今から半世紀ほど前、私たちが高校生の頃は、世界史の大きな流れを掴むために、次の二冊を読むように薦められていました。西洋史については、林健太郎著「歴史の流れ 西洋文明小史」(新潮文庫)、中国史(東洋史)については、鳥山喜一著「黄河の水」(角川文庫)の二冊です。まずは東西の「大河の流れ」の全体像を掴まえて、それからより詳細な個別の歴史の勉強をしてゆくのがよいと指導されました。それはきっと今でも有効なのだと私は思います。

 これと同様に、海軍史については、伊藤正徳著「大海軍を想う」「連合艦隊の最後」「連合艦隊の栄光」という三部作(初刊は文藝春秋社、現在は光人社NF文庫で揃います)を読めば、明治建軍から太平洋戦争終戦までの海軍史の大きな流れが掴めます。そしてもしよろしければ、弊共著「山本五十六 戦後70年の真実」(NHK出版新書)もぜひご一読下さい。山本提督の生涯を軸に、明治から昭和までの海軍史の流れも展望できるようになっています。

 また陸軍史については、名古屋大学名誉教授、日本福祉大学名誉教授の川田稔法学博士による講談社現代新書の「昭和陸軍全史 1 満州事変」(2014年)「昭和陸軍全史 2 日中戦争」(2014年)「昭和陸軍全史 3 太平洋戦争」(2015年)の三部作は、統一した視点で昭和陸軍史の流れを眺め、理解することができる良著です。それをさらに簡略に7つの点に整理して纏められた「昭和陸軍 七つの転換点」(祥伝社新書、2021年8月刊)もお薦めです。加えて、本シリーズで取り上げた保阪正康著「昭和陸軍の研究(上下二巻)」(朝日文庫)も、ぜひお薦めしたい書籍です。これらはいずれも「昭和陸軍」に焦点が当たっていますが、明治・大正からの陸軍の流れの概要も知ることが出来ます。

 こうした巨視的な流れを把握した上で、より個別的な時空間での組織・集団・個人の各部分に更にスポット・ライトを当てることで、全体的なバランスを失わない、いわば「鳥の眼」の視角や視点を維持することができると思います。さもないと、局所的かつ詳細に過ぎる「虫の眼」だけの視角・視点では、気付かないうちに片寄った「偏頗な見方」になってしまう恐れがあるからです。それは、地図を調べるにしても、まずは地球儀や世界地図を眺め、そして日本全図や各国別地図を調べ、そしてその中でのより詳細な国土・地方・州・県・市町村・街区という具合に見て調べてゆくことと同じです。

 特に、戦前日本の大戦へと向かう道筋には、陸軍、海軍のみならず、政府、議会、政党、官僚、財界、右翼、左翼、言論界、そして一般民衆という、様々な人間集団や組織のそれぞれの動きを、しっかりと捉えてゆかねば、全体像をバランス良く捉えることが困難であるからです。そしてそのしっかりとした全体的な「鳥瞰図」をいわば「海図」として、山本提督の置かれた立場や立ち位置、やろうとしていたこと、させられたこと、やらねばならなかったこと、を一つひとつ適正・適確に捉えてゆくことが、山本提督への「いわれなき批判」に対して、きちんとした歴史的鑑識眼・判定眼による否定や肯定をすることに繋がるのです。

   本ブログ別シリーズ「大東亜戦争と日本」の第(83)回でも取り上げましたが、世上の山本提督に対する批判には次のような要因があると思います。

イ:山本五十六長官が有名であるため、批判のターゲットとされ易いこと。

ロ:海軍部内の組織・権限の構造をよく勉強もせずに批判していること。

ハ:とにかく戦争やそれに関わった軍人は全て悪いと見下していること。

ニ:終戦直後の米軍は、日本の非軍事化のため全否定的批判を加えたこと。

ホ:海軍部内に、戦後も戦艦中心主義と漸減邀撃作戦派が存在したこと。

ヘ:「リメンバー・パールハーバー」で米国民の戦意を煽ったとされること。

ト:南雲部隊が真珠湾の石油タンクや造船所を攻撃しないで引き上げたこと。

チ:旧陸軍の一部に旧海軍が対米戦に引き摺り込んだという主張があること。

リ:ミッドウェー海戦の敗北により同作戦の戦略企図まで全否定すること。

ヌ:海軍の歴史や組織文化を無視し、現在の価値観から否定してかかること。

ル:真珠湾攻撃直後の米政府と米海軍の混乱と絶望的状況を知らないこと。

ヲ:米国政府・米海軍が山本長官を高く評価していたことを知らないこと。

   他にもまだあるとは思いますが、これらの要素から、山本提督や帝国海軍に様々な批判が寄せられています。しかし、もっともな妥当性のある学術的研究・批判ならまだしも、誤解や偏見、それどころか歴史的実態をきちんとよく勉強もせずに、上滑りの知識だけを適当に集めて、手前勝手な「批判のための批判」を自己宣伝のために行う行為には、断じて許せないものがあります。

