今回は題記書を取り上げたいと思います。同書は1995年刊中公新書「軍国日本の興亡 日清戦争から日中戦争へ」を本体に、「軍国日本に生きる 猪木正道回顧録」(1998年「外交フォーラム」)を付録として、2021年に中公文庫から再刊**されたものです。今から26年前、四半世紀も前に書かれたものですが、現在も本質的には何も変わっていない問題を適確に捉えた本なのです。

 例によって、本体の本文は直接この本をお読み戴くこととして、帯や表紙、まえがきや付録の一部をご紹介したいと思います。まず、裏表紙の説明としては、・・・明治維新後、日本は数十年にして近代民族国家として自立したが、近代化とは軍国化にほかならなかった。日清・日露戦争に勝利した日本は次第に軍国主義化の色彩を強め、軍部は独走、国際的孤立に陥った。施政者と世論を巻き込んで大東亜戦争あるいは太平洋戦争に至った経緯を詳説する。巻末に著者の回想「軍国日本に生きる」を併録する。・・・となっています。

 そして帯には、・・・暴走する陸軍と、看過した指導者たちの絶望的な失策の系譜 日露戦争に大勝した日本はなぜ、ほぼ全世界を敵とする“自衛戦争”を招いたのか。・・・と書かれており、また裏の帯には(本文より)として、

・・・軍国日本には、二・二六事件までは大日本帝国憲法に基づく憲法秩序が支配していた。もちろん張作霖の爆殺事件や満洲事変以来、この憲法秩序は揺らいだけれども、基本的には健在であった。しかし、二・二六事件はこの憲法秩序に致命的な痛打を与えた。・・・と書かれています。

 また、同書**の「著者紹介」には、次のように記載されています。

・・・1914*(大正3)年、京都市生まれ。東京大学経済学部卒、三菱信託株式会社、三菱経済研究所を経て戦後、成蹊大学教授、京都大学教授、防衛大学校長、青山学院大学教授を歴任。京都大学名誉教授、平和・安全保障研究所顧問などを務めた。主な著書に『ロシア革命史』『ドイツ共産党史』『政治変動論』『共産主義の系譜』『独裁の政治思想』『評伝 吉田茂』(全三巻)『私の二十世紀――猪木正道回顧録』『猪木正道著作集』(全五巻)などがある。・・・(尚、年号表記は以下も含め適宜アラビア数字に変換、*裕鴻註記)

 上記の同書**「付録」によれば、猪木正道先生は、1931(昭和6)年に第三高等学校文科乙類(*旧制三高、戦後京都大学教養部を経て現在は総合人間学部)に入学し三年間学んだあと、1934(昭和9)年に東京帝国大学経済学部に進学されました。京都帝大は前年の「滝川事件」(*言論弾圧の対象が共産主義思想から、自由主義的な言論にまで拡大されたといわれる事件)の関係で混乱していたため、東京帝大に進学されたようです。大学入学当時の様子を同「付録」から少し読んでみましょう。

・・・東京帝大経済学部は、低能教授と噂される先生が多いのにがっかりした。しかし救いもあった。1934(*昭和9)年4月中旬に行なわれた新入生歓迎の講演会で、河合栄治郎教授と矢内原忠雄教授との熱弁に接したことである。河合教授は大変な雄弁である上、内容も感動的だったので、私たちはたちまち河合党になってしまった。講演を聴く新入生の中に、涙を流している者がたくさんいたことは印象的だった。

 二、三日後、河合教授の「日本におけるマルクス主義の功罪」というテーマでの社会政策開講の辞を聴きに行った。

 講義の内容は、大きく分けて三つの部分からなっていた。第一は、社会科学の伝統を欠く日本で、マルクス主義は社会科学全般の代役を務めたという点である。第二は、マルクス主義が社会科学の全分野を独占的に制圧した結果、日本の社会科学の健全な発展は不可能に近くなったという点である。そして第三点は、多数の前途有為な若い学生が、マルクス主義という麻薬的教義のとりことなった結果、共産主義運動の実践に乗りだし、悲惨な境遇に転落したという事実である。

