ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約からの離脱を求める海軍部内のグループは自ら「艦隊派」と称していましたが、これに対する国際協調と国内財政を考慮して軍縮条約体制の維持を図ろうとしていた「条約派」という呼称は、当時のジャーナリズムが名付けたものでした。従って自分たちは「条約派」であると言っていたわけではありません。むしろ、このいわゆる「条約派」と目される海軍提督たちは、こうした海軍部内の派閥的対立をよしとせず、帝国海軍は良い意味での一枚岩であるべきだと考えていました。

   従って、どちらかと言えば海軍省系統の軍政畑に多かった「条約派」提督たちは、自分たちが所掌する人事に於いても良識的に偏った派閥的人事をよしとせず、公平公正を心がけた対処をしていたのです。もともと海軍の人事はガラス張りと言われるように、近代合理的な考課表を用いた客観的評価を旨とする制度でした。

 その反面は「ハンモック・ナンバー」と呼ばれる学校の成績を重視する先任序列により規制されるということもありました。詳述は避けますが、井上成美提督が海軍兵学校校長時代にある卒業期を統計分析したところでは、海軍兵学校の卒業成績がのちの海軍最終階級への進級に影響を及ぼす比率について、次のように示されています。(*原文は漢字・カタカナ文)

・・・尚兵学校卒業成績と最終官等の上下との相関係数を計算せしに+0.506なる結果を得たり。故に兵学校卒業成績は其進級官等と関係あり、其の程度は+0.5なりと云ふを得べし。尚此の結果より次の事が謂はれ得べし。

 (一)某期に於ては兵学校卒業成績は平均して各人の将来の到達最終官階に半分丈影響せり。

 (二)反面よりいへば某期に於ては兵学校卒業成績は各人の将来の最終官階には平均して半分しか影響せず。

 (三)卒業後在役年数を平均二十五年と見るときは統計上に於ては某期兵学校三ヶ年の成果は平均して卒業後の服務二十五年の努力に匹敵せる如き結果が表れたり。(*後略)・・・(伝記刊行会編著「井上成美」資料編205~206頁)

 つまり、兵学校時代の成績がいくら優秀でも、後の二十五年の海軍勤務の業績が悪ければ、必ずしもそのまま出世するわけではなく、しかし半分位は加味された結果となっているということです。逆に卒業成績が悪くとも、その後の各術科学校と海軍大学校の成績や艦隊・部隊での勤務成績が優秀であれば、半分位は士官名簿での序列上昇に寄与するのです。

 例えば最後の海軍大臣となった米内光政海軍大将は、海軍兵学校29期生として125名中68番(*上位から54%の位置)の成績で卒業しましたが、その後同期で一割強しか入学できないとされる海軍大学校甲種12期も卒業、ロシア駐在でロシア語を習得、その後ポーランドやドイツ・ベルリンなど欧州にも駐在し、最後は同期で最先任となりました。

   しかし必ずしも順調に出世を重ねたわけでもなく、「クビ5分前のポスト」といわれる鎮海要港部司令官など閑職にもついていましたが、その後第三艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官、第二艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官を経て、ついに栄えある聯合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に就任しました。

   そして永野修身海軍大臣と山本五十六次官に懇請され、昭和12年2月2日に57歳で後任の海軍大臣に就任します。まさに兵学校のクラスメートの中で、卒業成績は半分より少し下の位置から、最後はトップまでの登りつめた結果となりましたが、本人は自身の地位には恬淡としていました。むしろ米内提督の人物を知る周囲の先輩・同輩・後輩たちが押し上げたともいえる状況でした。

 皆さんも是非、実松譲著「海軍大将 米内光政正伝**」(光人社2009年再刊)を読んでみて下さい。実松海軍大佐(海兵51期、海大34期)は、少佐時代に海軍省副官兼大臣秘書官として米内海軍大臣を支えました。辛口の井上成美提督も海軍大将で優れていたのは、山本権兵衛、加藤友三郎、米内光政の三提督だったと語っていますし、わたくしの最も敬愛する古庄幸一元海上幕僚長も、自分が最も尊敬するのは米内提督だとおっしゃっていました。同上書**から一部分をみてみましょう。(*裕鴻註記ほか)

