戦後、旧帝國陸軍の内部には、太平洋戦争の対米戦に日本を引き摺り込んだのは帝國海軍だという主張が見られます。つまり陸軍の想定敵国はソ連であり、アメリカについてはよく知らない。アメリカを想定敵国としていた海軍が対米戦をやれるというから、陸軍はそれを信じて開戦に同意したのである。従って、開戦責任は海軍にある、陸軍は巻き込まれたのだ……という主張です。

 しかし一見正しいように見える論点が含まれていたとしても、「木を見て森を見ず」ではありませんが、本当に海軍が主導して対米英蘭開戦をしたのでしょうか。わたくしは、海軍史を半世紀以上に亙り追究してきた者として、この「陸軍善玉論・海軍悪玉論」に賛成することはできません。本シリーズで追跡して来た通り、やはり根本的には、張作霖爆殺事件、満洲事変、日華事変、日独伊三国同盟、北部仏印進駐、南部仏印進駐と打ち続く、主に陸軍が主体となった「親独伊・反米英路線」の延長線上で、海軍は開戦に向けて追い詰められていったということに、本質的な構造要因があるのであって、アメリカがついに「対日全面石油禁輸」の経済制裁をしたことが引き金となり、帝國海軍も戦争への道を執らざるを得なかったものと考えています。

   しかし、その時点でも、「三国同盟の実質的骨抜きによる解消」と「中国(*但し満洲を除く)からの陸軍撤兵」及び「汪兆銘政権の否定と蔣介石政権の承認」を日本が呑めば、対米交渉を復活させることは可能であったと思われます。そしてこの三大問題を所掌するのは帝國陸軍であったわけであり、東條英機陸軍大臣と杉山元参謀総長がこの三大問題を受容すれば、恐らく開戦を回避することはできたのです。この文脈において考えれば、これらを頑として拒否した当時の帝國陸軍首脳にこそ、根本的な開戦原因があったものと思われるのです。

 一方で、海軍部内も「真っ白」とは言い切れない点があることも、認めなければ公平を欠くと存じます。それは、海軍軍縮体制を巡る海軍部内でのスタンスの違い、考え方と価値観の違いに端を発した「艦隊派」と「条約派」の対立に、やはり淵源があると思われます。それが「軍令部の権限強化」と「大角人事:条約派提督の追放(*予備役編入)」となり、その結果としての「海軍軍縮条約からの脱退」に繋がり、結果的にそれが日米海軍軍拡競争を再燃させることになったわけです。

   これに反応した、強大な生産力を持つアメリカは「両洋艦隊法」などの大建艦政策に乗り出すとともに、日華事変の泥沼化に伴うアメリカの対日批判を強めて日米通商航海条約の廃棄に進み、さらに日独伊三国軍事同盟への加盟により、米英側からすれば敵国側の反米英枢軸国陣営に日本は明確に加入し、かつ東南アジア侵攻の準備陣と見なせる南部仏印進駐の軍事力展開によって、米英蘭側からすれば日本は決定的に開戦準備に入ったと判断されたことで、米英蘭三国による対日経済制裁(*在米資産凍結と石油を含む対日全面禁輸)が行われ、備蓄石油約一年半分がなくなると陸海軍とも全く動けなくなることから、「追い詰められた」として、蘭印の石油資源ほかの東南アジア英蘭領有圏(*大東亜共栄圏)の軍需資源を確保(*米英蘭側からすれば奪取)するための「開戦決意」をせざるを得なくなったわけです。

 この流れの中で、帝國海軍に責任があるのは、やはり「海軍軍縮条約からの脱退」と、「三国同盟加盟への同意」、そして特に「南部仏印進駐への合意」の三点であると思います。そして、これらの判断に繋がった、「艦隊派」と反米英・親独強硬派的な「海軍政策第一委員会」の動きを見るとき、そこに共通するのは、もともと「艦隊派青年将校」として海軍軍縮条約からの脱退に尽力し、開戦前の当時は海軍国防政策を担当する新設の海軍省軍務局第二課長であった石川信吾大佐(*のち少将、海兵42期、海大25期)と、彼を長年に亙り擁護しバックアップしてきた、海軍省軍務局長の岡敬純少将(*のち中将、海兵39期、海大21期首席)のお二人ということになります。

 そこでこれに関連して、前回同様、保科善四郎海軍中将(*海兵41期、海大23期)、大井篤海軍大佐(海兵51期、海大甲種34期)、末國正雄海軍大佐(*海兵52期、海大35期)の三名による共著、財団法人日本国防協会刊「太平洋戦争秘史**」(昭和62年刊)という本から、このうちの大井篤大佐記述部分を以下にみてみましょう。

   尚、同書は絶版であるのみならず一般出版社によるものではないため、現在は入手困難(*超高価)たることもあり、天に在します大井篤海軍大佐の魂に請うて、後進の研究家や学生の皆さんのために、関連箇所はなるべく全文の引用をさせて戴きたいと存じます。(*裕鴻註記・補正、漢数字・カタカナ文などは適宜修正)

・・・〈海軍政策第一委員会の顔触れ〉

 三国同盟の成立後、海軍中央における政戦略の審議策定の機構と人事が大きく変った。政策中枢の海軍省軍務局が最大の様変りをとげ、局長には無為無策の阿部勝雄(*海兵40期、海大22期次席)に代り、軍令部情報部長(*第三部長)として機略縦横の手腕を発揮した岡敬純がすわった。岡は待ってましたとばかりに局機構を改変した。それは従来は兵備担当をしていた第二課を陸軍省の軍務課に相応する強力な政戦略担当のものに改め課長に石川信吾を配した。石川は岡にとり(*旧制)攻玉社中学の後輩で、石川が二・二六事件連座容疑で睨まれたとき、それを庇護したのが岡(*当時海軍省臨時調査課長)だった。また、ごく最近は、前海相吉田善吾が三国同盟賛成に渋っていたとき、当時陸軍の鈴木貞一(*中将、陸士22期、陸大29期)の下で興亜院政務部第一課長をしていた石川が軍令部情報部長だった岡に伴われ、海軍大臣室で吉田に同盟賛成をせまり、その数時間後に吉田が、前述したように、発病入院し、海相辞任のやむなきにいたったのだった。そのような経緯があったばかりだっただけに、この軍務局改組は海軍にとって尚さら画期的だったのである。

 この石川の海軍省入り後まもなく、岡軍務局長を委員長とする「海軍国防政策委員会」が発足した。それはさらに四つの委員会に分かれ、その最も有力で活動的だったのは第一委員会で、軍務局第一課長高田利種、同第二課長石川(*信吾)、軍令部作戦課長富岡定俊、軍令部国際関係主任(*第一(作戦)部長直属、戦争指導担当甲部員)大野竹二の四大佐が委員だった。四名中で石川が断然最古参(海軍兵学校期別が石川の42期(*海大25期)、大野44期(*海大26期)、富岡45期(*海大27期首席)、高田46期(*海大28期次席))だったし、陸軍や政界や報道界その他の各界に顔の利くことでは、石川は全海軍随一なのに比べ、他の三人は海軍部内でのエリートといった程度。

 しかも石川は課員として藤井茂(*中佐、海兵49期、海大30期次席)、柴勝男(*中佐、海兵50期、海大32期)といったちゃきちゃきの外交政略通を軍務第一課から引き抜いて部下としていたし、富岡の部下の神重徳(*中佐、海兵48期、海大31期首席)は富岡には手におえぬ荒武者だが、石川とは二人がまだ尉官の時からウマの合う仲だった。神は1933 (*昭和8) 年ヒトラーが総統に就任の直後から1936 (*昭和11) 年ラインラント進駐決行直後までのナチスドイツの旭日昇天ぶりを現地で肌に感じていた。たまたま世界一周旅行中の石川もラインラント進駐時に訪独して神に会い、日独呼応の必要性を談じ合ったと石川の著書にある。また柴が駐独海軍武官補佐官としての事務を神から引継いだのは丁度そのころのようだから、石川、神、柴のコンビはそのときからのものとみるべきかもしれない。ともあれ第一委員会運営の中枢となったのがこの三人コンビだったとして間違いなさそうである。

 もっとも石川の親独は、神や柴のナチスに惚れてのものと違い、日本的右翼運動を主体としてのものだった。さきにもふれた二・二六事件への連座については私(*大井大佐)はまだ詳しいことを知らないが、私の同期生(*海兵51期)の堤正之が二・二六事件への連座がばれて自殺したとき、その連座が岩田愛之助ら右翼との交友にあったこと、そしてその交友には石川の手引きがあったこと、堤の自殺は前記石川の世界一周旅行中のことだったのは私も知っている。ともあれ、その二・二六事件連座で石川の現役の座が危うくなったとき、それを岡敬純が庇護した。それで石川は三、四年間どさ回り的配置を転々とさせられたが、日独伊(*三国)同盟成立となったので、岡海軍省軍務局長のもとで、その独特の政治的手腕を発揮しつつ、海軍中央の中堅層を操ったのである。

 〈第一委員会の対米開戦論〉

 ずいぶんともってまわった叙述となってしまったが、ともあれ前出の「第一委員会」なるものが昭和16 (*1941) 年6月5日付で及川(*古志郎)海軍大臣と永野(*修身)軍令部総長に提出した文書が残っている。対米開戦になるまでの経緯に関する文献はそれこそ汗牛充棟の形容そっくりの多数にのぼり、それらを全部読み切ることなど誰だってできるわけがないだろうが、まあだいたいにおいて、海軍は陸軍に追い詰められて開戦に同意したことになっている。私(*大井篤大佐)の体験そのものからしても、どう考え直してもそう結論するほかない。だが、この「第一委員会」文書なるものを読むと、逆の結論を下さざるをえなくなる感じになるのである。

 実は私はこの「第一委員会」文書の存在を知ったのは、戦後四半世紀もたってからで、当時私もたびたび参考人として質問をうけていた日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部の筆頭メンバーからきかされた。文書そのものは見せてもらえなかったが要旨は知らせてくれた。「私の感じでは何としてもおかしいが、ちゃんとした文献が残っているとすれば、史家としては文献を尊重すべきでしょう。その前に第一委員会のメンバーたちに直接たしかめてみたらどうですか」と私は勧めたわけだが、「みなさん相手にもしてくれないので、あなたに意見をきいてみるのです」とのことだった。

 私は終戦直後、占領軍GHQの歴史課嘱託として日本終戦努力の経過を書かされていたとき、ベルンハイムの著書などで史料の選択の仕方を研究したことがあったので、「それほど確実な文献があるなら、それによってあなた方の所信どおりに一応書くほかないでしょう、歴史に決定版などありえないことで、将来もっと確実性のある史料が出てきたら、それによって修正することにするほかないでしょう」と私は再度いった。

 それが昭和38 (*1963) 年5月15日付朝日新聞社発行『太平洋戦争への道』の第七巻となったわけだが、これを読んだ旧海軍関係者は「これはおかしい」とびっくりしたようだ。ともあれ後述第七節「ついに嶋田(*繁太郎)海相が開戦に同意」に出てくる「沢本手記」はこうした驚きのショックの代表的産物といえる。その「沢本手記」(*沢本頼雄海軍大将、海兵36期、海大17期、開戦時の海軍次官)は次のように筆を起こしている。

 「(*昭和) 38 (*1963年)・6・15=先日級友某に会ったらこんな話をする。曰く“『太平洋戦争への道』を読んだか? あの第七巻が最近発行されたが、そのうち日米戦争前の折衝は自分がこれまで見聞して得た印象と大変違うように思う。『海軍は消極であったが、陸軍に引き摺られて遂に開戦した』というのが結論であると思うが、第七巻を通覧すると、海軍が大変積極的に出ている様に書いてある。精読したわけではないから確かなことはいえないが、どうかね?”と。

 余(*沢本大将)は答えて曰く“全く同感だ。唯最後の場面は必ずしもそうではないように思ったが、これは多分こうではあるまいか。すなわち、当時海軍省課長以下でいろいろ研究会を開いて居たが、中期以後はその意見が強硬となり、陸軍中堅と選ばなくなった(*変わらなくなった)。今日残っている史料が多くはその海軍中堅のものの書いたものであって、高級の者の意見、言行がはいっていないためではあるまいか。私は深く研究もしないで憶測を言うのも憚るが、海軍首脳の態度はもっと違っていたと思うし、私自身としても、若干憤懣を感じた次第である……”と、等々の応酬があった。」