 私(*猪木先生)は三高生活の末期に、図書館から『新評論(ノイエ・ルントシャウ)』というドイツの雑誌を借り出して、ドイツ人のソ連紀行文を読んだ。ちょうど第二次五カ年計画に突入した頃のソ連の国民生活が活写されていた。“社会主義競争”というスローガンを採り入れ、(*スターリン支配下の)ソ連では極端な出来高払いの賃銀制が導入されていた。そういう具体的なソ連像は日本ではほとんど紹介されておらず、ソ連を地上の天国のようにあがめるマルクス主義者が多かった。

 ソ連の実像について予備知識を持っていた私には、河合教授の社会政策“開講の辞”は大変理解しやすかった。(*中略) こうして東京帝大経済学部の一年生の頃、私は自分の思想的立場にいくらか自信を持てた。二年生になって演習に入ることが許されるようになれば、躊躇することなく河合教授の演習に参加しようと私は決意を固めた。・・・(**同書318~319頁)

 その後、この念願通り河合栄治郎教授に師事することになった猪木先生は、二年生の終わりに二・二六事件に遭遇します。その時の恩師河合先生の様子を、同じく同書の「付録」から見てみましょう。

・・・1936(*昭和11)年2月26日、陸軍第一師団の歩兵第一連隊と第三連隊の兵1470余名を率いて、皇道派青年将校は、岡田啓介首相(*海軍OB)、高橋是清蔵相(*日銀OB)、斎藤実内大臣(*海軍OB)、渡辺錠太郎教育総監(*陸軍現役)、鈴木貫太郎侍従長(*海軍OB)らを襲撃した。幸い岡田首相と鈴木侍従長は奇跡的に助かったが、このクーデターは、軍国日本の暴走を決定的にした。

 たしかに犯人の皇道派青年将校たちは銃殺され、陸軍の要職から皇道派は一掃されたが、皇道派と対立していた統制派が、このクーデターがもたらした恐怖心を利用して、悪行を働いた。すなわち中国(*蔣介石国民政府)への軍事的圧力を強化し、ヒトラー・ドイツとの防共協定を結ぶなど1945(昭和20)年のポツダム宣言受諾まで続いた自爆戦争への道は、この段階でほぼ決定されたと言っても過言ではない。

 二・二六事件が起こった時、私(*猪木先生)はほとんど絶望的になっていた。ところが帝都(*東京)の心臓部を占拠していた反乱軍が降伏した直後に発行された『帝国大学新聞』に、河合栄治郎教授は二・二六事件を真っ向から批判する一文を発表された。

 その頃まで、東京帝大では一部の河合党を除いて、多くの学生は河合教授を反動教授、ご用学者と悪罵していた。マルクス主義者でなくても、マルクス主義に好意的な発言をする教授は、進歩的と評価された。

 事件直後の3月9日付の『帝国大学新聞』を、私は今日まで62年間大切に保管してきた。河合教授の「二・二六事件の批判」の全文をここに引用したいのだが、あまりに大きい紙幅を要するので、ごく一部の、もっとも重要と思われる部分を引用するにとどめたい(当時(*内務省特高警察による)検閲が厳しかったから伏せ字が多い。手を加えないでそのままにした。仮名遣いだけは改めた)。(*尚、伏せ字部分は原著では「……力(註 軍事力)」となっていますが、本稿では「軍事力」という表記とします。以下、河合栄治郎教授の批判文:)

   「ファッシストの何よりも非なるは、一部少数のものが軍事力を行使して、国民多数の意志を蹂躙するに在る。国家に対する忠愛の熱情と国政に対する識見とに於て、生死を賭して所信を敢行する勇気とに於て、彼等(*蹶起将校)のみが決して独占的の所有者ではない。……中略……

 彼等の吾々と異なる所は、唯彼等が軍事力を所有し、吾々が之を所有せざることのみに在る。だが偶然にも軍事力を所有することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠となるか。吾々に代って社会の安全を保持する為に、一部少数のものは、武器を持つことを許され、その故に吾々は法規によって武器を所持することを禁止されている。然るに吾々が晏如として眠れる間に、武器を持つことそのことの故のみで、吾々多数の意志は無の如くに踏付けられるならば、先ず公平なる軍事力を出発点として、吾々の勝敗を決せしめるに如くはない。……中略……

