軍令部総長)あるいは首相が参内して内奏するか、さらには内奏して御裁可を仰ぐか、またときによっては御前会議を開くということになるのです。つまり下から漸次上へといくのですが、三国同盟のときは、そうでなかった。八月上旬(昭和十五年)に事務当局で案がつくられたのが最後ですよ。「時局処理要綱」や、その他の国策要綱などは、いずれも事務当局で話し合いの上つくっていったのですがね。

 しかし、ここで問題になるのは、やはり組織ですね。軍令部には戦争指導班が設けられており、参謀本部にも同じものがあったが外務省にはありません。実際は、これらが一つに集まっておるべきでしょう。

 中村:この問題は、基本的には(*明治)憲法の問題になりますね。

 大野:統帥権の問題がありますからね。

 中村:そのような官制上の問題を克服しようという動きはなかったでしょうか。

 大野:なかったでしょう。やりにくいことですよ。(*後略)・・・(**前掲書126~129頁)

 このようなやり取りがあるのですが、特に前回、富岡定俊海軍少将が戦後の巣鴨刑務所に、A級戦犯として収監中の永野修身元帥海軍大将(開戦時の軍令部総長)を訪ねた際に聞いた、「一年前の、(*日独伊)三国同盟ぐらいのときに舵を取る(*方針変更する)なら別だが、ここまできて、満洲から手を引けというアメリカの条件(ハル・ノートを指す)を入れるとしたら、クーデターが起こるだろう。クーデターを起こすのはだいたい陸軍だろう、そうなると陸海軍が相打つことになる。海軍は二つ(*避戦派と主戦派)に別れるかもしれないが、とにかくまた(*対米英)戦争になる。この戦争は支離滅裂なものだ。どうしても戦争をさけられないとすれば、大義名分にそった戦争を正々とやって収拾を考えた方がよい、と自分(*永野総長)は考えたのだ」という言葉の通り、陸軍の強硬派がクーデターを起こす可能性を真剣に危惧していたことは、この大野海軍少将の証言でも確認できるのです。

 尚、上記の中村菊男先生の質問部分にもあるように、大谷敬二郎憲兵大佐は戦後の自著のなかで、二・二六事件以後は陸軍将校による要人暗殺テロの可能性を否定していますが、本ブログ別シリーズ「大東亜戦争と日本」の第(77)回でも取り上げた通り、内田成志海軍大佐(*52、海大34、開戦当時中佐)による戦後記事「海軍作戦計画の全貌」(当初「人物往来」昭和31年2月号所収、のちに「日米開戦と山本五十六***」新人物往来社2011年刊に再録)に次のような記述があります。

・・・尚従来しばしば軍令部の第一課(*作戦課)と参謀本部第二課(*作戦課)との間には芝の水交社(*海軍士官クラブ組織)の一室で、作戦思想の調節等を目的とする懇談会が行われて居たが、(*昭和16年)8月29日陸軍の対南方戦備促進に関する説明が行われた。その際には、陸軍の一参謀(特に名を秘す)は第三次近衛内閣の和戦何れともつかざる煮え切らない態度に憤慨し、自分は上海から持ち帰った手榴弾等の持合わせがあるが、いっそ近衛首相を暗殺してしまおう等の過激な言辞をすら吐いた人があった位であった。・・・(***前掲書281頁)

 これは同じく本ブログの別シリーズ「なぜ日本はアメリカと戦争したのか」第(25)回をご参照戴きたいのですが、この人物は恐らく当時参謀本部作戦課戦力班長であった辻政信陸軍中佐(陸士36期首席、陸大43期恩賜)であったと思われます。

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12394157940.html?frm=theme

 陸軍中央の中枢である参謀本部第二課(*作戦課)の参謀が、こうして近衛首相暗殺テロに言及していた事実からすれば、海軍をはじめ政府内閣その他の要人たちが「陸軍によるクーデターや暗殺テロ」を真剣に憂慮していたとしても、あながち杞憂とは言い切れません。そして、現実に終戦間際には、本シリーズ第(31)回などでも取り上げた、陸軍中央中枢中堅の幕僚将校によるクーデター「宮城事件」が発生しているのです。今の人には、とても体感的には理解できませんが、当時の戦前日本では、軍刀をガチャガチャ言わせた陸軍将校が、いつなんどき、気に入らない人物の殺傷事件に出るかわからないという「恐怖感」が世上一般に漂っていたのです。陸軍部内に於いてさえ、陸軍省の中核であった永田鉄山軍務局長が、白昼その軍務局長室で執務中に、相沢三郎陸軍中佐の軍刀で斬られて殺されているのです。まして陸軍以外の海軍でもその他の官庁や政府、国会などでも、十月事件の計画内容や、二・二六事件の襲撃結果などからして、その恐怖心は常に存在していたと言っても過言ではありません。そして、陸軍憲兵の恐ろしさもそこには加わっていたのです。例えば、憲兵隊側では、海軍要人の「護衛」と称していても、海軍側では、要人の動静を把握され、その手引きでいつなんどき暗殺テロ犯が襲ってくるかわからない、という疑心暗鬼を生じていたという実態もあったのです。残念ながら、当時の海軍には憲兵はおらず、陸軍憲兵隊が陸海軍の軍事警察(Military Police)を担う制度となっていました。