   とは言え、批難応酬の泥合戦のようなことをしても仕方のないことですから、ここは冷静沈着に著述や証言を基にした歴史的事実・史実を検分してゆくことにより、これらの「いわれなき批判」には応えてゆきたいと思います。

   山本提督が最も信頼する先輩であった米内光政提督は、陸軍の倒閣により下野した後、交代して出てきたばかりの第二次近衛内閣が短時日のうちに「日独伊三国同盟を締結した」という報を聞いて、「われわれの三国同盟反対は、ちょうどナイヤガラ瀑布(*滝)の一、二町上手で、流れに逆らって舟を漕いでいるようなもので、無駄な努力であった」と嘆息したといいます。そこで緒方竹虎氏が「米内(*大臣)・山本(*次官)の海軍がつづいていたなら、徹頭徹尾反対しましたか」と質問したのに対し、米内提督は「むろん反対しました」と答え、しばらくしてから、「でも殺されたでしょうね」と、いかにも感慨にたえない様子で言ったといいます。(実松譲著「海軍大将 米内光政正伝」(光人社2009年増補版再刊、229~230頁) 

   まさに当時は「激流のなかの孤舟」という状況であったのです。その対米英戦争へと日本を押し流してゆく「激流」は、一体どこから生まれて勢いを増していったのか、それを上述のような「大河の流れ」のなかで捉えることが、とても肝心なのです。その「本流の流れ」を捉えていないと、結果的に頓珍漢な「偏頗な捉え方」をしてしまう恐れがあるのです。

   ここのところ、帝国陸軍の中枢部である陸軍省軍務局と参謀本部作戦部の中で、アメリカの対日石油全面禁輸措置という厳しい経済制裁を招いた「南部仏印進駐」がどのように決定されたのかを見てきました。その中で、上記の米内光政海相に続く吉田善吾海相までは、必死で食い止めようとしていた「日独伊三国同盟」と「北部仏印進駐」が、第二次近衛内閣の発足からわずか二ヶ月ほどで次々に実施されていったのには、当然に陸軍のみならず、松岡洋右外相が率いる外務省も、近衛首相の率いる内閣全体も、そして統帥部の両輪のもう片方である海軍も、これらの政策に賛成したことによるものであることは歴史的事実です。

   保阪正康著「陸軍省軍務局と日米開戦**」(1989年中公文庫刊)の新原稿追加部分である「あとがきにかえて――太平洋戦争開始前後の政治状況」から、「陸軍と海軍」の項を以下に読んでみたいと思います。(*裕鴻註記、漢数字等一部修正)

・・・私(*保阪先生)は、昭和史に関心をもち、これまで多くの軍人に取材を進めてきた。高級幕僚から一兵士まで、あらゆる階級のあらゆるタイプの軍人たちに会った。

 陸軍の軍人(とくに佐官(*中堅将校)以上の軍人)に話を聞いていると、必ずといっていいほど海軍への批判を口にする。概して感情的な批判が多いが、開戦時に陸軍省や参謀本部に籍を置いていた(*陸軍)軍人が、一様に口にするのは、「あのときに海軍さんが戦(いくさ)は無理だと一言いってくれれば……」という言である。

 その代表的な軍人をひとりあげれば、東條(*英機)首相の秘書官であった故赤松貞雄(*陸士34期、陸大46期、元陸軍大佐)である。赤松は、開戦にいきつくまでの海軍の態度はつねに煮えきらなかったと批判する。

 近衛内閣のもとで、戦争か外交か、を決めるときも、陸相の東條はアメリカとの戦いは海軍が中心になるのだから、海軍の意向はどうなのかをしきりに気にしていたという。そこで海相の及川古志郎(*海兵31期、海大13期)になんども確かめるが、答えはつねに対米戦も辞さないという内容であった。ところがその実、及川は外相の豊田貞次郎(海軍出身、*予備役海軍大将、海兵33期首席、海大17期首席)や近衛(*文麿首相)と内密に話し合って、陸軍の意向を骨抜きにしようと謀ったりしたというのである。

