今回は、戦後の日本における「左傾した思想傾向」とその淵源について、考えてみたいと存じます。そのためにも、まずは「マルクス史観」に関連する林健太郎先生(元東大総長、歴史学者)の「歴史からの警告 戦後五十年の日本と世界**」(1999年中公文庫)の、次の記述を読みたいと存じます。(*裕鴻註記、尚漢数字・記号などは適宜修正)

 

・・・このマルクス主義というのは昭和七(*1932)年頃岩波書店から刊行されはじめた『日本資本主義発達史講座』というものに由来するいわゆる「講座派マルクス主義」です。これはそれまで有力だった「労農派マルクス主義」に対立して日本の資本主義の封建的性格を強調するものですが、この理論は、一九三二(*昭和7)年のコミンテルン(国際共産党)の日本に関するテーゼ(*活動綱領)が「天皇制」の打倒を第一任務に掲げ、来たるべき革命はまず天皇制という封建制を倒すブルジョア革命、ついでそれを社会主義に転化させる革命という二段階でなくてはならない、と説いたことに対応したものでした。

 この来るべき革命の段階論などというものは、今から考えれば随分現実離れした無意味なものだったのですが、この講座派理論が当時の日本を「軍事的半封建的資本主義」と規定したことは、軍国主義的傾向が強くなっていた当時においてはその風潮に批判的だったインテリ(*旧制大学卒の知識人層)に大いにアピールするものを持っていました。

   他方戦前の(*旧制)大学の歴史学科では明治以降の近現代史というものは研究されていませんでした。それは歴史という学問はあくまで実証主義であって、外交文書などの史料類が公開されるまでは研究対象になりえないという理由によるものでした。そこで戦後この近現代史の論議が急に盛んになると、そこには専門の歴史家が育っておらず、時代の風潮として共産主義がきわめて盛んだったこともあって、歴史叙述がこの「講座派マルクス主義」一色に塗りつぶされることになったのです。

 この歴史観は戦前の歴史をすべておくれたもの、低いもの、悪いものと解しますから、明治維新がフランス革命のような「下からの」革命でなく「王政復古」の形をとったことが大変よくないということになります。そしてこういう「封建制」を残したから、明治維新で成立した天皇制はヨーロッパの十七、八世紀に見られたような「絶対王制」であり、それがそのまま昭和時代の軍国主義につながっていると見るわけです。

 こういう見方がいかに偏っていて事実に合致しないかは、今では一般にみとめられていると思います。明治維新は後進国の近代化として他に例のないような成功例で、その成功が、文化的伝統との断絶ではなくその継承の上に行われたことによるものだというのも、今ではすでに国際的な認識と言ってよいでしょう。(*ロバート・N・ベラー著/堀一郎・池田昭訳「日本近代化と宗教倫理」1962年未來社刊等)

 明治二十二(*1889)年の欽定憲法はプロイセン憲法を模したものでしたが、日本にはプロイセンのような「ユンカー」(大地主・農業経営貴族)はいなかったので、広く中産階級からエリートを養成して近代国家をつくりました。そして天皇は伝統的に君臨すれど統治はされなかったから、おのずと英国のような立憲君主制となり、昭和の初期にはほぼ、政党による議会政治も実現していたのです。

 私はさきに歴史家の責任と言いましたが、歴史家が全部左傾していたわけではありません。しかし戦後の日本では教育界で「日教組」というものの勢力がはなはだ強く、ここで詳しく述べる余裕はありませんが、それが中学の歴史教科書などに強い影響を及ぼしていました。たとえば日露戦争のような日本の独立のための防衛の戦いでも、独占金融資本に転化した日本資本主義による侵略戦争だというようなことを言う。だから日露戦争といえば教科書に出てくるのは必ず与謝野晶子の「君死にたまふこと勿れ」であり、内村鑑三の反戦論であり、いかにも日本が悪いことをしたかのような書き方でした。