 此の時に当り、往々にして知識階級の囁くを聞く。此の軍事力の前に、いかに吾々の無力なることよと。だがこの無力感の中には、暗に暴力賛美の危険なる心理が潜んでいる。そしてこれこそファッシズムを醸成する温床である。暴力は一時世を支配しようとも、暴力自体の自壊作用によりて瓦解する。眞理は一度地に塗れようとも、神の永遠の時は眞理のものである。この信念こそ吾々が確守すべき武器であり、之あるによって始めて吾々は暴力の前に屹然として亭立しうるのである。」

 この河合教授の文字どおり生命がけの一文を読んだ時の興奮と感激とは、その後60余年間、私を支えてきたと言っても過言ではない。この日本型ファシズムに対する教授の宣戦布告は、右傾化した日本陸軍の首脳や中堅のもっとも痛いところ衝いたからこそ、三年後に先生は東京帝大を追われ、出版法違反事件の被告となり、悪戦苦闘の末、五年後に心臓発作で亡くなる。

 二・二六事件に対する河合教授の体当たり的な批判以来、私は先生に対する敬愛の念をますます深くした。当時日本の知識人の中に、誰一人としてあの(*二・二六)事件を正面から弾劾した人はいなかった。当時の東京帝大経済学部教授会は、河合教授を中心とする自由主義派と、土方成美教授が率いる右派と、大内兵衛教授を取り巻く左派とに三分されていた。そして残念なことには、学生たちまで、所属する演習の指導教授の派閥に属していると見られる傾向があった。私など河合派とみなされ、とくに左派の学生たちから敵視されているように感じた。彼らがあの『帝国大学新聞』の一文を読んで、「河合さんを見直した」と言うのを聞いて、私は喜ぶと同時に彼らの不明を嘆いた。・・・(**同書325~328頁)

 この二・二六事件については、本ブログの別シリーズ「大東亜戦争と日本」の第(14)~(18)回及び(64)~(70)回を、ぜひご参照ください。

 河合栄治郎先生は、戦前日本においての英国流民主主義の自由主義者にして良識ある理想主義者でした。今日では「オールド・リベラリスト」と呼ばれていますが、昨今の「新自由主義(ネオ・リベラリスト)」などとは全く異なる、「自由と自律」を堅持する教養深き紳士でした。まさに「正統派のリベラリスト」です。この意味からも、共産党と選挙協力するような立憲民主党を「リベラル」とは呼んでほしくないのです。それには以下のような理由があります。

   以前本ブログでも何度かご紹介しましたが、政治の世界には次のような諺があります。

「右の端を歩く者は左側からしか殴られない。左の端を歩く者も右側からしか殴られない。 しかし真ん中を歩く者は両側から殴られる。」

   二・二六事件以降の戦前日本は、陸軍の政治介入が激化し、まさにナチスばりの国家社会主義的統制を強化してゆきました。その中ではこの諺のように、左端の左翼マルクス主義者のみならず、今日の日本における自由民主党的な立場の自由民主主義者さえも、それよりさらに右端にいた陸軍当局が主導する政府からは弾圧される対象となったのです。つまり右端から見れば、真ん中も左端も全てが左側にいるからです。このことをよく理解しておかねばなりません。戦後日本の保守的政治家であった吉田茂首相でさえ、戦時中に陸軍憲兵隊に拘引されたのです。極左から見れば、全ては右翼と映り、極右から見れば、全ては左翼と映るのです。もちろんど真ん中ではなくとも、やや右寄りでも、やや左寄りでも、両極端からすると全ては自分たちと反対側の人々に見えるのです。しかし、世の中の実態は、ほとんどの場合は、極端に左端や右端に正しい位置があることは稀です。河合先生がもし戦後日本に生きておられたら、現在の自由民主党の立ち位置の範囲内となり、むしろ左翼や共産主義者からは保守派とか右派と呼ばれていたことでしょう。こうしたことも踏まえて、各自が自分の思想的立場や位置を自覚しつつ、自ら定めなければならないのです。