 東條は首相になったときに、海相人事に注文をつけたかったらしい(*当初候補に上がった豊田副武海軍大将(海兵33期、海大15期首席)に反対した)が、海軍側から横須賀鎮守府長官で軍令畑の嶋田繁太郎(*海軍大将、海兵32期、海大13期)が推されてくると、海軍省の政治的軍人(*軍政畑)よりは話がわかると歓迎した。(*但し、及川大将も軍令畑出身) もし海軍省にいて、外務省や宮中に近い軍人なら、東條は自分の思う方向に進むことができないといらだっていたのである。

 嶋田は、東條にはあまり正面きって論を挑むタイプではなかった。どちらかといえば、東條のいいなりになるタイプだった。そのために、海軍内部には「嶋田は東條の妾のようなものだ」という批判がわき起こった。

 陸軍の軍人が批判するのは、太平洋戦争がはじまってからの作戦行動にも及んでいくが、こと開戦前の状況に限るならば、海軍はたしかに開戦そのものにためらいをもっていた。海軍省軍務局長の岡敬純(*当時海軍少将、海兵39期、海大21期)などは、開戦に躊躇していたほどで、その言を陸軍省軍務局長の武藤章にしばしば洩らしていた。

 開戦前の海軍は、軍令部総長の永野修身(*のち元帥海軍大将、海兵28期、海大8期)に代表されるように、対米戦を辞さないという強硬論が圧倒的に多かった。この理由は、昭和16年7月の南部仏印進駐によってアメリカの怒りをかい、石油が全面的に輸出禁止になったためである。日本の石油備蓄量は日に日に減少していき、日本は南方の石油を自力で調達しなければならなくなった。永野は、昭和16年11月ごろには、戦争か外交か、を決める会議でも、「こうしていても一日に四万トンの石油が消費されていく」と不安をぶちまけている。

   海軍内でも海軍省(*軍務局)第二課長の石川信吾(*当時海軍大佐、海兵42期、海大25期)などがしだいに主導権をにぎり(*海軍国防政策委員会・第一委員会を主導)、海軍省や軍令部をまとめて対米戦の流れをつくった。(*第一委員会のメンバーは、富岡定俊軍令部作戦課長、高田利種軍務局第一課長、大野竹二軍令部長直属戦争指導担当、石川信吾軍務局第二課長の四名)

 陸軍の軍人は開戦直前になると、海軍との間の意思が円滑に回転するようになるといったが、それは海軍内で強硬論者の意見が支配的になったということだった。

 だが、海軍内部には、陸軍にひきずられることの不安、アメリカと戦って勝てるのかという疑問は、広く存在していた。日本の国策が開戦と決まったあと(昭和16年12月1日)に、当時軍令部の部員だった高松宮(*当時海軍中佐、海兵52期、海大34期)が、(*昭和)天皇の前に進みでて「海軍内部にはこの戦争に不安をもつ者が多い」といっている。それは海軍内部の幕僚がもっている潜在的不安をあらわしたものだった。

 (*昭和)天皇は、すぐに嶋田(*海相)と永野(*軍令部総長)を呼んでいる。ここで永野は、いまや海軍あげて開戦の大命を待っています、というが、嶋田は、とにかく全力をあげて戦う、ドイツは頼りにならないが、たとえドイツが手を引いても戦う、といういい方をしている。永野には、なんのためらいもないが、嶋田の言には永野ほど強い意思がうかがえない。胸中にはさまざまな不安があったということだろう。

 海軍の軍人に話を聞いていくと、開戦前の陸軍(とくに参謀本部)はもう目がつりあがっていて、何をいっても耳にはいらないほどだったという。もともと日中戦争(*日華事変)を勝手に起こしておいて、ドイツにかぶれ、ドイツが優勢だといって南部仏印進駐に入っていった。その結果、アメリカの怒りをかい、それで開戦となった、すべてが陸軍が勝手に進めたことのツケを海軍にもってきた、という。海軍の軍人たちは、一様にこういう見方をしているが、言葉の端々には陸軍にひきずり回されたということへの不満がある。