・・・正直なところ、私(*実松少佐)自身も、米内の博学にはびっくりしていた。ある日、私は、どうしてこんなことまで知っているのですか、と米内にたずねた。すると大臣は、「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年というように、官舎でやもめ暮らしをしている間に、読書の癖がついた。とくに鎮海要港部司令官という閑職時代には、書物を読むのがなにより楽しみであった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役立っているように思われる。

   人間というものは、いついかなる場合でも、自分のめぐりあった境遇を、最も意義あらしめることが大切である」と答えた。私ははしなくも、米内の「処世訓」の一端ともいうべきものを聞かせてもらったのだ。こうしたときの米内は、いつも大臣が秘書官に話すというふうではなく、練習航海当時の艦長が候補生を指導するような調子であった。・・・(**同上書62~63頁)

 上述した通り「クビ五分前ポスト」の鎮海要港部時代、米内光政司令官の・・・読書は漢籍の経書史書から、ロシアの文学ものに至る、というように広範にわたり、ときには(*自らロシア語から)翻訳したものを、部下に見せることもあった。日本のものにもよく目を通し、当時の軍人の思想とは縁のうすいと思われる憲法や、社会科学に関するものなども読んでいたが、読書とともに、いつも日本海軍のあり方について研究することを忘れなかった。米内が大成した素地の一部は、この読書と思索に待つところが多い、といっても過言ではあるまい。

 「おれも、遠からず離現役(*予備役編入)となるだろう。その覚悟はできている」と、親友にみずから口外したことからみて、米内はこの言葉の額面通り、現役を退くことを覚悟していたにちがいない。しかし、海軍の首脳部には、目の見える者がいた。「米内こそ信頼にこたえることのできる、唯一とはいわなくても、きわめて少数者の一人ではないか」という知己もいた。しかしながら一方、それとは反対に、必ずしも米内を高く評価しない空気もあった。しかし、ともあれ、玉はいつまでも石と一緒に埋もれてはいない。  “危ない”といわれた米内は、昭和7年12月、第三艦隊(中国派遣艦隊)司令長官となって返り咲いた。

・・・(**前掲書49~50頁)

 ロンドン海軍軍縮条約締結後、「条約派」の優秀な提督たちがいわゆる「大角人事」(大角岑生海相)によって、次々と予備役編入(*つまりは馘に)された前後、しばらくは海軍部内にも艦隊派と条約派の対立の気分が残っていましたが、米内大臣の、知ってか知らずか、誠に公平公正な人事によって、次第にそうした派閥対立的な雰囲気はなくなったといわれています。米内大臣によって主義主張に関係なく「艦隊派」であっても、職務に精励する優秀な海軍将校は、より枢要な役職に登用されたことで、自然にそうした対立も鎮静化していったものと思われます。

   もっとも、それも「条約派」の主だった提督がいなくなってしまったからだとも見ることはできますが、もとより米内大臣や山本次官は「艦隊派」であった訳ではなく、むしろその思想としては「条約派」に近いものであったと考えられます。しかし、にもかかわらず、ここで肝心なのは派閥的に動くことなく、公平公正を旨とする「良識派」としての人事を行ったことに特徴があるのです。

 一方で、かつて「艦隊派」が主導した「軍令部の権限強化」に反対し、「艦隊派」の策謀によって馘になりそうになった「条約派」の井上成美提督を、海軍省の要である軍務局長に据えたことからしても、このお二人の考え方がわかります。その結果、有名な米内・山本・井上の「海軍三羽ガラス」とか「海軍左派トリオ」と呼ばれる三人が、当時台頭した、陸軍が強力に推進する第一次の日独伊三国同盟案に、断固反対を貫いたのです。

   しかし、次第に中堅層に増えてきた親独強硬派が、このトリオが転任した後の海軍中央を引っ張るようになってゆきます。これは、ある意味では上述の「良識的な」公平な人事が、その道を拓いたとみることもできるのです。これを私は「良識の逆機能」と呼んでいます。

 平たく言えば、「大角人事」のように「艦隊派」の要望だけを入れて、いくら優秀であってもお構いなく「条約派」の提督だけを馘にするような「偏った人事」は、もちろん「良識的」とはいえません。しかし、「良識的」な「条約派」的海軍大臣が、こうした「偏った人事」を改め、「公平公正な人事」を行うことは、結果として「艦隊派」や「親独強硬派」の成績優秀者を、中央の要職に就けることにもつながってしまったのです。これは「良識派」からすれば「痛し痒し」なところであり、いくら成績優秀であっても「艦隊派」や「親独強硬派」の者を、中央の要職から排除したり、「大角人事」のように馘にしてしまうと、ある意味では同列の派閥偏向的な「偏った人事」をすることにもなってしまうのです。それでは海軍部内の派閥的対立はいつまでも解消されません。