 ことほどさように日本の近現代史の捉え方は偏っていた。つまりそういう現実があったものだから、どうしてもそれに反発する勢力が生まれ、こちらはこちらで「大東亜戦争は悪くなかった」と、これまた反対の方向に偏る結果となっていってしまったわけです。(*「大東亜戦争の全面的肯定史観」)

・・・(**前掲書256~259頁より部分抜粋)

 

 ちなみに林健太郎先生のお父上は海軍兵学校32期の*林季樹海軍大佐で、山本五十六、堀悌吉、吉田善吾、嶋田繁太郎といった各提督と同期生です。米内光政提督が戦艦扶桑の艦長時代に同艦副長(*中佐時代)も務められましたが、ワシントン軍縮条約の余波で予備役に編入され、中学校の教師に転じられました。しかし大戦中に志願して海軍に復帰し、済州島(のち金海に移転)の釜山海軍航空隊司令をされました。林健太郎先生ご自身も、一高の教授をされていた戦争中の昭和19 (1944)年に、徴兵により帝国海軍に召集され海軍一等水兵として勤務されたご経験もあります。

 

   林健太郎先生は、昭和43 (1968)年に東大の安田講堂などが占拠された東大紛争では、当時文学部長として全共闘に一週間以上監禁されても怯むことなく学生相手に対話を続け、その後東大総長として紛争後の大学立て直しにも尽力されました。この間の経緯や、林健太郎先生ご自身の考え方は「昭和史と私」(2002年刊文春文庫)や、「歴史からの警告 戦後五十年の日本と世界」(*1999年中公文庫)に叙述されています。大正2 (1913)年生まれの林先生は、昭和6 (1931)年の満洲事変勃発の年は旧制高校三年生であり、昭和11 (1936)年の二・二六事件の時は東大の大学院生として、戦前期の日本を同時代の知識人の眼でずっと目撃されてきた方です。

 

 わたくし自身は、史学科出身ではなく法学部政治学科出身で、政治学・社会学そして文化人類学の観点から「歴史と格闘」している者ですが、文学部史学科の大先輩から読んでおくようにと教えられた古典的名著に、林健太郎著「史学概論(新版)」有斐閣1953年刊行1970年新版発行という本があります。

 

   カール・マンハイムの「思想の存在被拘束性」ではありませんが、この本が書かれた「時代の存在被拘束性」というべきものも当然あるものと存じます。しかし、少なくともこの本の新版初版が出た昭和45(1970)年以降、筆者が所蔵する第29刷が発行された平成8(1996)年までの状況においては、特にその新版に追加された「付論 戦後歴史学の課題」の内容については、今も変わらず十分な妥当性と有効性を持つものと、わたくしは考えております。

 

   林健太郎先生の最終的なご思想に現在の私の思想は極めて近く、心より尊敬する方であり、また高校時代には先生の「歴史の流れ」という文庫本を愛読していました。先生は一高から東大という戦前のトップエリートのコースを進み、東京帝大西洋史学科出身の歴史学者として、最初は一高時代からマルクス主義と唯物史観に傾倒されていましたが、戦後まもなく共産主義者やソ連の実態に気が付いて失望し、自らの判断でマルクス主義とは決別して、その後独自の現実主義の立場から学術のみならず評論や公的活動にも取り組まれました。

 

 この林健太郎先生が指摘されている通り、戦後日本の中学・高校の学校教育や、大学での主に文学部や教育学部における「史学教育」の傾向は、明らかに「マルクス史観」に則った日本近現代史観であり、つまりは当然に、現代日本社会の学術界やマスコミ・言論界などをリードする主要の方々が学校教育の中で受けてきた「歴史教育」も、大方はこの方向性の上に形成されていると見做すべきなのです。

 

 その「マルクス史観による戦前の日本観」とはつまり、「戦前の日本」は「軍事的半封建的資本主義」と規定され、「二段階革命論」で、まずは「天皇制という封建制を倒すブルジョア革命」を起こさせ、次に「社会主義に転化させる革命」を目指すように、というモスクワの国際共産党(コミンテルン)からの指令に基づいていたわけです。この「二段階革命論」という革命戦略によって、戦後日本を「社会主義化から共産化しよう」とする、「レーニン式・政治謀略」の延長線上にある「思想教育」であることが明瞭です。