 それにしても昭和16年9月、10月あるいは11月の段階で、海軍はなぜ、もっと外務省と手を結んで外交交渉に賭けるか、それとも対米戦の無理なことを強硬に主張しなかったのか、という疑問はのこる。私(*保阪先生)のこの疑問にもっとも適確に答えてくれたのは、当時海軍省に籍を置いていた幕僚(故人)のひとりである。

 「油(*石油)が足りない、どうする、という不安もあったが、海軍は建軍以来(*正しくは日露戦争後)、アメリカが仮想敵国だった。その国と一戦交じえる、という興奮もあった。……それにね、もし海軍が戦わないとなったら、陸軍からなんのための海軍か、といわれることの不安感もあった。どうせ戦わないなら、海軍への資材や器材、それに予算などはいらないではないか、と陸軍からゴリ押しされるとも考えた。まあ陸軍に対する意地もあった……」

 たぶんこの(*中堅)幕僚の言は、海軍内部の本音を語ったものだろう。陸軍に対する意地、そしてなによりも陸軍に対する嫌悪感もあったと思われる。開戦までのプロセスのなかに、陸軍と海軍のサヤあてがいかにひどかったかは、これから改めて検証してみる必要があるように思う。・・・(**前掲書325~329頁)

 陸軍と海軍は、それぞれの組織文化も異なり、また根本的な志向性も異なりました。学んだ師匠も陸軍はプロシア流、海軍はイギリス流でした。確かに帝國軍の両輪であり、国家として纏まるべきであったということが正しいとしても、故に「海軍が陸軍に従うべきであった」という立論が正しいかどうかは別の問題です。それは陸軍側の言い分であって、海軍側にはむしろ陸軍こそが様々な問題の根源であり、陸軍を制御しないと国家が敗亡の道に進むという危惧感があったということを、きちんと認識しておく必要があるのです。

   少なくとも米内海相、吉田海相の時代までは、首脳陣にその姿勢がしっかりしていました。しかし、及川海相も嶋田海相も、軍令畑育ちで、国政に深く関わる軍政畑の実務経験がなく、その意味では適確に海軍大臣の職務を果たすべき経験と素養が十分に養われていなかったにも関わらず、この開戦に向かう最重要時期の帝國海軍の舵取りを担うことになってしまったとも見ることができます。そして、それは米内・山本・井上という対米英戦反対の人脈を海軍中央から遠ざける人事方策を、どの程度自覚的であったかはさておき、結果的に行っていた事実は否定できません。

 もう一つは上記の、石川信吾軍務局第二課長(第二課は昭和15年11月に改編・新設された国防政策担当課)と、富岡定俊軍令部作戦課長(*海兵45期、海大27期首席、のち少将)などが海軍首脳に政策提言をしていた「第一委員会」に見られる通り、海軍中央(海軍省と軍令部)の要職を占める海軍大佐以下の佐官クラスに「親独反米英強硬派」が次第に増えていたことです。米内・山本・井上時代は、これらの中堅層強硬派の意見を首脳陣が抑制し制御していましたが、次第にそのコントロールが効かなくなり、むしろこれらの中堅層の提言によって上層部が動かされる状況となっていったことにも、問題はあったものと思われます。

   そもそも中堅層のものの見方や考え方は、それが如何にその世代の俊秀たる英才が考えたとしても、その「視野高度や判断高度」はまだ十分な高みには達していないのです。やはり一定以上の組織の首脳の職に就いてみて、初めてわかること、見えることもあるのです。従って、いくら中堅層から尤もらしい意見が上がってきても、それを上回る幅広い視野や奥深い見識に基づいた「トップとしての見識・判断」によって、ある時は却下することも、また根本的な軌道修正をすることも、首脳陣の大切な役割であり、それは義務でもあるのです。

   永野修身軍令部総長などは、「課長クラスがよく勉強している」として、案件が上がってきた時に、「これは第一委員会をパスしているか」を確認して、パスしていれば決裁印を押すというような状態であったといわれています。これでは結局、中堅層の見識や思考によって組織全体、全海軍が動くことになってしまいます。井上成美提督が言ったという「大佐には所詮、大佐の頭しかない」という看破は、まさにこうしたことを意味していたのだと思われます。

   同じ構造は、トップに宮様を持ってきた場合にも生じます。つまり実質的には、総長の判断を次長が替わりに行うこととなり、本来あるべきトップ・レベルの経験・視野・見識による判断ではなく、セカンド・レベルの見識・判断で決裁されてしまうことになり、それを井上提督は一段低レベルの「下僚・属僚による決定」となると批判しています。この辺りのことは、本ブログ「大東亜戦争と日本(91)海軍最適か国家最適か、海軍人事の『良識の逆機能』問題」をご参照ください。

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12686218314.html

 さて、上記の保阪先生の文中に登場した海軍の幕僚(故人)が、一体どなたであったのかはわかりませんが、これにそっくりな発言をしたとされる人物についての記述が、NHKスペシャル取材班著「日本海軍400時間の証言***」(2011年新潮社刊)に出てきます。その部分を抜粋して読んでみましょう。但し、予めおことわりしておきますが、同書***が取り上げている「証言テープ」や「海軍反省会の音声テープ」の内容そのものは重視しますが、それらの発言の真意やその背景にある情況に関する理解は、同書***の解説と私自身の見解は異なりますので、その点はご了解ください。

・・・録音されたのは昭和36 (*1961) 年。高田元少将(*高田利種、開戦時海軍大佐、海軍省軍務局第一課長、海兵46期実質首席、海大28期次席、ドイツ・ベルリン大学留学)が六十六歳の時である。(*中略)

 高田元少将はまず、第一委員会を設立した経緯から説き起こした。軍令部と海軍省を横断する委員会をつくることで、全海軍として陸軍に対抗しようと考え、自らのイニシアチブで第一委員会を立ち上げたという。(*海軍)反省会での証言通り、委員会の影響力は、やはり強大なものだった。

「私が(軍務局)二課長予定者でおる時に考えたんです。さて二課長で軍政を引き受けるのは、これは大変なことだと。陸軍と喧嘩しなきゃならない」

 実際には、高田元少将は一課長に、石川元少将が二課長に就いたのは前述の通りだ。(*当時の海軍省軍務局長、岡敬純少将の強い意向で石川二課長が実現)

「これを結集した力でやらなければいけない。だから私(*高田大佐)は、海軍何とか委員会、海軍(国防)政策委員会規程をつくって、第一委員会(略)をつくった」

 インタビュアーの質問に答える形でのやり取りがつづく。

「その後の省部(海軍省と軍令部)の下固めは、第一委員会で固めて進んだと了解していいんですか」(聞き手)

「そうです。その通りです。その点で、第一委員会に非常な責任がありますよ」(高田元少将)

「責任というんじゃなしに、ウエイトの置き方」(聞き手)

「第一委員会は審議するが、決定機関ではない。で、軍令部、海軍省(に内部文書が)まわる。上の人が、“これは第一委員会でパスしたのか?”と言われて、“パスした”、“はい”と言うと、みなさん“よかろう”となったね」(高田元少将)

「ある時、永野軍令部総長が、何かの席上でしたね、“課長クラスが一番よく勉強しておる。局長クラスは忙しいと見えて勉強する暇がないようだ。わしは課長の意見を採用する”と、こう言われた」(同)

 第一委員会は、まさに「課長(*大佐)クラス」の組織であった。高田元少将の話は、第一委員会の報告書を、永野(*修身)軍令部総長が重視していたという、(*海軍)反省会での佐薙元大佐(*佐薙毅海軍大佐、海兵50期、海大32期、戦後空幕長)の言葉と一致した。

 そして高田元少将の証言は核心へと向かっていく。高田元少将はそれまでの話に区切りをつけ、「ところで」と本題を語り始めた。日米開戦を決定づけたと言われる、昭和十六年七月の日本軍によるフランス領インドシナ南部への進出、南部仏印進駐についてである。

 この進駐の直前、第一委員会は報告書の中で、「泰仏印に対する軍事的進出は一日も速に之を断行する如く努るを要す」と主張しており、望んだとおりの展開であった。

 これに対しアメリカは、南部仏印進駐を、イギリス海軍のアジアでの拠点があったシンガポール、石油を産出していたインドネシア(当時はオランダ領)などに対する野心の表れと捉え、すぐさま在米日本資産の凍結と対日石油禁輸を断行した。

 第一委員会はアメリカのこの対応を見越したように、同じ報告書の中で「石油供給を禁じたる場合」に「武力行使を決意するを要す」と提言し、「戦争決意」を迫っていた。

 しかし当事者(*の一人)の高田元少将が語ったのは、意外な言葉だった。

「ところで私はね、南部仏印進駐で、あんなにアメリカが怒るとは思っていなかった。泰仏印はよろしいと、あそこまでは。仏印から外に出ると大事になる。私はシンガポール(*進攻)は反対だったから、泰仏印で止めようじゃないかということだったんですよ。ところが南部仏印でアメリカがあれほど怒ったんです。夜中にわれわれ起こされまして、“お前ら集まれー”って、海軍省に集まって“これはしまったー”って言う訳ですよ、第一委員会の連中は。こんなにアメリカが怒るとは思わなかったなあと。それは読みがなかった。申し訳なかったですよ。南部仏印から後ですね、日米関係が悪くなったのは」