 大正11 (1922) 年のワシントン海軍軍縮条約締結までは、日英同盟が存続していたため、海軍の成績優秀者は主にイギリスに駐在していましたが、その後は次第にドイツやフランス、イタリアなど欧州大陸国への駐在も増えました。特に太平洋戦争開戦直前の海軍省や軍令部の課長(海軍大佐)クラスには、高田利種大佐、神重徳大佐などヒットラーのナチス党が躍進した昭和7 (1932) 年以降のドイツ駐在者や、石川信吾大佐など欧州出張者の、ナチスドイツ親派の人々が増えました。また基本的に、ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約の主要な相手は米国と英国でしたから、両条約からの脱退を主張する「艦隊派」は反米英か、少なくとも対米英協調をよしとはしない立場です。ということは米英という自由民主主義国家と対立する、独伊のファシズム全体主義国家に近づいてゆく構造があるわけです。つまり「敵の敵は味方」という構造です。

 因みに陸軍は、満洲事変以降の中国大陸進出で、特に日華事変に対する米英の蔣介石政権寄りのスタンスから、米英を敵視する気分が強く、また明治以来、陸軍の戦略戦術はプロイセン参謀本部(*メッケル少佐)・ドイツ陸軍をお手本にしてきたことや、陸軍将校のエリートを生む陸軍幼年学校では英語ではなくドイツ語・フランス語・ロシア語を教えていた関係で、のちのドイツ駐在者が陸軍の中枢勤務となる傾向があったことなどから、自然に親独派が多かったのです。

 太平洋戦争の開戦は、こうした親独対米英強硬派が、陸海軍、外務省その他の官公庁や政界に一定程度増えたことも、第二次の日独伊三国同盟締結や対米英蘭開戦に向かった構造的要因としてはあると思われます。陸海軍は官僚組織でもあり、基本的には各課長が起案して上官がこれを承認し、その省庁全体を動かしてゆくという「ボトムアップ式決裁システム」の構造にあるため、課長クラスの考え方がその組織全体の方向性に与える影響は極めて大きいのです。

 これは現代日本の官庁や大企業でも同じです。大学生の皆さんはまだこうした組織構造のことはわからないかもしれませんが、将来官民を問わず大きな組織(*しかも古くからある)に入った場合は、こういう組織構造があることを覚えていてください。

 また、大組織を動かすのは「人と金を握ること」だとよく言われます。つまりある派閥が、その組織の「人事と予算」を掌握できれば、同じ志向・思想や方向性に連なる人々を要職に就け、その部署が推進する事業に予算を付けることができるため、自分たちの思う方向に組織全体を動かしてゆけるのです。もちろん組織のトップや重役陣がそれを承認しなければできないことではありますが、よほど強固な信念や個性的なリーダーシップが首脳陣にない限り、大半は中堅層(*これを事務局とか事務当局といいます)の思う通りに決裁がなされ、結局はその方向に流されてその組織体は動いてゆくことが多いのです。

 一方で、わたくしが名付けた「視野高度」「判断高度」という問題があります。例えば、離陸前の飛行機は地上(*二次元平面)を動いているのですから、パイロットが見ている風景は、自動車と同じです。それが滑走路に入り、離陸して上昇してゆくにつれ、高度が上がり、それとともに地上を見下ろした場合の見える視野はどんどん広くなってゆきます。もちろんその反面、細かいもの小さなものはその細部などがだんだん見えなくなってゆきますが、高度がより高くなればなるほど、広範囲の全体的な地上の様子が、その視野に入ってくるわけです。加えて平面的のみではなく、地上にいるより一層三次元での立体的な姿で、空間的に地上の物標(*例えば高層ビル群など)の広がり具合を捉えることもできるようになります。また遠方に目をやれば、羽田の上空から富士山の姿・形状やその位置の方向もよく見えるようになるでしょう。

 これに似て、組織内の役職が上がってゆくにつれ、最初は目前の課内の仕事しか見えていなかったのが、部内の仕事、部門の仕事、会社の他の部課や他部門の仕事、会社全体の構造や状況、他の会社や業界の状況、日本の経済の状態、世界の経済の状況など、より広範囲の仕事や社会状況が「見える」ようになってゆくのです。