 沢本手記は、続いて、沢本が「大東亜戦争に関すること」を書くことは「気が進まぬ」ながらも、「第七巻」を読み、憤懣を覚えたのが動機で綴られたものであることを述べている。

 問題の第一委員会文書は『太平洋戦争への道』別巻・資料編に掲載されたので、私(*大井大佐)もその全文を、後日、読んだわけだが、学者たちに前述のような史的解釈をさせることになったのもムリがないものといえる。「速(*やか)に和戦孰れかの決意を明定すべき時機に逹せり、而して和戦の決の最后的鍵鑰(*カギの意)を握るもの帝國海軍を措いて他に之を求めず、故に帝國海軍先づ自らの情勢判断に基き其の根本方策を策定せざるべからず」(*原文は漢字・カタカナ文)との「情勢判断の基礎条件」に立って筆を進めている。

 さらに物的国力や国際諸情勢をふくむあらゆる情勢において、対米開戦決意を不可とするような事情はない、との判断を述べているだけでなく、次のような思い上がりをみせている。

 「帝國は今や国防国家建設を目指して国内経済、産業、金融組織に一大変革を実行しつつあり。之れ英米依存より脱却して自給自足に立たんとする所以にして、帝國海陸軍備が資材的に英米の手中に掌握せられたる悲境も斯くして漸く改善せられんとしつつあり」

 しかもこのように強がりをいっているのは、

 「国防国家建設の大勢を反転せしめんと希求する者多く相当根強き策動をなしあるものの如し」と、いわゆる親英米勢力なるものを排撃せねばならないというわけだが、実はそれだけではなかった。

 〈石川信吾ら中堅の下剋上〉

 当時の海軍省首脳は近衛(*文麿)首相とも語り合い、渋る大先輩の野村吉三郎大将を駐米大使に遣り、いわゆる日米交渉を進めてもらっていたが、第一委員会はこれが気にくわなかったのである。ことに石川は当時の外相松岡洋右と同郷(*長州)の大の仲良しのせいか、松岡が訪独ソ旅行の留守中にスタートをきった日米交渉の妨害をさえあえてした。当の松岡は、戦後連合(*国)側没収のドイツ外交文献によれば、ヒトラーとの対談で、“これが洩れると自分は政府を追出されるから厳秘としてもらいたいが、日本がシンガポールをそのうちに必ず攻略するよう自分は最善の努力をする”と述べ、ヒトラーからその甚だしく強硬でまた自信満々の反米英態度を吹き込まれたとある。だから石川が訪独から帰った松岡からそれ相当の影響を受けただろうこと、そしてこの「第一委員会」にそれが反映していることは、当らずといえども遠からずといえるのではないか。

 この第一委員会文書末尾は「参考情報資料」としてとくに陸軍の動向にふれ、陸軍は南方進出よりも北進を重視しているとしている。そういえば、私(*大井篤大佐)も思い出すことがある。独ソ戦開始(*昭和16 (1941) 年6月22日)の直後のころ、当時人事局にいた私に「陸軍はドイツに便乗して対ソ戦をやり出す危険があるから、それを掣肘するには、海軍はこの際断固南進を促進せねばならない」との意味のことを、石川が述べていたのである。私は少尉のとき石川とは同じ戦艦山城に乗り合せたり、私が大尉、石川が中佐で、軍令部勤務中は石川が私的に催した会合にしばしば招かれたりもしていたのである。

 〈昭和16 (*1941) 年4月の重要人事交代〉

 前記第一委員会文書は「現情勢下に於て帝國海軍の執るべき態度」(*原文は漢字・カタカナ文)と題するものだったが、起案は石川の手になり、同委員会名義で、一方、海軍省側は石川(*信吾)軍務局第二課長から稟議形式で岡(*敬純)軍務局長、沢本(*頼雄)次官、及川(*古志郎)大臣の、他方、軍令部側では、その原文書は残っていないが、おそらく作戦課長(*富岡定俊大佐)と国際関係主任(*大野竹二大佐)から、福留(*繁)第一部長、近藤信竹次長、永野修身総長の、それぞれ決裁を求めたものらしい。