「南部仏印まではいいと思ってた。よかろうと思ってた。今になって、誰かに言われたからではなくて、今にして思うと、私はそう信じていたと思う。根拠のない確信でした。私は外務省の意見を聞いた訳じゃないが、なんとなくみんなそう思ってたんじゃないですか」(*中略)

 しかし一方で高田元少将は、海軍の対米戦に対する見通しは「一、二年は持つ。三年延びたら負ける」というものだったと語っている。それではなぜ、武力行使の具体的な条件まで揚げて、「戦争決意」を迫ったのだろうか。

「それはね、それはね、デリケートなんでね、予算獲得の問題もある。予算獲得、それがあるんです。あったんです。それそれ。それが国策として決まると、大蔵省なんかがどんどん金をくれるんだから。軍令部だけじゃなくてね、みんなそうだったと思う。それが国策として決まれば、臨時軍事費がどーんと取れる。好きな準備がどんどんできる。準備はやるんだと。固い決心で準備はやるんだと。しかし、外交はやるんだと。いうので(*昭和16年)十一月間際になって、本当に戦争するのかしないのかともめたわけです」

「だから、海軍の心理状態は非常にデリケートで、本当に日米交渉妥結したい、戦争しないで片づけたい。しかし、海軍が意気地がないとか何とか言われるようなことはしたくないと、いう感情ですね。ぶちあけたところを言えば」(*中略) 高田元少将は言う。

「いや、下(*課長クラス)はね、(和戦)二股かけちゃ仕事(*実務)ができないんです。予算取ったり、戦備取ったり。(*戦争するのかしないのか)どっちか早く決めてくれですよ。どっちかはっきりしてくれないと仕事できないんですよ。戦備も予算も。そうなんです。ですから国の将来なんか考えるよりも、いや考えなきゃいけないんでしょうが、本当はね。僕、自分の局部局部(*それぞれの担当職務分野のことだけ)でやりまして、上の人(*海軍大臣、軍令部総長など首脳陣)が(*戦争すべきかどうかなどの重大事項は)決めてくれるものだと、こう思ってますから」(*後略)・・・(*上記書***105~109頁より部分抜粋)

 また、これに似た発言は、開戦当時軍令部作戦課で航空作戦担当参謀だった三代辰吉海軍中佐(*当時、海兵51期、海大33期、のち三代一就に改名、最終階級は大佐)が、昭和58年9月14日の第46回海軍反省会で次のように発言しています。

・・・「私が申し上げておきたいのはねえ、私は軍令部におる間はね、感じておったことはですな、海軍が“アメリカと戦えない”というようなことを言ったことがですね、陸軍の耳に入ると、それを利用されてしまうと。

 どういうことかというと、海軍は今まで、その、軍備拡張のためにずいぶん予算を使ったじゃないかと、それでおりながら戦えないと言うならば“予算を削っちまえ”と。そしてその分を、“陸軍によこせ”ということにでもなればですね、陸軍が今度はもっとその軍備を拡張し、それから言うことを、強く言い出すと。(略)そういうふうになっちゃ困るからと言うんですね、一切言わないと。負けるとか何とか、戦えないというようなことは一切言わないと。こういうことなんですな」・・・(***前掲書112~113頁)

 まさに実務担当者レベルである「事務局」としての、視野高度と判断高度でのものの見方・考え方であったことがわかります。しかし前回見た通り、「先の見える人」であった井上成美提督や、開戦直前に及川海相と永野総長に「日本は戦ってはならない、結局は国力戦になって負ける」と直言していた山本五十六提督、そして予備役となって何ら権限はないけれども重臣懇談会で「資料を持ちませんので具体的な意見は申し上げられませんが、俗語を使っておそれいりますが、ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう、じゅうぶん御注意を願いたいと思います」と発言した米内光政提督などの、本来の「海軍首脳としての見識・判断」が、こうした中堅層の「事務局的考え方」を規正・制御するためにも必要だったのです。(今回はここまで)