   もちろん人によっては、いつまでも「木を見て森を見ず」とか「鹿を追う者は山を見ず」の諺のようになる人もいますし、それはそれで機関車のような推進力で、目の前の仕事をどしどし進めるためには必要な人材でもありますが、一方でいずれ組織全体を動かしてゆかねばならない人材に育つためには、やはり自身の「視野高度」「判断高度」を高めてゆかねばならないのです。

 ところが、自分の「高度」というものは、なかなか自分自身では捉えきれないものです。なぜならパイロットの座席からの視界も、操縦室の窓枠に限られているように、自分に直接見えている視界の範囲には限界があるからです。また例えば、自分の飛行機が離陸上昇中に地上を眺める場合、高度100mでの視界と、高度500mの視界、そして高度1000mの視界と高度10000mの視界は、当然異なります。その飛行機のパイロットにとっては、その時点の高度から見える視界・視野の範囲しか、自分の眼には見えないのです。

   つまり自分としては、その高度に於いて見える範囲の目一杯の全ては、具象的な実像として捉えているわけです。そしてそれを補完する抽象的な知識・理解として、自分の飛行機の空中における状態や位置を計器等の情報により得て、それらを統合的観念で理解することによって、今自分の眼には見えていないけれども、前後左右上下にはどんなものが存在しているか、また危険な物体は何もないかということを意識し認識しています。

   それはパイロットになる前からの勉強や訓練で習得し、離陸前に調べたフライト情報で得た知識・理解に基づくものであるけれども、しかしその時点の物理的な自分の視野には、入っていないものであり、現実に自分の眼には直接見えていないものです。そして、もしこの事前の研究や知識・情報がなかったとしたら、また計器類も働かなかったら、いくら優秀であってもそのパイロットは、目の前の窓枠の範囲内で見えている有視界のものだけを頼りにして超高速で飛ぶしかなくなり、大変危なっかしい状況での飛行となります。

 こうしたことをよくよく考えてみると、いかに学校秀才でよく勉強もするし真面目で「地頭(じあたま)が良い」人であったとしても、やはりある一定の年月による実務経験や、様々な異なる分野での職務経験を積むことにより、自身の単眼が複眼化して多角的・多面的にものを見ることができるようになつてゆきます。

   そして「地位が人をつくる」という言葉ではありませんが、より広範囲を受け持つ高位のポジションに就いてみて、初めてわかることや見えることも実は多々あるのです。

 井上成美提督は「大佐には所詮大佐の頭しかない」ということを言っていますが、それは大佐を馬鹿にしているのではなく、いくら優秀な大佐であっても、その役職や階級では見えないこと、つまりその「視野高度」「判断高度」では本人たちには見えていない、「高度不足」がまだあるということを指摘したものだったのです。

 これはいくらIQが高くても同じです。どんなに頭の良い人でも、高度100mと高度10000mでは、見えている視野の範囲は違うのです。IQはともあれ、正直なところ、わたくし自身が若い頃、このことをよく理解していなかったと反省しています。自分には何でも見えているつもりで、上司にも突っかかったりしていましたが、馬齢と様々な失敗を重ねた今にして、ようやく見えてきたり、理解できたりすることもあるのです。そんな時、昔の上司に対して申し訳ないことをしたなあと反省したり、今はもう天におられる方々には心の中でお詫びしたりしています。

 しかし、こうした陥穽に嵌らないためにも、米内提督のように読書をすることは極めて有効です。読書は自分自身が直接経験しなくとも、ある程度は先人たちが経験したことを伝えてくれるからです。それは一種のシミュレーションに似て、事前に抽象的ながら思考の世界で疑似的な体験を、その著者の知識・経験や見聞、思考から得ることができるのです。

 話を海軍に戻しますと、米内提督はいくらお酒を飲んでも端然として乱れないことでも有名で、満洲國皇帝が来日した時にその話題となり、どのくらい米内大臣は飲めるのか「海量(ハイリャン)」かと皇帝が尋ねたところ、米内を知るその人は、いえ陛下、米内は「洋量(ヤンリャン)」ですと答えたという逸話があります。