 さて、上記の巣鴨刑務所における永野修身元帥の発言のなかに、「満洲から手を引けというアメリカの条件(ハル・ノートを指す)を入れるとしたら、クーデターが起こるだろう」という言葉がありましたが、これについて、少しコメントしておきたいと存じます。

   開戦当時の陸軍側はもとより、海軍側の永野軍令部総長や富岡作戦課長も、ハル・ノートの要求した「中国(China)からの撤兵要求」の「中国」には当然「満洲」が含まれると解釈していましたが、実はアメリカの肚(はら)は、「満洲」は含まれない、つまりは、万里の長城以南の中国中央部からの撤退要求が真意であったと思われます。満州からも撤兵となると、「満州国の否定」となるのですが、当時も今も「満州を含むかどうか」は、見解が分かれています。しかし須藤眞志氏の「ハル・ノートと満州問題」(慶應義塾大学法学研究Vol.69 No.12, 1996)によれば「含まれていなかったと考える方が妥当」と結論づけられています。当時の東郷茂徳外相もこの点については判然とした解釈はしていなかった様です。けれども「中国」には満州を含むもの、と当時の陸・海軍関係者は理解し、到底受け入れ難い「米国の最後通牒」に近いものとして受け止められました。

   しかしこれについては、「米国の真意は、満洲からの撤兵までは求めていなかったこと」が、戦後「東京裁判」の米国代表検事を務めたキーナンの次の言葉からもわかるのです。田中隆吉陸軍少将の紹介で初めて会ったとき、当時の東京新聞の江口航記者に向かって、キーナン検事は「日本はなぜ満州だけで満足しなかったのだ。満州をかためて置けば十分やっていけた筈なのに、支那(*中国)に手を出したのがまずかった。君はそう思わないか」と真顔で言ったといいます。鬼検事と呼ばれたキーナンは、トルーマン大統領から特に選ばれて日本に送り込まれた敏腕検事であり、当然米国政府側の開戦決定過程は十分調べた上で、日本側の戦犯を厳しく追及する立場ですから、この発言の意味するところは、アメリカが要求した「中国からの撤兵」の「中国」には「満洲」は含まれていなかったと、合理的に推定できるのです。アメリカは、基本的には万里の長城以北の「塞外の地」である満洲国には触らず、日華事変以降侵入した、華北・華中・華南の地域からの撤兵を要求していたものと思われます。先ずは、「盧溝橋事件以前の状況」に現状を戻すことが、仏印進駐からの撤兵も併せて、米国の真意として意図していた内容であると思われるのです。但し、中華民国の蔣介石政権は建前上、それを認めるわけにはいかないでしょうから、曖昧性を持った表現にとどめざるを得なかったものと考えられます。しかし、このハル・ノートの「中国」には、「満洲は含まれていない」と了解するが如何か、と東郷茂徳外相は、今一度照会するべきであったと思います。

   本件ご参照:なぜ日本はアメリカと戦争したのか(15)怪物田中と鬼検事キーナンの出会いとその本音

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12371866653.html?frm=theme

 

 ところで、上記の大野竹二海軍少将が、開戦直前まで勤務していた軍令部第一部(*作戦部)における「甲部員」とはどのようなものでしょうか。なかなかその説明が出ている資料は少ないのですが、前掲の中村菊男著「昭和海軍秘史**」から、次の部分を読みたいと思います。

・・・〔戦争指導と甲部員〕

 中村:甲部員になられたのは、いつからですか。<(*中村先生の原注:) 甲部員というのは軍令部(*第)一部長直属で、戦争指導を担当した。したがって太平洋戦争指導はここで行われており、甲部員の制度そのものが極秘で会ったので、(*海軍)部外にはほとんど知られていない。戦後、数多くの戦史が出版されているが、甲部員にふれたものは、ほとんどない。甲部員制がいつできたかについて防衛庁(*当時)戦史室の資料によるとロンドン軍縮会議のあと昭和八年五月頃で、田結(*穣)、中原(*義正)、横井(*忠雄)、大野(*竹二)、小野田(*捨次郎)の諸氏のあと大井篤、檜野武良、大前敏一氏で終戦を迎えている。(*但し、秦郁彦先生編の『日本陸海軍総合事典[第2版]』444頁によれば、田結氏の前に初代の金沢正夫氏がおり、また小野田氏のあとは、藤井茂、末沢慶政、柴勝男の各氏となっています。) 戦争指導の中枢であったので、甲部員室の標示もなく、(*海軍)部内でもきわめて特異な存在であった。>

 大野:私が甲部員になったのは昭和十四 (1939) 年十月です。それから昭和十六年十一月十日までいました。あとは「木曽 (*軽巡洋艦)」艦長に転出したので、大東亜戦争の始まったときは小野田捨次郎さんが甲部員でした。

 中村:そうしますと、やはり戦争の指導は甲部員在任中になさったということになりますが。

 大野:(*昭和16年) 十一月はじめの御前会議では、(*対米英蘭蔣)戦争になると、どのようにして戦局を指導するか、ということを検討したのですが、私はそこまでです。

 中村:甲部員の初代はだれでしたか。

 大野:田結穣さんです。次が中原義正さん、それから横井忠雄さん、私(*大野竹二)。そのあと小野田捨次郎さんです。小野田さんは昭和十八年にドイツへいきましたから、甲部員はそのくらいまでだと思います。(*実際はその後も続いた。) 私のときは部員といっても、私と小野田さんの二人だけで、起案するときも私自身が書いて、それも極秘の紙ばさみにいれて持ちまわり、いわゆる手渡しでまわして外部にまず洩れることがありませんでした。陸軍の方は参謀本部直属の二〇班がそれ(*戦争指導班)で、西さんがその仕事をやっていましたが、作戦面では任務がちがうから連絡はありませんでした。・・・(**前掲書131~132頁)

 大野少将(*当時大佐)は、昭和14 (1939) 年10月に甲部員となったのですから、翌昭和15年9月の日独伊三国同盟締結や北部仏印進駐、そして昭和16年7月の南部仏印進駐と、そのリアクションたる米英蘭三国による経済制裁(特に米国の全面石油禁輸措置)による同年9月6日の御前会議による帝国国策遂行要領(10月上旬までに対米交渉が成立しない場合は開戦する決意)を定め、さらに同年11月5日の「対米交渉要領(甲・乙案)、帝国国策遂行要領」の決定を見てから、11月10日付で軽巡「木曽」艦長に転出したわけです。つまりは、対米英蘭開戦に至る重要な二年間を、海軍中央中枢の軍令部戦争指導班長として過ごしたのですから、当然軍令部の事務当局として、これらに関わっている人物です。

   特に、アメリカの厳しい対日経済制裁による石油禁輸を招いた、南部仏印進駐につながったと言われる、昭和16年6月5日付第一委員会文書「現情勢下ニ於テ帝國海軍ノ採ルベキ態度」は、起案者は当時、海軍省軍務局の石川信吾第二課長(海軍政策担当)ですが、その第一委員会の委員として、この大野竹二戦争指導班長も加わっているのです。他には、前回の中村先生インタビューにも登場した富岡定俊軍令部第一(*作戦)課長と、海軍省軍務局の高田利種第一課長の、合計四名が第一委員会のメンバーであり、いずれも海軍大佐です。本シリーズ第(45)回で取り上げた、陸軍中央中枢の中堅幕僚による「幕僚統帥」の構造を見ましたが、海軍ではこうしたことが起こりにくかったにも拘わらず、この海軍政策第一委員会という課長(大佐)級のメンバーによる中堅幕僚が、一時期の海軍中央に影響を与えたと思われるのです。それはまさに、昭和16年当時の永野修身軍令部総長と及川古志郎海軍大臣の時代に見られる特徴であると言えます。これについては、本ブログ別シリーズの、次の三本の記事を、ぜひご一読下さい。

大東亜戦争と日本(98)「第一委員会」という海軍中堅事務当局の開戦責任

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12687935715.html

山本五十六批判に応ふ(8)「歴史の大河の激流のなかで孤舟を捉える視野」

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12724832641.html

なぜ日本はアメリカと戦争したのか(32) 海軍政策第一委員会と海軍内部の動き

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12405248063.html

 こうしたことを踏まえて、恐らく当時は石川信吾大佐に同調する、親独対米英強硬派のスタンスであった可能性を拭えない、大野竹二甲部員の観点であることを考慮に入れつつ、前掲書**からその証言の別の部分を拾ってみます。

・・・〔運命的な政局の動き〕

 中村:海軍部内の強硬論として、むしろ三国同盟より日華事変をやっていることがいけなかったのだ。陸軍が中国でいつまでも戦いをやっている以上、太平洋戦争は避けられなかったのだという意見があったのでは――。

 大野:大東亜戦争というものは起こるべくして起きたと考えています。なにも日本があのようにやりたくて始めたのじゃない。国際政局をたどってみると、北支事変(*盧溝橋事件直後)というものがなければ支那(*日華)事変という大きな問題にはならなかったでしょう。同時に、欧州戦争が起きなかったら日本の北部仏印進駐もやすやすとはできなかったにちがいない。さらに独ソ戦が起きなければ、南部仏印進駐も具現しなかったと思います。三国同盟の場合もまたしかりですよ。

 というように国際政局によって自然にあのような道を進んでしまったといえるのです。

 支那(*日華)事変の初めのころまではアメリカやイギリスの利権問題などもあってやりにくいことが多かったが、そこへ欧州で戦争が勃発したものですから様相が一変してきました。なにしろロンドンはいつ屈服するかということさえいわれていたほどですし、「バスに乗り遅れるな」というのが当時の「時局処理要綱」がつくられたころの“はやり言葉”だったのです。ところが、いまになっては、そうした当時の情勢はピンとこないのではないかと思うのです。

 当時としても、つねに客観的情勢を把握し、その上で対応策を図ろうと努めたことはいうまでもないのです。このため、その都度、時局処理要綱などつくって検討していったのです。「南方施策要綱」は欧州戦が始まった新情勢の下につくられたものですし、「情勢に伴ふ帝国国策要綱」は、独ソ戦が勃発してつくられたものです。しかし考えてみると、そうしなければならないこと、はからざることがつぎつぎと起こってきているので、なにか運命的なものを感じないわけにはいかないのです。ですから、あのときの指導者が東條さんでなくても、やはり同じ道をたどらざるをえなかったであろうと思っています。

 〔座長のいない(*大本営政府)連絡会議〕

 中村:国民の側からみていますと、戦争指導の中枢がどこにあるのかはっきりしなかったように思えるのですが。

 大野:この点は、私も痛感しましたよ。戦争指導機構といったものがありませんでしたからね。あるといえば政府大本営連絡会議ぐらいのものでしょう。しかし、この連絡会議には座長がいません。内閣はどうかといえば、一方に内閣官制というものがあって、こと統帥権に関して口出しすることができない。悪くいえばツンボ桟敷(*ママ)におかれているようなものです。総理大臣が陸軍なり海軍なりの大臣と意見が合わなければ、総理は内閣を放り出す以外になかったのです。第三次近衛内閣が総辞職せざるをえなくなったのも、こうしたことがあったからです。近衛首相としては、自分が首相であったときに支那(*日華)事変が起こったので、なんとか自分の手で収めたいという気持もあったのでしょうが、とうとう断念してしまった。これがもしチャーチルやルーズベルトのような人であり、またチャーチルやルーズベルトのような権限を近衛さんがもっていたならば、あるいは政府大本営連絡会議(*座長)の地位にあったならば、おそらく“和”をとっていったにちがいないでしょう。そして、御前会議にもっていったに相違ありません。もちろん、こうした結果が日本にとってよかったか、どうか、それは別問題ですが、そのようなことができただろうと思うわけです。・・・(**前掲書123~125頁)

 このように大野海軍少将は述べています。これによれば、米英のような強力な政治のリーダーシップが明治憲法下の戦前日本には存在しない状況において、首相が采配を揮えない大本営政府連絡会議に上程された「後手の」「時局処理要綱」で都度対処しているうちに、運命的に大東亜戦争開戦まで持ってゆかれてしまった…というような流れが語られています。これも一つの「見方」であるとは思いますが、しかし、さはさりながら、もう少しやり様がなかったのか、と言いたくなるわけです。そこで、海軍のカミソリの様な頭脳を持つ「最後の海軍大将」、井上成美提督(海兵37期次席、海大22期)の“辛口”の言葉を聞いてみましょう。戦後、横須賀の長井で隠者の様な生活をしていた井上大将のもとに、海軍の後輩で、海上自衛隊の初代幹部学校長や海幕長として後進の育成に尽力した中山定義提督(海兵54期三席、海大36期)と、当時の海自幹部学校長、石塚榮提督(海兵63期)が、昭和45 (1970) 年10月20日に訪問して座談した記録が、伝記刊行会「井上成美」の<資料四の3>にあります。その中の一部を読んでみましょう。

・・・〔大佐級まかせで無責任な永野総長〕

 井上:終戦のときは永野さんがいなかったから問題はなかったけれども、とにかく戦争の始まるまでの大事な時期に、第一委員会というのができてね。あれは大佐級です。その大佐級の会議かなんかで出した結論を、福留〔繁*海兵40期、軍令部第一部長〕がもっていくと、永野総長は、「みんな課長級がよく勉強しているから、おれは文句がないよ」といって、ハンコを押したというんです。それがちゃんと伝わっておりますがね。それじゃ何だ、大佐が海軍を引きつれているようなものだ。大佐は大佐の頭だけしかないんですよ。そういう責任のがれをやるようなことだったんですよ、永野君は。第一委員会なんかをつくったというのが、すでに責任のがれですよ。ちょうどいまの政府もそうです。何とか調査委員会とか、何とか審査委員会とかいって、みんながその日に、即席に決断すべきものをしないで、すぐ委員会をつくっちゃ時間かせぎをする。そして議会やなんかで、委員会の決議はこうだとかなんとかいって、みんな責任のがれだ。

 いま政治屋はいても、政治家はいませんね。政治を商売にして、そして生産力さえふえればいい。日本の国を考えているやつは一人もいない。(*中略) 自分のためだけで、国家のためということを忘れている。自分さえしくじらなければいい、そして責任は大佐級が研究しているからいいや、と。そんなばかなことはあるもんじゃない。

 〔内乱じゃ国は滅びない〕

 井上:そして陸軍がクーデターをやるというと、それをこわがって引っ込んじゃうでしょう。そのことについて、アメリカの進駐軍に、私、呼ばれましてね。初めは、戦争の始まるときに不意打ちをやったとかやらないとかの質問で、私は四艦隊におったから、連合艦隊からの命令があるまでは、飛行機も飛ばすようなことはありませんでした、とはっきりいいました。その次にまた呼ばれました。プランゲとかいう人が来ていたね。海軍大学の戦史の教官かなんかでした。その人が講和になってから、あっちこっち調べて、クロスベァリングを取っている。(*cross bearing:交叉方位:船から二つ以上の物標の方位を測り、それを海図上に記入し、それらの交点から本船の現在位置を求める方法)

 「いわゆる、戦をやめるということのイニシァティブ(*initiative)を取ったのは井上ということになっているんだが、その辺の事情を聞きたい。みんなに聞くと、陸軍のクーデターとか、内乱を起こすということをこわがって何もやらなかったということだが、あなたはどうですか」と、きかれました。

 「内乱なんか、おっかなくないですよ。ほかの国と戦(*いくさ)をして負けるのがおっかない。自分の国が滅びるかもしれないから。しかし内乱じゃ滅びやしませんから、私は安心していました」といったら、「なるほどな」といいました。ちょうどそのとき、陸軍の参謀本部の参謀をしていた人が呼ばれていたんですよ。その参謀のいる前で、いってやったんです。「そんなことを恐れては政治はできませんよ」と。

 中山:どうも、あの内乱説というのは、開戦当時の海軍の責任者が、戦後まずい立場になったもんだから、逃げの口実に使ったようですが、海軍が開戦に“ノー”といったなら陸軍と海軍と相打って内乱になるというような実情は、なかったんじゃないかと思います。おどかしには使いましたがね。

 井上:戦前、アメリカと国交調整をしようというときに、陸軍はボイコットしたでしょう。あのとき、アメリカは中国からの日本軍の撤退を申し込んできた。すると、撤退なんかしたならば、陸軍の威信に関するとか、統制がとれなくなるとか、何とかいって東條〔英機陸軍大臣〕が反対した。そこで近衛さんは内閣を投げ出した。戦前も、そういう場面があるんです。

・・・(前掲「井上成美」資―307~309頁)

 こういう井上提督の様な見解もあるのです。要は、陸軍要路の者が、自分たちの「陸軍の総意」なるものを押し通すために、「クーデターや内乱」を口実にして脅かしていた面があり、またそれを過度に怖がっていた人々もいたということなのです。そこで必要だったのは、ケネディー大統領の言葉を耤りれば「政治的勇気」であったのではないでしょうか。(今回はここまで)