本ブログでも以前取り上げた「共産主義黒書〈ソ連篇〉」(ステファヌ・クルトワ+ニコラ・ヴェルト著、筑摩書房2016年刊)と、その姉妹編の「共産主義黒書〈アジア篇〉」(ステファヌ・クルトワ+ジャン=ルイ・マルゴラン著、筑摩書房2017年刊)という二冊の本があります。

   最初の本は、フランスの国立科学研究センター(CNRS)主任研究員のクルトワ先生と現代史研究所のヴェルト先生という、ロシア・ソ連史、共産主義の歴史の専門家によって書かれたもので、1917年のロシア革命以来、大量殺人・テロ・強制収容所という恐怖の統治形態を敷いたスターリンによる共産党政治の実態を解明したものです。

   二冊目は、中国、北朝鮮、カンボジア、ラオス、ベトナムなどでの、アジア共産主義による人民の弾圧を取り上げたもので、マルゴラン先生は仏プロヴァンス大学東南アジア研究所の20世紀アジア史専門家です。もとよりフランスというヨーロッパ人から眺めたアジア史であり、かつ対象国が多いことから、その限界はあるかもしれませんが、それでも同書が指摘する次の言葉、「中国では、有罪だから逮捕されるのではなく、逮捕されたから有罪なのである」が象徴的です。

 そして、やはり本ブログでご紹介した元朝日新聞記者の、長谷川煕著「崩壊 朝日新聞**」(WAC社2018年改訂新版)にも、この二冊の本が取り上げられています。この本を書かれた長谷川煕(はせがわ・ひろし)さんは、同書**の紹介によれば次のようなご経歴の方です。(*裕鴻註記、以下漢数字等表記修正)

・・・1933(*昭和8)年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科哲学専攻卒。1961(*昭和36)年に朝日新聞社入社。88(*昭和63)年初めまで経済部など新聞の部門で取材、執筆し、次いで、創刊の週刊誌『AERA』に異動。93(*平成5)年に定年退社したが、その後もフリーの社外筆者などとして『AERA』を舞台に取材、執筆を2014(*平成26)年8月末まで続ける。1990(平成2)年前後に、歴史的な転換をしつつあった東西ドイツなど中東欧諸国、旧ソ連内の各地、また北朝鮮に接する中国の延辺朝鮮族自治州などを取材した。(*後略)・・・

 

   今回はまず同上書**より、上記二冊に関する部分を読んでみます。

・・・私(*長谷川煕氏)は、朝日新聞社のソ連、中華人民共和国に関する報道で一番欠けているのは、この両国で発生した途方もない人民大虐殺、テロの報道、究明であると考えている。従って、それに比すればある時期の戦争に伴う日本の「加害」を声高に批判しながらも、中ソのことに関しては声が消えるこの新聞社は、両国のこの大犯罪の、少なくとも道義的には共犯者とみなされるべきではないのか。ソ連については戦前から、中華人民共和国に関しても、戦後にこの共和国が成立してそう経たないうちに、その実態は海外では報道されていた。日本でもメディアによっては両国の実相を全く伝えなかったわけではない。(*但し、他の新聞社やテレビ局なども基本的には同様の傾向だった。)

 マルクス主義を国是とする共産主義諸国家における人民大虐殺については、2001年(平成13年)に『共産主義黒書〈ソ連篇〉』(外川継男訳、恵雅堂出版)、2006年(平成18年)に『共産主義黒書〈コミンテルン・アジア篇〉』(高橋武智訳、恵雅堂出版)という一般向けの、しかし緻密な書籍の翻訳が日本でも出ている(この訳書は2016、17年にちくま学芸文庫でも刊行された)。

 それまでも啓蒙、研究を問わず類書は海外で多数見られたが、この『共産主義黒書』二冊は、共産主義史のステファヌ・クルトワなどフランスの関係研究者六人が執筆し、パリで出版された“Le livre noir du communisme ; Crimes, terreur, re’pression” の内容の多くを翻訳したもので、ソ連ならソ連という一カ国に対象が限られていない。世界の共産主義国家の人類史上空前の体制犯罪をとりわけソ連、中華人民共和国、世界共産主義化の超国家機関だったコミンテルンに焦点を当てつつ分析し、その凄まじいテロ、民衆殺戮を、階級闘争という擬似理論に駆られるマルクス主義の体制の必然的な現象として捉え、主義と犯罪の因果関係を入念に分析している。

 原書は序文で、共産主義国家でのさまざまな手段でのこの人民虐殺の概数を、ソ連二千万、中華人民共和国六千五百万、ベトナム百万、北朝鮮二百万、カンボジア二百万、東欧百万、中南米十五万、アフリカ百七十万、アフガニスタン百五十万、国際共産主義運動と、政権についていない共産党によるもの約一万と挙げ、殺害された合計は一億人に近いとみる。そして、「正確さを期するためにはさらに長いことかかるだろうが、それでもこれによって大体の数をつかむことができ、問題の重大さを理解することができるだろう」と、述べる。