 

   戦後日本の「日教組」主導の歴史教育が左傾した理由や、近現代史研究の左傾状況は、実証主義に基づく近現代史研究が進展する以前の時点で、マルクス主義史観・唯物史観が、共産主義革命を目指す戦略的な政治運動上の必要性からも、先行して歴史学界に蔓延し、その結果として偏向した歴史教科書による学校教育が推進される結果となってしまったというわけです。

   そして、新聞や雑誌に「歴史認識問題」を書いたり、テレビ局などで歴史番組を制作したりされている主要な皆さんも、基本的にこうした「思想教育」の影響下にあって、日本の近現代史に関する「ものの見方・考え方」が形成されている傾向があるとみるべきなのです。

 

 一方で、第三代防衛大学校校長を務められた猪木正道先生の「軍国日本の興亡***」(2021年中公文庫再刊)には、以下の記述があります。尚同書***付録「軍国日本に生きる 猪木正道回顧録」(1998年「外交フォーラム」)によれば、猪木正道先生は、1931(昭和6)年に第三高等学校文科乙類(*旧制三高、戦後京都大学教養部)に入学し三年間学んだあと、1934(昭和9)年に東京帝国大学経済学部に進学されました。京都帝大は前年の「滝川事件」(*言論弾圧の対象が、共産主義思想から、自由主義的な言論にまで拡大されたといわれる事件)の関係で混乱していたため、東京帝大に進学されました。その入学当時の様子を同書***上記「付録」から少し読んでみましょう。

 

・・・東京帝大経済学部は、低能教授と噂される先生が多いのにがっかりした。しかし救いもあった。1934(*昭和9)年4月中旬に行なわれた新入生歓迎の講演会で、河合栄治郎教授と矢内原忠雄教授との熱弁に接したことである。河合教授は大変な雄弁である上、内容も感動的だったので、私たちはたちまち河合党になってしまった。講演を聴く新入生の中に、涙を流している者がたくさんいたことは印象的だった。

 

 二、三日後、河合教授の「日本におけるマルクス主義の功罪」というテーマでの社会政策開講の辞を聴きに行った。

 

 講義の内容は、大きく分けて三つの部分からなっていた。第一は、社会科学の伝統を欠く日本で、マルクス主義は社会科学全般の代役を務めたという点である。第二は、マルクス主義が社会科学の全分野を独占的に制圧した結果、日本の社会科学の健全な発展は不可能に近くなったという点である。そして第三点は、多数の前途有為な若い学生が、マルクス主義という麻薬的教義のとりことなった結果、共産主義運動の実践に乗りだし、悲惨な境遇に転落したという事実である。

・・・(***同書318~319頁)

 

 こうして戦前期においても既に、旧制帝大でマルクス主義がかなり浸透していたことがわかります。


ご参考:


 また、林健太郎著「昭和史と私****」(2002年刊文春文庫)には、次の記述があります。

 

・・・共産主義というものは、その当時(*戦時中)から、それを最初に地球上に実現したソ連という国を守るということに第一の価値を置いていた。そして「プロレタリアート」が政権の座についたこの「ソヴェート」という制度こそは、「ブルジョア」の支配を意味する議会制などよりははるかに民主主義を現しているのだという、今日あまりにもその虚構性を暴露してしまった主張がわれわれの間では少しも疑われていなかったのである。

 

 しかしそれがいかにまちがっていたにしても、この頃スターリンのソ連とコミンテルン(*在モスクワ国際共産党)がすぐれた手腕を発揮して「資本主義国」同士を戦わせ、途中で自分(*ソ連がドイツに)が攻め込まれてひどい損害を受けたけれども、結局、戦争に勝って戦後その支配地域を大いに拡大し、世界の共産主義化が「必然」であるかのような形勢をつくり出したのは事実であった。

 