 もちろんお酒の容量も大きかったと思いますが、米内提督は、その人物の器量が「洋量」であったといえます。この人物の「器量」という問題も、上記の「視野高度」「判断高度」と同じく、例えば、お猪口とコップとバケツがあったとして、その人の器量がお猪口の量しかなければ、いくらコップの水を注いでも、お猪口が受け止められる量はお猪口の容量だけで、それ以上の水は溢れて流れ落ちてしまいます。同様にコップにバケツの水を注いでも、コップの容量しかコップには入りません。ことほど左様に、その人物の器量の容量しか、内容は受容できないのです。いくら追加して注ぎ込んでも、お猪口はお猪口の量、コップはコップの分量しか入らないのです。

   しかもより深刻な問題は、お猪口の自己認識としては、目一杯になるまでコップの水を受け止めており、自分の容量を越えて流れ落ちた量がいかほどあるかもわかりません。従って、自分としては実際にフルに受け止めているのですから、コップから「全部飲み込めたか?」と聞かれたら、お猪口は胸を張って「ハイ、目一杯全部受け止めました」と答えるのです。しかし実際には、コップの量のほんの一部分しか受容できていないのです。

 以前もご紹介しましたが、山本五十六提督が「わかるやつは一言いえばわかるが、わからんやつには何時間話してもわからない」ということを、信頼している部下に言ったという話の意味は、この受容可能な容量の問題、理解力の問題でもあるのです。ということは、私たちは少しでも自分の受容できる器量を広げてゆく努力を継続しなければなりません。そしてそのためにも、やはり読書は有益なのです。読書し思索することで、自分が理解できる裾野が広がり、受け止められる内容や容量が大きくなってゆくのです。

 その意味では、わたくしは日本的組織の「ボトムアップ決裁システム」には構造的な欠陥があるのではと考えています。つまりいくら同期の俊秀であっても「所詮課長には課長の頭しかない」あるいはその人が到達している「視野高度」「判断高度」と、その人の「器量」の制約のもとでの、当該案件の「起案」にならざるを得ないのです。

   そして当然のことながら、その「起案」はその起案者が所属する部門、部、課の視点・観点から見ての「最適解」である内容、つまりはエリヤフ・ゴールドラット博士が書いた小説「ザ・ゴール」(ダイヤモンド社刊)で指摘された「部分最適」と「全体最適」の問題でいえば、組織全体の「全体最適」ではなく、その「起案部門」の「部分最適」の傾向を帯びたものである可能性が常に高いのではないかと懸念されるのです。

   根本的には、ナポレオン将軍のように全てを「トップダウン」でとは言いませんが、やはりその組織のトップが、自ら磨き上げてきた(*はずの)識量・識見に基づいた「全体最適」の観点から見て、是正すべき点や側面を持つ「部分最適」的「起案」が、中堅層たる課長から「ボトムアップ」で上がってきた時には、然るべく修正あるいは却下されねばならない構造となっているのです。もしそれを常にそのまま承認するようであれば、結果的にそのトップは失格だといえるのです。

 その点、帝国海軍においては井上成美提督の言う、山本権兵衛大臣と加藤友三郎大臣、そして米内光政大臣は、偏狭な「海軍最適」ではなく、日本全体の利害得失を考えた「国家最適」の「視野高度・判断高度」の観点を持って、海軍大臣としての職責を果たそうとしていたのではないか、とわたくしは考えています。海軍軍縮条約で「六割海軍」の制約を受けても、国家財政の健全化と国際協調を保つ方がより国益にも、そして強大な生産力を持つ米海軍を逆に日本の「六分の十」に制約することで、国防にもかなう「国家最適」であると考える「条約派」「良識派」の海軍提督・将校たちに対し、あくまでも対米海軍戦略上「七割海軍」を目指さねばならないとする専門家的な「海軍最適」を旨とした「艦隊派」「強硬派」の海軍提督・将校たちとの対立が、そこには存在していました。

 しかし、こうした日本の国家全体を視野においた国際的判断ができるような、帝国海軍のトップとしての器量や見識は、海軍勤務経験の年月さえ重ねれば誰にでも獲得できるものでは決してありません。もちろん各人の個性や経験の相違はあったとしても、その努力の積み重ねとともにやはり本来その人に備わった天性ともいうべき人間力と器量に、その大きな基盤があるように思います。こうした意味で上記の三人の海軍大臣は、いずれも「洋量」の提督であったと思えるのです。