 (*豊田貞次郎前海軍次官の商工相への転出による後任の)沢本次官は、華南沿海警備からの転任で、(*昭和16年)4月下旬に井上成美次官代理から事務引継に際し、海軍中央中堅層の反米英に注意するよう具体例をあげて注意を受けていた。井上は、軍務局第二課の柴(*勝男中佐)が横山一郎駐米大使館付武官(*大佐、海兵47期、海大28期首席)に対し、野村大使をして安易な対米妥協をさせないようにせよとの意味の大臣訓令電を起案し、大臣の決裁を求めてきたとき、次官代理としてこれを目にとめて驚き、柴起案の主旨と逆に、日米間了解の達成に努力するように大使を補佐せよ、と修正して大臣決裁をうけた上、軍務局に発電を命じたことがあった。このことはむろん沢本も井上からきかされたに相違ない。(原注、戦後、柴が防衛庁戦史編纂官に告白したところによれば、軍務局はこの井上修正電を握りつぶして、打たなかったという。)

 沢本は剪れ味においては豊田前次官や井上に劣るとしても、用心深さにおいては比類稀な人だったから、中堅層があの鷹揚な及川大臣を振り回すことのないように努めたに違いない。それだけに、前述の第一委員会文書は、沢本にとって、かえってそれが及川大臣をして中堅層の下剋上に対して警戒をいっそう厳重にさせる好資料となったのではないか。ともあれ私は、後にも述べるように、及川のその後の動向に照らし、そのような感じを抱く。ことにこれを軍令部総長永野修身の場合と比べるとその感が深い。永野軍令部総長は同(*昭和16 (1941) )年4月9日に伏見宮の後をうけて就任したばかりだった。・・・(**前掲書223~230頁)

・・・さきにも述べたように、永野の対米強硬は例の「第一委員会」文書が火付け役を演じたもののようだし、そしてその第一委員会文書は海軍が対米開戦決意の主導権をとるべく主張したものだった。だがしかしである。仮にもし、陸軍に根強い本格的な対米戦意がなかったとしたら、海軍にどの程度のことができたのだろう。

 この問題についてはすでに『太平洋戦争への道』第七巻のことをいろいろ述べた際にも多少ふれたわけだが、それは間接的にすぎないふれかただったし、むろんすこぶる不徹底だった。しかしこれはあの戦争――それを太平洋戦争と呼ぼうと、大東亜戦争と呼ぼうと、さらに進んでは第二次大戦の太平洋・大東亜版と呼ぼうとを問わず――実に核心的な問題点と私は思うのである。

 第一委員会文書はそのタイトル「現情勢下に於て帝國海軍の執るべき態度」そのものが示す通り、現に展開しつつある内外情勢を分析し、それに海軍が如何に対応すべきか、というもので、そこには世界観とか思想とかいえるものがなかった。如何なる世界観や思想がもとで現下の内外情勢が生起・展開・推移するのかの分析が欠けていた。したがってこれに対する海軍の態度を決めるのにも、深遠・恒久的な考慮がなく、ただ条件反射的な決め方となっている。「現下の世界的大変動」とか「世界的大変革」とか、または「自存自衛」とか「皇国の安危」とかいった文句を、それぞれ一回ぐらい使っていながら、そこからは世界観的、思想的なものは全く感じとれない。全文が次元の低い策謀論である。軍隊ほんらいの在り方は、国策の審議や決定に参与するのではなく。政府から割り当てられた国家資源の枠内で、政府から課せられた任務を遂行することにある。・・・(**前掲書238~239頁)

 このように大井篤海軍大佐は批判されています。つまり本来は、大日本帝國としてのあるべき理念・思想や世界観というものが、まず先に在るべきであり、それを実現するための綜合的な国策が立てられ、その国策を実現するための政戦略の中の一つの手段が、「戦争発動」という統帥事項であったにもかかわらず、その根本的な国策なしに、逆の筋からとなる「統帥側」から国策を求めていったことが、結果として「戦争」を引き寄せることになっていったのではないかということを指摘されているように思います。しかもここで「中堅層の事務当局」が陸海軍首脳陣を引摺る「ボトムアップ方式」の構造が働いたことも作用したと思われます。次回も引き続き検討してゆきたいと存じます。