 さて、この河合栄治郎先生を生涯の師とされた猪木正道先生は、この本**の「まえがき」で次のように書いておられます。

・・・戦前・戦中の軍国主義は、戦後の空想的平和主義とみごとな対照をなしている。敗戦で軍国主義から解放されたわれわれ日本国民は、戦後空想的平和主義にとりつかれた。(*中略) 空前の敗戦により打ちのめされた日本国民にとって、ある程度の軍事アレルギーは避け難い。広く深く根を張った空想的平和主義が一体何に起因するのかを考察して、私は戦前・戦中の軍国主義を裏返しにしたものだと気付いた。戦前・戦中の軍国主義と戦後の空想的平和主義とは、まるで双生児のようによく似ている。考え方が独善的であり、国際的視野を欠いて一国主義的であること等そっくりである。

 空想的平和主義を克服するためには、戦前・戦中の軍国主義をふりかえることが必要だと、私は痛感し、日清戦争からはじめて、日中戦争にいたる歴史を書くことにした。1960年代に私が京都大学法学部で日本政治・外交史を講義したときのノートをもとにしている。四組の子供たち夫婦と、十人の孫たちを含むわが同胞への遺言のつもりである。(*中略)

   大日本帝国が国際的に主権と独立を守り、国内的に近代化するという明確な政治的目的を自覚していた間は、軍国主義は日本の国際的地位を高め、上からの近代化を推進するのに役立った。当時の日本は軍国日本ではあったが、まだ軍国主義に徹していたわけではない。

 しかし、日露戦争に大勝した後、中国への圧迫と侵略が目立ちはじめると、日本は米国から敵視され、旧同盟国の英国をも敵に廻すようになり、1930年代には完全に孤立してしまった。軍事力の偏重は、日本の国際的地位を高めないで、逆に絶望的なものにした。

 第一次大戦では、英国、フランス、米国等は連合国の民主主義対ドイツ軍国主義のたたかいであるとして、思想戦の分野で圧倒的に優位に立った。第二次大戦でも、連合国側は、ドイツと日本の軍国主義に対する民主主義の聖戦を戦っているものとした。大日本帝国を軍国主義とすることには問題はないが、ヒトラーの第三帝国は単なる軍国主義ではなく、超軍国主義ともいうべき全体主義であった。伝統的な軍人貴族の多くがヒトラーに対する抵抗運動の中心となったことはとくに注目される。

 軍国日本が次第に軍国主義色を深め、中国ばかりでなく米英両国をはじめ、ほとんど全世界を敵とする自爆戦争に突入し、1945年8月にポツダム宣言を受諾するという形で降伏した後、敗戦国日本では、軍国主義に対する反動の時代がはじまった。軍国主義が軍事的価値、軍事力および軍人を不当に過大評価するものであったのに反して、戦後の反軍国主義は、軍事的価値を不当に過小評価した。アメリカ合衆国の占領軍が、日本の非軍事化を推進したのに即応して、敗戦後の日本では、軍事的価値一般、軍事力および軍人を軽侮する傾向が強まった。

 憲法第九条の戦争放棄に関する規定も、侵略戦争ばかりか、自衛の戦争も認めないかのように粗雑に解釈され、歴史上も前例がない空想的平和主義が喧伝された。これは軍国主義を裏返しにしたものといってよく、自国をみずから防衛することによって国際社会の平和と安全に対する責任を果たす、という重要な視野がまったく欠落していた。

 軍国主義を裏返しにした空想的平和主義は、日本が敗戦国として通用していた間はあまり大きな害毒をもたらさなかった。しかし日本が経済大国に成長して、国際社会の重要な構成員となってからは、日本の空想的平和主義は、日本が国力・国情にふさわしい国際的責任を果たすことを困難にしている。1945年の降伏まで、みずから軍国主義の害毒になやみ、まわりの国々にも大損害を与えてきたからといって、今度は軍国主義を裏返しにして、軍事的価値を不当に過小評価し、たとえば国連のPKF(*国連平和維持軍)等国際的軍事責任から免れようとする考え方は、世界に通用しない。

 国際社会の尊敬される構成員として認められるためには、軍国主義もその裏返しとしての空想的平和主義も、ともに有害無益である。軍事的価値、軍事力および軍人の不当な過大評価も、過小評価も避け、国際的常識にそった対応をすることが望ましい。

 軍事的価値と軍事力とを不当に過小評価する戦後日本の悪い傾向は、何よりもまず、自衛隊を無視したり、軽視したりする群集心理の形をとる。1950年代のはじめ、私は北海道で、研究会のために集った大学教授たちの一人が、訓練中の自衛隊員に向かって、“税金泥棒”と叫んだのにびっくりした。自衛隊員はよくその種の侮辱に堪え、黙々と任務を遂行している。

 1970年に私は防衛大学校長に就任し、自衛隊員の自信に深い敬意を感じた。しかし、過去の軍国主義に対する反感から、現在の自衛隊員をさげすむことは、長期間の間には自衛隊員の心の中にある種の毒素を蓄積するのではなかろうか? さいわい、自衛隊員に対する国民の処遇は年とともに改善されており、最近日本社会党(*当時)までが自衛隊の合憲性を認めはじめた。自衛隊員の心の中の毒素が一挙に噴出するという危険は、一応去ったといえよう。

 いずれにしても軍事的価値を不当に過大評価する軍国主義に劣らず、軍事的価値を不当に過小評価する空想的平和主義も愚劣であり、かつ大きな危険を伴う。自衛隊の合憲性をはっきりと確立するとともに、自衛隊が国家の安全にとって不可欠の存在であることを国民の間に徹底することが必要である。

 軍事的価値が過大評価も、過小評価もされなくなるまで、いいかえれば、軍事的価値が妥当に適切に評価されるまで、日本は戦前・戦中の軍国主義を克服したとはいえない。

 軍国主義が愛国心を不当にゆがめ、中国人や韓国(朝鮮)人やアメリカ人の愛国心を否定して、日本人だけが愛国心を持っているかのごとく錯覚したことは、大きな禍根を残した。その反動として、戦後は日本人の愛国心そのものが軍国主義的なものと誤認され、愛国心が否定されてしまうという恐ろしい状況まで現出した。

 みずからの愛国心を否定する国民は、国際社会で尊敬されない。日本が国際社会の名誉ある構成員であるためには、軍国主義によってゆがめられ、汚辱された愛国心を軍国主義との癒着から救い出し、外国人の愛国心とも両立する本当の愛国心に純化しなければならない。この作業を完了するまでは、愛国心は軍国主義とのくされ縁から解放されないだろう。空想的平和主義についても、これを軍国主義の裏返しとして、完全に克服するのでなければ、日本人の愛国心は堂々たるものになれない。

 軍国主義と空想的平和主義とは、互いに相手の裏返しだというのが、本書の原点であり、結論でもある。(*後略)・・・(**同書3~9頁より抜粋)

 猪木正道先生は、このまえがきを1995年1月に書かれる前に、慢性硬膜下血腫のため二回の手術を受けられ、それを乗り越えて傘寿で本書を書き上げられました。ご逝去されたのは2012年ですが、ここにある通り、自身のご家族を含む「日本人への遺言」のお気持ちで書かれたものと思います。日本はその後、平和安全法制の制定など一定の変化はありましたが、現時点では未だに憲法改正はなされていません。若い世代の特に学生の皆さんにご理解願いたいのは、憲法を改正し自衛隊を合憲と明示することを望んでいるのは、決して右翼の人々のみではなく、それよりも左寄りに位置する中道の立ち位置にいる普通の人々もこれを望んでいるという事実です。日本がこれから侵略戦争をしようとすることは決してありませんが、実際に日常的に行われている尖閣諸島への外国公船の不法侵入や、最悪は核兵器をも搭載可能なミサイルの発射訓練を行い、日本国民へと照準を合わせてミサイル発射態勢を維持している周辺諸外国が、現実に存在していることをもっとリアルに受け止めなければならないと思います。猪木先生と表現は異なりますが、戦前の観念右翼も戦後の観念左翼も、ともに現実(リアリズム)から遊離しているという意味では共通しているとわたくしは思います。

   まずは冷静に日本を取り巻いている軍事情勢の現実を直視し、必要な防衛・防御の態勢を整えることが必要です。それには自衛隊の戦力は不可欠なのです。まさに熱い理想を胸に治めた冷徹なリアリストの視点こそ、これからの日本を支え、リードしてゆく若い世代の皆さんにも必要であることを、わたくし自身老いつつある国民のひとりとして、どうかわかって戴きたいと衷心より願っております。