 私(*林健太郎先生)自身は戦後まもなく共産主義の実態に失望してその思想から離れたけれども、戦争直後の日本では共産主義が猖獗を極め、それが占領軍の力によって押さえられた後にも、思想界にはマルクス主義の影響が長く残った。そして国際政治の上では、戦後直ちに「冷戦」が始まって米ソが対立すると、ソ連を平和勢力、アメリカを戦争勢力とする見方が広まり、日本がサンフランシスコ平和会議によって独立を回復すると、日米安保条約によって日本が「戦争にまき込まれる」という宣伝が、一九六〇年のいわゆる安保騒動に見られたように少なからず人を捉えたのであった。

 

 戦後四半世紀を過ぎる頃から、さすがにこのイデオロギーの力も衰え、ことに一九八〇年代の後半に入って共産主義の体制と思想の崩壊は決定的となった。そしてかつてマルクス主義思想の影響によって歪められていた過去の歴史に対する解釈に対してその修正が行われるようになったのは、当然のことながら慶賀すべきことである。しかし何事によらずものには行き過ぎということが伴うのであって、そうなるとそれは決して正しい結果を生み出さない。・・・(****前掲書140~141頁)

 

・・・私が共産主義を信奉し、その理論を絶対的真理と考えたのは、私の生涯の中では、若い時の一時期に過ぎない。しかしそれでもそれは、一九三〇(*昭和5)年に始まって一九四五(*昭和20)年の日本の敗戦にまで及び、しかもそれで簡単に終わったわけではない。ひとたび捕らえられたイデオロギーから脱却するというのはなかなかむずかしいものである。それはそのイデオロギーの唱える理論が客観的事実と合致しなくなることによって生ずるのであるが、その過程がまた決して簡単ではない。というのはかつて信じた真理の誤りを認めるのは辛いことであって、そこで初めはなるべくそれを認めまいとする。都合の悪い事実は「デマ」であると言って否定する。そして否定し得ない事実が存在しても、それは本質的ならぬ現象だとしたり、あるいは努めてそれに触れず顧みて他を言ったりして、その意義を努めて小さなものにしようとする。しかしそれも次第に通用しなくなってそのイデオロギーは破れるのであるが、それには時間がかかり、その途次それはいろいろな形をとるのである。・・・(****前掲書166頁)

 

 このように人間がひとたび捕えられた「イデオロギー」から脱却するのは決して簡単ではありません。戦後七十年以上も偏向した「反日左翼的な歴史教育」を刷り込まれて育ってきた一般国民が、この「左翼的歴史観」というイデオロギーから脱却することは、もとより容易ではありません。それでは一体どうすればよいのでしょうか。

 

   こういう情勢を踏まえて、今後日本の「歴史認識問題」をどのように解決すべく、その方向性をどう模索するかを、次に考えてみたいと存じます。

 

 林健太郎先生が指摘されていた「歴史をどのように捉えるか」という「史観問題」はすなわち「歴史認識問題」でもあり、今もなお現代日本が直面している近隣の中国や韓国、そして先の大戦におけるかつての旧敵国であった連合国側諸国(米・英・蘭など)との間の、「大東亜戦争観」や「戦前日本観」に関する「歴史認識問題」とも深く連関しています。それが現今も話題となる「国際連合における旧敵国条項」にも連なっています。

 

   こうした大東亜戦争で戦った相手国や、明治以降植民地的支配をしてきた相手国との、歴史上の緊張関係を、どのように理解し、自国の歴史の中で位置付けて、次代の国民(つまりは子供たち)に説明してゆけばよいのか、という私たち自身の「価値判断」とそれをもたらす「価値観」が、ここでは改めてわたくしたち日本国民に問われています。

 

 これには、いわゆる歴史研究における「方法論的問題」と、その「史観の前提としている価値観問題」が重なり合っています。前者の方法論としての「マルクス史観」の「歴史の発展段階説」なる「科学的歴史法則」は、上記の林健太郎先生の論述にもある通り、もはや今日では通用しない「十九世紀的決定論哲学」に基づいていることから否定できます。しかし、もう一方の「歴史認識における価値基盤をどこに置くか」という意味における「価値観問題」については、各自が依って立つところの「思想・信条・哲学」として何を選択するのかという問題であって、「各思想同士の争い」のいわば「代理戦争」を「史観戦争」に受け持たせるのは、本来学術的にも正当なやり方とは言えないと思います。