 1990年前後に私は二度にわたり、いずれも比較的長期間、最末期のソ連を取材し、スターリン時代の大虐殺の現地にも足を運んだことはすでに書いた(*本稿では後記)。スターリン期を中心にソ連で発生した民衆虐殺数は、強制飢餓によるウクライナなどでの大量餓死も含めて、当時のソ連の人口約一億七千万の少なくとも二割、つまり三千数百万との見方を、その時モスクワで会った歴史学者ロイ・メドベージェフから聞かされているので、二千万という『黒書』が示すソ連民衆の被害規模は、とりあえずの数字としても控え目のように思える。

 だが、一方の中国の殺戮数六千五百万には息を呑む。1949年に中華人民共和国ができて以後を中心に、とりわけ1966~77年のプロレタリア文化大革命での、普通の場所での血腥い殺人の横行をも、それぞれの証拠を元に具体的に記録する。学校の教師が生徒になぶり殺される場面とか、殺害した人間の人肉を食堂に出すとかも出てくる。・・・(**同上書220~222頁)

 中華人民共和国の「人民大虐殺の実態」については、本ブログ「日本人の必読書が剥がす『ナチャイナの幻想』のベールと虐殺の歴史(追記版)」で取り上げた通り、その中国人民の被害者総数は単純集計しただけでも、漢民族だけで4349万人~8349万人、異民族では126万人+ウイグル族犠牲者、これらを総計すると4475万人~8475万人+ウイグル族ほかの犠牲者となります。つまり少なく見積もっても約四千五百万人、多く見積もれば約八千五百万人もの人民が、今までに「ナチャイナによる虐殺」の犠牲になっているのです。


 興味深いのは、上記『黒書』の中華人民共和国の人民虐殺数が「六千五百万人」であり、上記の「少なく見積もっても約四千五百万人、多く見積もれば約八千五百万人」のちょうど中間値になっていることです。

 ここで、『黒書』のソ連の人民虐殺数を「二千万人」から歴史学者ロイ・メドベージェフ氏による推計「三千数百万人」に入れ替えるか、または、中華人民共和国の人民虐殺数を「六千五百万人」から最大値の「八千五百万」に入れ替えるかの、どちらか一方を行っただけで、共産主義国家他での人民虐殺総数は、軽く一億人を超えることになります。

   ソ連 二千万人、または三千数百万人

   中華人民共和国 六千五百万人、

                  または八千五百万人

   ベトナム 百万人、

   北朝鮮 二百万人、

   カンボジア   二百万人、

   東欧共産圏諸国 百万人、

   中南米共産圏諸国 十五万人、

   アフリカ共産圏諸国 百七十万人、

   アフガニスタン 百五十万人、

   国際共産主義と政権外共産党 約一万人

   これらの合計は、九千四百三十六万人から一億二千七百万人(中間値:一億一千六十八万人)となります。つまり、日本の全人口に近い膨大な人数の人民が、これまでに共産主義圏勢力によって虐殺されたことを示しているのです。

 第二次世界大戦の犠牲者総数でも、五千万人から最大で八千五百万人とされています。(連合国・枢軸国・中立国の軍人・民間人の犠牲者総数)つまり史上最悪とされた第二次世界大戦の犠牲者総数を上回る一億人前後の人民が、共産主義圏勢力によって虐殺されたことになるのです。

   これは人類として、何をどう主張しようとも、決して無視し得ないジェノサイドそのものです。ナチスドイツによるユダヤ人虐殺数さえ、六百万人といわれているのです。その約20倍もの人民が、主に自国の共産主義政権によって虐殺されてきたのです。

 そもそも共産主義の核心は「妬みと憎しみの心」にあるのです。「階級闘争」によって「プロレタリア階級の敵」である資本家やブルジョワ階級、王政・天皇制を打倒し、皆殺しにするか強制収容所に送って監禁・虐待・虐殺するということを「よし」とする思想なのです。であるからこそ、軍事力も財力もお持ちでないダライ・ラマをあれほど嫌い、「宗教は阿片(麻薬)だ!」として弾圧するのです。それは仏教の「慈悲の心」やカトリックの「アガペーの愛」の心に対する敵愾心と恐怖心があるからです。つまり「憎しみを超える愛と慈悲の心」こそ、共産主義の「憎悪を煽る思想」にとってはもっとも厄介で恐るべき対手であるからなのです。

   なぜならフランス革命で掲げられた「自由・平等・博愛」のうち、「博愛」の本来の「愛」という概念の本質は、おそらくカトリックでいうところの「アガペー」の愛というものが最もよく表現していると思われます。

  有名なコリント人への手紙(1-13)によれば…

  愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。愛は、礼儀を失わず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。愛は、不正を喜ばず、真実を喜ぶ。

愛は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びることはない ……という内容なのです。

   この愛の心は、「憎しみや憎悪を超える愛」であり、「憎しみを煽る」共産主義にとっては、まことに「不都合な愛」なのです。

   むしろ「共産主義思想こそ阿片」であり、麻薬的・洗脳的カルト思想の本質を持っているのです。そしてこの「憎しみを源動力とする」共産主義政権の実態は、一握りの「共産党最高幹部」による排他的独裁主義であり、自分たちは「プロレタリアの前衛(指導者)だ」という強烈なエリート意識によって、無辜の一般人民・民衆を「粛清・虐殺」の恐怖で支配するのです。

 長谷川煕氏は前掲書**の中で、ご自身が体験されたその現場の痕跡の模様を次のように記述しています。

・・・(*前略) 1988年11月から89年1月にかけても私はソ連にいた。『アエラ』に書くためだった。1940年(昭和15年)にソ連に侵略され、なおソ連内の共和国だったバルト三国のいずれにも足を運び、ソ連に対する憎悪の激しさを知らされたが、何より驚愕したのは、独立後はベラルーシと呼ばれ、それまでは日本では白ロシアと言われていた、ソ連欧州部の共和国での体験だった。この時の一事が、すでに五十歳台に入っていた私のそれまでの、恐らく全人生以上に自分の思考を鍛えてくれた。

 この白ロシアを訪ねたころ私はモスクワで、たまたま白ロシア出身の有名な作家アレーシ・アダモヴィッチに取材した。彼は、「もし、ソ連にスターリン主義体制への逆戻りが起きたら、経済、道徳、精神、いや、それこそ何でも破壊され、社会は墓場のような状態になってしまうだろう」と、述べた。彼の言葉はむろん、その体制下の社会の様子を述べたのだったが、彼の出身地の白ロシアは、場所によっては文字通りの墓場となっていた。

 私は、ソ連共産党書記長スターリンの時代の中の、ほぼ1937年から40年にかけてのある時期に白ロシアの首都ミンスクで行なわれた人民大虐殺の現場を、厳しい寒気の中で然るべき地元の人に案内されつつ現認したのだ。

 それはミンスク郊外の広大な松林だった。市民のある人数の中には確率的にある割合の非マルクス主義、反スターリン分子が交ざっているはずとの前提で、日本流に言えば、大都市の例えばある区のある町の一丁目から五丁目までの普通の暮らしの全住民が、幼児も含めた老若男女、職業、その他の別なく、ある夜半に有無を言わさず突然駆り出され、この松林に連行され、射殺されたその凶行の跡地だったのだ。「人民の敵」をこれだけ本日処刑したと、上級の(*共産)党当局に報告し、共産主義社会を定着させる階級闘争なるものの「成績*」を誇示しようとしたようだ。

 この場合の大虐殺の規模の正確なところはその取材の時点ではなお不明だったが、すでに一部分は発掘作業が行なわれ、遺骸や残留品などのいわば法医学的、考古学的調査や、虐殺当時から遺る公文書類から虐殺の実相がかなり詳しく判明していた。最末期ではあるが、私が取材した時はまだソ連時代で、とくに白ロシアは共産党の強権色がなお濃厚だったので、そうした発掘作業はなされていても、その現場にまたわざわざどこかの外国人記者、つまり私を連れて来る行為は危険かも、と案内人は思っていたのかも知れない。「早く立ち去りましょう」と、随分急かされた。

 松林には、遺骸を埋め込んだ大きな穴の窪みが見渡す限り点在していて、私がある窪みを踏んだら、「そこはまだ遺骸が埋まっているかも」と言われ、飛び退いた。ミンスクのこの松林も、とくにスターリン期のソ連全土で凄惨を極めた、「人民の敵」を抹殺する「粛清」と称する虐殺のごく一例でしかない。脚下には、虐殺された老若男女の遺骸があちこちにそのまま集団で埋まっている。白骨ではあるが、虐殺された時の着衣は、襤褸(*ボロ)化していても多少は付いていたようだ。まさか殺されるとまでは思わず洗顔用具くらいは携えて行こうとしたのだろうか、それらしき物がそばに残っている遺骸があったことも地元では知られている。

 ここでスターリン期の暴虐を取り上げたのは、慰安婦報道に関する朝日新聞の失態の構造的原因を究明するに当たって、この白ロシアの松林での体験が、しっかりと自分の思考を支えてくれるように感じられるからだ。ある観念を振りかざして社会を裁断する視野狭窄に陥ってはならないということである。(*中略) ミンスクの松林での、足下の遺骸を通してマルクス主義社会の狂気、非道は直に体験した。そのときの私は、コートをまとっていても震えた。現場からの離脱を催促する案内人の顔は、何かを予感してか、ひきつっていた。私も不安が高まり、案内人に従った。宿に戻っても、誰かに尾行されてはいなかったか、と落ち着かなかった。以来、この体験を私は反芻し続けている。

 ソ連に限らない。中華人民共和国でも非道、惨事は起きていた。プロレタリア文化大革命の時に限らない。しかし、私が調べ得た限り、そうしたマルクス主義国家の残虐の現場そのものは、東京本社の記者大岩ゆりが、ごくささやかにではあるが、旧ソ連について1999年1月5日付の夕刊で報じるまでは、朝日新聞の紙面では見ていない。・・・(**前掲書154~157頁より抜粋)

・・・ウクライナは、1930年代前半に推計で数百万から一千数百万の人口がスターリンの強制餓死政策によって絶滅されるというジェノサイド(民族の集団抹殺)を体験した。私は、1990年前後の最末期のソ連取材の際に、独立へと動くウクライナの首都キエフにも行った。そこでソ連ないしロシア、あるいはスターリン、共産主義への激しい憎悪を人々から聞かされた。ウクライナが共産主義体制を許さない大きな原因の一つは、この強制餓死政策である。

 スターリン独裁のソ連が、ウクライナの農民から食糧を没収し、それを輸出などに回して外貨を得たりすると同時に、世界有数の肥沃な穀倉地帯で自立して成長した水準の高い農民層を階級敵として餓死させ、文字通りその層を絶滅しようとしたのである。それはほぼ成功したが、この真相の記憶はウクライナ民族に残った。この恐怖のジェノサイドは欧米諸国やウクライナの歴史学者たちによって研究され続けている。ロバート・コンクェストの『悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉――スターリンの農業集団化と飢饉テロ』(恵雅堂出版)、ノーマン・M・ネイマークの『スターリンのジェノサイド』(みすず書房)などを参照されるといい。

 ピューリッツァー賞をもらった米ニューヨーク・タイムズ記者デュランティーが、ウクライナにおけるこの一大飢餓の発生を否定する記事を書いたのは、外国の記者などを騙すために設定された地帯をスターリンのソ連当局から見せられ、それを鵜呑みにしたのだとも、私はウクライナで聞かされた。だが、デュランティーはスターリン政権と共謀したのではなかったのか、との疑いも私は捨て切れない。

 いつの日か、朝日新聞社そのものが、文化大革命期などの報道に関して中国民衆から、米ニューヨーク・タイムズ記者デュランティーに向けるウクライナからのと同じ声、視線を浴びることはないのだろうか。文化大革命の名のもと中国全土で民衆虐殺が進行している時、朝日新聞社首脳は、虐殺側の中国首脳と、繰り返し単独会見を行っているからだ。民衆虐殺の毛沢東政権にとって朝日新聞社は、スターリンにとっての米記者デュランティーと同じく、まことに都合の良い宣伝媒体だったのであろう。・・・(**同上書238~240頁より抜粋) 

   ご参考:


 尚、本ブログの「『幻の禁書』宗永毅編著『毛沢東の文革大虐殺』を読む」(1)(2)(3)で、中華人民共和国での虐殺の実態を取り上げていますので、こちらもぜひお読み下さい。





 わが国の、左翼的心情の皆さんは、こうした「一億人にのぼる人民虐殺の成績*」を有している、人間としてまことに非道な「マルクス主義」「共産主義」のカルト的な洗脳からは、どうか今こそ目覚めて下さい。こうした「共産主義政権」に移行することを、この21世紀の日本の選択肢の一つとして考えることは、決してあってはならないのです。

 それよりも、自由民主主義体制のもとで、貧窮や窮乏に苦しむ一般庶民を、具体的にどのような合法的手段で救済するかに、その思考と行動を振り向けて下さい。そして、ことこの点については、右翼的心情の皆さんも同じです。よくその市場原理を知ることもせずに、安易に「新自由主義」を「保守主義」と同列に考え、「負け組」の敗者である貧困者など助ける必要はないというような「一部選民的」な考え方は、本来陛下のもと「一君万民」を唱えてきた日本右翼として、伝統的かつ思想的に「あってはならない考え方」なのです。

   あくまでも窮乏化する庶民を救済することが、左右両翼ともに日本人としての急務です。もとより現代において、暴力革命・クーデターや暗殺テロなどは決して許されませんが、そういう非合法手段ではなく、合法的にどのようにすれば一般庶民を貧窮から救えるかを、もっと真剣に考えるべきです。国力の根基たる国民が疲弊窮乏すれば、国の独立維持さえもままならなくなるのです。こうした文脈(context)においては、もはや左翼でも右翼でもないのです。同じ日本人として、まずは自国の貧窮している庶民を救うことを最優先すべき時がきているように、わたくしには思えてならないのです。