 

 そこで必要かつ重要となる一つの鍵は、長年に亙りマックス・ウェーバー(Max Weber、1864~1920)の研究をされた安藤英治先生(慶應義塾出身で戦時中は学徒出陣により海軍予備士官として従軍、戦後成蹊大学経済学部教授・名誉教授、1998年没)の、「ヴェルトフライハイト(Wertfreiheit)」を「没価値」ではなく「価値自由*」と解する考え方なのです。

   つまり、歴史研究を含む「社会科学」的分野における「客観性」の問題については、論者の思想的立場や基盤を離れての、厳密な意味での「客観性」は、社会科学においては成立せず、むしろ「論者が自らの思想的立場を事前に表明した上で論ずること」により、「読者は『論者の思想的立場』を踏まえた上でその主張を読むことにより、読者自身による、より『客観的』な理解が可能となり、結果として『客観性』が担保される」という考え方*です。

 

 この「価値自由」の考え方に則り、学術界・言論界・マスコミ界などのオピニオン・リーダーの皆さんに対し、彼らの旨とする思想・信条体系の志向性を問いかけてゆくことが、先ずは、わたくしたちができる有効な対処の第一段であるように思います。これに対しては、彼らも「学者」や「新聞・雑誌」や「公共テレビ・ラジオ放送」としての建前や立場からの、自律的あるいは他律的な自己制限もあるでしょうが、それでも「歴史観」の根基を成す「価値観」を率直に伺うことの糸口になれば、大きな前進につながります。


ご参考:



 この「価値自由」の考え方の次に、本件を進めるためには、わたくしが尊敬申し上げている影山好一郎先生(史学博士、元防衛大学校教授、帝京大学名誉教授、元海自航空部隊司令)が指摘されている「歴史の現代的価値観による断罪的批判」の問題、即ち「当時の時代背景・価値観・空気(「当時代の諸要因」)」をもっと考慮に入れて「正確に当時代を理解する」ということを目指なければならないという点が極めて重要ですし、これを如何なる方法でクリアするかという方法論としての課題があります。

 

   どのような史料の記述も、それは事実の一断面を示していますが、同時にその時代特有の視座や立場、そしてその時その社会やその所属集団(例えば陸軍や海軍や論壇など)が共有していたり、前提としていたりする、「価値観の束縛」からは逃れられない見解や解釈を、示しているものでもあります。つまりその人物が生きていた時代や社会、集団に所属することから自ずと生じてしまう「存在被拘束性」(カール・マンハイム)から、各個人は逃れえないのです。

 

 しかしわたくしたちは、現代を生きる日本人としての価値観や視点、視座に立脚した、わたくしたち自身による観望と分析の上で、現代日本人としての判断や評価をすることもまた重要であり、文化人類学的研究手法になぞらえれば、その「理解過程に於いては文化相対主義的な、歴史当事者たちの観点・視点・価値観に寄り添った文脈的理解を極力行い」、その結果掴みえた事実の総体に対しては、今度は「自己の立脚する価値観に則って分析・評価・判断をする」という方法態度、つまり平たく言えば「理解過程」では当時の当事者たちの立場に立って理解することに努め、「評価過程」では現代の自分の価値観によって判断・評価を行うというやり方が重要となるのです。(私の恩師、慶應義塾大学名誉教授、十時嚴周社会学博士(故人)ご提唱の研究方法態度による)

 

   その意味では、影山先生のご指摘される通り「当時代の諸要因」を踏まえた、先ずは第一段階としての「理解過程」における戦前日本史の研究として、こうした「左翼的史観」を排した「文化相対主義的理解」、つまり極力価値判断をしないで、事実の構造的かつ時系列的な分析・整理・把握を行い、その次の第二段階として、今度はその「理解」を踏まえて、現代日本が持つべき「価値観と志向性」に基づいて、「評価過程」における分析や判断をしてゆくことが必要となると思います。それを、影山先生のおっしゃる、「点」としての歴史事象とその関係範囲の研究、「線」としての時系列的経緯やその変化の研究、そして「面」としての空間的拡がりを持った地政学的な俯瞰した観点での道筋の展開において、研究を重ねることで、より「正確」な歴史描像が得られるものと考えます。

 

 そして、この「理解過程」の上で、次がいよいよ「評価過程」となるわけですが、これはすなわち「価値体系」の問題なのです。つまり、自己の立脚する「価値観」「価値基盤」をどこに据えるかということが肝心なのです。

 わが国は、「自由民主主義政体」の国家ですから、それこそ憲法によって「思想・信条の自由、言論の自由」は保障されています。したがって、それが共産主義思想であれ、無政府主義思想であれ、はたまた自由民主主義思想であれ、テロ行為などで他者を殺害したり負傷させたりするような、社会的な公序良俗に反する犯罪的な「害」を他者になさない限りにおいては、どのような「政治思想」「宗教的信念」「政治的言論や政治活動」をしても、その自由は守られています。

 

 これは決して世界中で「あたりまえ」の制度ではないのです。今日のニュースでも、ミャンマーの軍事政権が民主化運動の政治犯を死刑にしたとの報道がなされていますが、このミャンマー軍事政権を支援している中国でも、同じように香港での民主化運動を弾圧し、活動家を逮捕・収監したり、中国本国に送って処罰したりしています。またチベットやウイグルでの弾圧や、かつてはモンゴル族やイ族なども激しく弾圧しました。さらに北朝鮮での反体制者に対する強制収容所での「労働教化」や粛清なども然り、その淵源であった旧ソ連や旧東欧共産圏諸国での人民弾圧・粛清処刑などの「政治的・思想的・民族的弾圧」の歴史と実情を見ると、現代でもなおこうした「思想・信条・言論の自由」が保障されている国は、決して多くはないのが実態なのです。

 

ご参考:


 わたくしたちは、まずわが国の「自由民主主義政体」と「思想・信条・言論の自由」の制度に対して、肯定的な評価をすべきではないでしょうか。せっかく有しているこの「自由」を守り、子どもたち孫たちの時代にまで維持・存続せしめるためにも、わたくしは、上記の様な共産党が支配する国や現状のロシアの様な「権威主義的政体・専制主義的政体」の国に、日本が決してならないように、西欧諸国やアメリカなどの「自由民主主義政体」の国々との連携のもとに、わが国を進めてゆくことを、何よりの「価値基盤」とすべきであると信じています。


 左翼の皆さんは如何でしょうか。日本を中国やロシアや北朝鮮のような政体の国にしたいとおっしゃるのでしょうか。それとも西側諸国と同様の政体を維持したいとお考えなのでしょうか。その目指すべき「国のあり方」がどのような「姿」であるのかを、まずは様々な言論の場で、ぜひお聞かせ願いたいと存じます。その上で、一般国民は賢明なる選択や判断をしてゆくことが肝心なのです。

   もはやかつてレーニンが指導したような「政治謀略教程」にある、要するに「革命」という目的のためには、ブルジョア社会に存在する一切の道徳的規範を無視して、逃(*げ)口上も、嘘も、あらゆる種類の詐術(*サギ)も、手練手管も、策略も用いよ、また真実をごまかすことも、隠蔽することも、悪魔とその祖母と妥協することも必要だ―というような共産主義の「カルト的教条思想」の洗脳状態からは、是非とも脱却して、「自由な思想」に立ち戻って戴きたいのです。


   その上で、現代日本社会のどのような問題を、如何にして一つ一つ解決すべく、政治と国を現実的に前に進めてゆくか、に注力して戴きたいと願っています。亡くなられた元総理をいつまでも批判したり貶めたりすることよりも、もっと緊急で重要なわが国としての国政課題があるのではありませんか。明日の日本を築くために、その情熱とエネルギーと労力をぜひ用いてください。

 

ご参考: