前回に引き続き、宋永毅編・松田州二訳「毛沢東の文革大虐殺** 封印された現代中国の闇を検証」原書房2006年刊 (*原著「文革大屠殺」は香港の「開放雑誌社」2002年刊)を取り上げたいと存じます。

 前回みた同上書**の「序文〔1〕」は、胡績偉(フー・チーウェイ)氏:「前《人民日報》編集長、社長。当時北京在住」が書かれたものでしたが、もう一つの「序文〔2〕」を寄せた徐友漁(シェイ・ユーユイ)氏は、「中国社会科学院研究員。文革研究者。《さまざまな造反》、《文化大革命中の異端思潮》、《文化大革命中の社会組織》など多数の著書や論文を発表。2002年から、スウェーデン・ストックホルム大学客員教授。」という方です。大切なことは、このお二方とも、中華人民共和国における重要な組織(「人民日報」と「中国社会科学院」)に所属している人物であるという事実です。つまり平たく言えば、中国の「外野席」からの発言ではないということが肝心なのです。

 今回はまず、この序文〔2〕:「歴史的真実の復原と再現」から、徐先生にお許しを乞うて、その内容をぜひ皆さんにご紹介致したいと思います。この徐友漁先生の叙述は、良識に基づいた誠実かつ重要な内容であり、真に傾聴に価するものです。 (*裕鴻註記、尚西暦年等は適宜アラビア数字に修正。)

 

・・・1949から1989年までの中国大陸の歴史の中で最も不思議な出来事は、大規模な粛清・鎮圧・殺人・処刑が絶え間なく起こっているにもかかわらず、ほんとうに発生したそういう事件が民族の集団的記憶の中にほとんど痕跡を残さず、また当事者も目撃者も沈黙して語らず、そして史書にも一言も触れられていないことである。唯一それを記録に留めているのは、歪曲と改竄によって見る影もなくなってしまった政府当局(*中国共産党)の宣伝する歴史の中だけである。

 中国の文化大革命(*文革)が大きな災禍であったことは中国人の大多数が認めている。だが文革で多くの大虐殺が発生したことは多くの人が知らないことであり、また文革が大きな災禍だったとは認めている政府当局の空疎な歴史学が目を背けたいと思っていることでもある。

 宋永毅君が編纂した《文革大虐殺》という一書は、中国現代史の中でも最も残虐凄惨で最後まで読むに忍びないような一頁を、またそれと同時に隠蔽されたものでもある一頁を、読者の前に繰り広げて見せている。宗君のこの本は、中国の歴史学にも歴史そのものにも寄与するものであり、中国大陸の中国人にとっては、民族の罪業と良知というものを詳細に見直してみる契機となるものである。

 決して他民族が侵入したわけでもないという状況でありながら、一つの国で十年間(*1966年から1976年まで)に多くの大虐殺が発生したことは民族の恥辱である。しかも(*中華人民共和国の)国民はそれに対して無感動無感覚であり、はなはだしきは見て見ぬふりをしている。これはその恥辱に面と向き合う勇気を持たず、覆い隠したり曲解して弁護に腐心することは、とりもなおさず恥の上塗りである。中国人の魂は、善と悪の絶対性と対立の中で沈思反省することにどうも不向きであるらしい。我々はむしろ現在の日常生活の一時的な安逸に逃げ込みたい、過去の苦難は正視したくないと思い、事実をはっきりさせ、是非を明らかにし、責任を追求することが必要になると、いつも我々は「過去を振り返るのは忍びない」と言って互いに言い逃れをしてごまかすのである。しかしそうは言っても、歴史を闇に葬るという罪責の所在を中国人の国民的性格に求めるべきではない。なぜなら、人々が忘れ去るのは心の重荷に耐えかねてのことであるばかりか、圧力や脅しを受けて怖気をふるうということでもあるからである。中国では、真実を口にするのはこの上なく困難でこの上なく危険なことなのである。

 「政府当局だって文革を全面的に否定したではないか」と言う人がいるかも知れない。そのとおり。政府当局はそのような態度を示したことがある。しかしそれは、「毛沢東同志の後期左傾錯誤路線を否定する」と同時に「革命の集団的知恵としての毛沢東思想を堅持し守らなければならない」という前提の下での態度であるにすぎない。

 なるほど、確かに中国も文革を批判したことがあったが、最も根本的な問題、すなわち人権にまで踏み込んで批判したことはない。人の生命権、思想と言論の権利、個人の尊厳、個人の財産権、こういった権利が文革中に一つ残らず踏みにじられたのである。中国在住の中国人は依然として、本書記載の事実が発生したときと同一の政権、同一の制度の下で生活している。だからこそ、最も著名なある左派の理論家が文革に反対してこれを批判したとき、次のような一言でずばりと秘密をあばいたのである。

   「せんじ詰めれば、文化大革命は我が中国共産党の汚点である。」

 文革中に発生した大虐殺、これは決して偶然の出来事ではなく、文革がもたらした天下大乱という局面での制御不能状態の産物というわけでもない。殺人は決してたやすくおこなわれるものではなく、文革中の残忍な殺人や一家皆殺しや大量虐殺は、もしもイデオロギーや心理的な後ろ盾がなければ、また物質的な条件がなければ、そして制度上の保証がなければ、絶対になし得なかったことなのである。

 二十世紀の1950年代から1970年代まで、統治者のイデオロギーが民族のイデオロギーとなっていたが、その特徴の一つがまさに生命の軽視である。毛沢東は何度も――インドのネール首相にも、モスクワの共産党や労働党の集会でも、また中共の会議でも――「核戦争は何ら恐るるに足りない、全世界の人口は二十数億人(*当時)もいる、半分死んでもまだ半分残る、たとえ三分の一しか残らなくても、五年計画が発展し資本主義を全部消滅させることになれば何の差し障りがあろうか」と言っている。

 毛沢東は文革のことを時代交代をもたらした政治的大革命であり、また自分が指導したその一つ前の革命は数百万人の生命と引き換えに新政権(*中国共産党政権)をもたらしたと言ったが、今度の文革ではどのくらいの数の生命と引き換えに自分の意志を貫徹し自分の目標を実現するつもりだったのだろうか。我々には毛沢東の具体的な心積りは分からないが、間違いなく言えることは、毛沢東は何千何万という死者が出ようと少しも恐れることはなかったということである。それはちょうどその数年前、彼が突如思いついた奇想天外な「大躍進 (*1958~61年)」でもって数千万人の餓死者が出たにもかかわらず平然としていたのと同じである。そういう毛沢東にたぶらかされた文革の積極的支持者や参加者である限り、やはり鮮血やしかばねを前にしても怯むことなどあり得なかったのである。

 私(*徐友漁氏)は自分の文革研究の著作の中で次のように書いておいた。

………1968年5月、陝西省某県で初めての大規模な武闘が発生し、紅衛兵組織の一派が歩兵銃や迫撃砲で対立する一派を打ち負かし、五十人の死者が出た。戦闘が終わり、勝者となった学生たちはあたり一面に散らばる死体を目の当たりにして恐れおののいた。生まれて初めて殺人を犯したことに気づき、どうしてよいのか分からず身動きもできないでいたその学生たちに向かい、その一派の中のある大人(おとな)がこう言って注意を与えた。「よくやった! やらねばならなかったのだ。毛主席の最新の指示はこう言っている。『プロレタリア文化大革命は、実質的には社会主義の条件の下でプロレタリア階級がブルジョワ階級や一切の搾取階級に反対する政治大革命であり、中国共産党およびその指導下にある広範な人民大衆が国民党反動派と長期にわたっておこなった闘争の続きである』と」。学生たちはその言葉を聞いたとたん、周章狼狽ぶりを一変させて肚の据わった態度になった。なんのことはない、自分たちは国民党の連中を殺したようなものだったのだ! そうやって心の中で一線を越えてしまうとあとは何ひとつ憚ることがなくなった、と私が取材した元紅衛兵は語った。………

 毛沢東は、文革中の大量殺人に対してイデオロギーの合法性を与えたばかりでなく「武装して左派を支援する」よう軍隊(*人民解放軍)に命令したが、文革のさなか多くの地方で発生した軍隊が大衆に発砲する事件は、まさしくこの「武装して左派を支援する」という指示とスローガンの下でおこなわれたのである。それと同時に、毛沢東はある組織の片方の派閥に発砲するよう軍隊に命令し、軍隊が思いきり武装攻撃を実施できるようにし、それによりもう片方の派閥に対しては、軍隊の別の部隊または兵器工場と結びついて武器弾薬を手に入れざるを得なくさせ、殺人に対しては殺人をもってするということをさせた。毛沢東はこれを脳天気にも、さらには得意になって「全面的な内戦」と呼んだのである。

 文革中の大虐殺は、文革の叙述や研究や評価をおこなう上で避けては通れない話題である。この史実が明らかになってからは、文革に対する一切の弁解や美化は成り立たなくなったのである。

 文革は毛沢東がその平等の理想を実現するためにおこなった社会的な実験であり、その実験は失敗したにしても、毛沢東の出発点は肯定されるべきであり、文革の精神は永遠にその光を放ち続ける、と言う人がいる。毛沢東にそのような高尚な理想があったと信ずるどんな根拠があると言うのだろうか。左派の若い連中はその根拠として、毛沢東の語録を、また文革中の《紅旗》や《人民日報》に掲載された文章や社説を引き合いに出してくる。しかし、感動的でうるわしい言辞が死体や鮮血を覆い隠すことができるのだろうか。歴史や歴史上の人物を評価するのに、まさか権力者による自画自賛の言辞や宣伝文句を根拠にしてよいと言うのではあるまい。もしそうだと言うのなら、ヒトラーの弁舌や煽動の才能は毛沢東よりどれほど上回っていたことか。一歩譲って、一種の社会の理想の実現が大虐殺をもたらしたのだとしても、そういう理想にどのような価値があろうか。そういう残忍な理想のために命を投げ打ちたいという人がいたとしたら、それはその人自身の問題だということは言えるが、もしも幾千幾万という人を犠牲にしようと思うなら、それはもはや奇抜この上ない考えであるとの謗りを免れなくなる。

 文革を批判し否定するのは政治や文化のエリートの立場からの発言にすぎず、文革はたしかに一部の人を傷つけたが攻撃された人の大半は当時贅沢な暮らしをしていた官僚や結構な待遇を受けていた知識分子であり、一般大衆ではなかった、という人がいる。だが本書**を読めば分かるとおり、文革中に虐殺されたりそのほかいろいろな虐待に遭ったのは、まずもって文革前から悲惨な生活を送り地位も低かった人、すなわち異分子とされていた人およびその子女なのであり、虐殺や虐待をおこなったのは軍隊(*人民解放軍)のほか権力者にとって政治上頼りになる民兵やお気に入りや積極分子、とりわけ権力者の子女なのである。

 実際の話、上記のような見方をする人自身、まさに偏った歴史の知識による被害者である。彼らは文革中に大虐殺をはじめとする残虐なことがおこなわれたとは知らず、人を殺し人を虐待したのは一体どのような人なのか、また殺され虐待されたのは一体どのような人なのかを知らない。彼らが目を通すのは、ただ文革後の政治のエリートや文化のエリートが回想したり告発したりした文章だけである。彼らがそういった文章を懐疑と批判の眼差しをもって読むこと、それは間違いない。間違っているのは、彼らがそういう文章を文革のすべてだと考えてしまうことなのである。

 文革の経験がなくアメリカで教育を受けて教員となったある年若い左派の知識分子は、文革が発動されてから三十年目(*1996年)の日に、「今日我々は、毛沢東のいわゆる『七、八年たったらもう一度文革をやる*』ということを、定期的におこなう全国的直接普通選挙で制度化すべきである」という文章を発表した。(*「七、八年たったらもう一度文革をやる」1966年7月8日、江青に宛てた手紙の中で毛沢東が書いている言葉。)

 私(*徐友漁氏)はこの若者に、本書**《文革大虐殺》を真面目に読んで文革中に「プロレタリア独裁」というスローガンの下で発生した一切のことに少し思いを致し、それでもなお「七、八年たったらもう一度文革をやる」ことを望むと言い切れるのかどうか考えてもらいたいと思う。

 無知、あるいは独りよがりの考えは人を無邪気にする。無邪気さは時としていかにも可愛く映ることがあるが、無邪気な人が大きな悪事を正当化したり、あれこれ知恵を絞ってその大きな悪事の中に「合理的な要因」を見つけだそうとするとなると、どのような下心あってのことなのか分からなくなってしまうのである。

 本書**《文革大虐殺》の刊行と同時に、宋永毅君の編になるCD版《中国文化大革命文庫》も出版されると聞いているが、これは多くの学者が中国内外における文革の理解と研究のために血のにじむような努力と多年の歳月を費やして完成させた基礎文献である。私は、宗君およびその協力者たちがさらにいっそうの努力を重ね、真実の歴史を復原し再現するために貢献を続けてくれることを願い、またいっそう多くの中国人がこの仕事に関わり、関心を寄せ、支援してくれることを希望している。・・・(**同上書14~20頁「序文〔2〕」2002年寄稿より)


 以前本ブログで触れましたが、2010年頃仕事の関係で知り合いになった程さんという上海の実業家から、彼女が子供の頃に「文化大革命」によって学校の教師をしていた親の関係で北京から地方の農村に一家全員が「下放」され、食べるものもなく暖房もない小屋に住んで、飢餓のために幼い兄弟も失ったという凄惨な実話を私は実際に聞きました。彼女は本当に大勢の人々が文革で亡くなったのだと話してくれたのを思い出します。その後、彼女は諦めずに勉強に励み、大学を卒業して当時は上海でいくつかの事業を経営していました。

 また、日本籍船の船乗りとして主に1990年代に天津、大連、廈門、香港などの港に入港し、その都度入港手続きのために乗船してきた国境警備隊の将校とも折衝や手続きをした経験がありますが、彼らは陸軍将校の軍服を着ており、階級は大尉か少佐くらいだったと思いますが、恐らく日本関係担当将校として明らかに日本語がわかると思われるのに一切日本語は話さず、全て英語でやりとりしつつも、こちら側の内輪での日本語による会話に耳を澄ませていたことを思い出します。その独特の気配や雰囲気は、以前本ブログでもご紹介したリチャード・ギア主演の「レッド・コーナー(Red Corner) 北京のふたり」という映画に出てくる中国官憲の将校たちに共通する雰囲気とそっくりでした。(映画「慕情」と香港の面影: 

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12689947765.htmlご参照)

 こうした私のナマ身の原体験からの感触としても、また中国の各港での上陸中の体験や乗組員訪問旅行で訪れた北京市内の雰囲気などからも、この本に叙述されている中国共産党政権下の政治支配の様相が理解できます。皆さんもよく注意して中国関係のニュースを読んでおられれば、少なからずの日本人がスパイなどの疑いで中国官憲に逮捕・裁判・収監されている事実に気付かれることと思います。私自身も大連入港中にどうしても旅順港近辺にある203高地の戦跡を訪問したいと思い、港湾代理店にお願いしたところ、旅順港は中国海軍基地であるため通常は許可されないところ、中国政府の公安部員が引率するという条件でやっと許可され、明らかに一種のカウンター・インテリジェンス業務をしているとおぼしき目付きの鋭い公安要員に見張られながら203高地を訪れました。そして同高地に登ったらそこから確かに旅順港が一望できましたが、同行していた公安要員から一切写真撮影はするなと厳命され、ずっと一挙手一投足を見張られつつ、同高地に立つ「爾霊山」と書かれた銃弾型の日本軍がかつて建立した慰霊碑と、途中の山道にあった乃木将軍のご子息戦死の地の慰霊碑に心を込めて手を合わせてきました。その慰霊碑も文化大革命中に一部が破壊されたものの後ほど修復されたと聞きました。そのあと予想外でしたが、車で特別に旅順港の中にまで連れて行ってくれたのです。もちろん撮影は一切禁止でした。本船の商船士官として制服上は当時三本線を巻いていたことから、中国当局は配慮しつつも警戒もしていたものと思われます。

 戦後日本ではあり得ませんが、諸外国では高級船員が海軍予備士官であることも多く、三本線なら一応海軍中佐相当の階級を意味することもあったと思います。同様の経験は、まだソ連が崩壊して間もない頃、ウラジオストック港に入港したら、代理店がロシア太平洋艦隊の軍艦訪問に連れて行ってくれ、やはり写真は厳禁だったものの、艦橋を含む艦内を士官が案内してくれました。その時も先方は完全に私を海軍中佐扱いしていました。私は最終的には船会社から四本線まで戴きましたが、そのために世界一周航海をしていても諸外国では海軍大佐相当としての扱いを受けました。同じく1990年代ですが、ミャンマーのヤンゴンに入港した時には、日本政府の業務を請けていた関係でミャンマーの国務大臣が三名、ヤンゴン川の河口から乗船して来られ、着岸岸壁まで遡上する間、本船を代表して応接する栄に浴しましたが、その際当時の軍事政権らしくある軍人出身の大臣は完全に私を海軍大佐として扱い、「我々は日本の陸軍士官学校には大変お世話になった。」といわれたことや、「中国は賢い。わが国の豊富な鉱山の利権などを買おうとして財政援助や軍事援助を惜しまない。我々もそれをわかった上で対応しているのだ。」というような話をされました。また「わが国には西欧流の民主主義は時期尚早だ。もう少し国が発展してからでないと民政には移行できない。」と言っていたのが印象に残っています。実にミャンマー軍事政権を背後から支えているのは今も変わらず中国政府なのです。

 閑話休題、上記の「序文〔2〕」の中に出てくる毛沢東の「核戦争は何ら恐るるに足りない、全世界の人口は二十数億人(*当時)もいる、半分死んでもまだ半分残る、たとえ三分の一しか残らなくても、五年計画が発展し資本主義を全部消滅させることになれば何の差し障りがあろうか」という発言に、内容的にそっくりな発言を聞いたことがあるのです。それは海軍史の仕事の関係もあって、私は今までに六名の元海上幕僚長にお会いしたことがあるのですが、そのうちのお一人から直接伺ったお話として、同提督がかつて中国を訪問した際、人民解放軍のトップクラスの将官が、「もし核戦争が起こっても中国の人口はとても多い(*現在約14億)ので、半分になっても三分の一になっても中国民族は生き残れる。しかし日本は核戦争になったら全人口を失うだろう。」という話をしたとのことでした。恐らく水爆級の核兵器なら五発から七発ぐらいで日本列島に住む日本人はほぼ全滅するのではないかと思われますが、2021年現在、中国は三百二十発もの核兵器を保有しているのです。何よりも大多数の中国国民が核戦争の犠牲となって死滅しても「かまわない」という考え方そのものが恐ろしいのです。これでは核兵器による「抑止力」が効かないということを意味します。つまり中国共産党政権はやろうと思えば本当に核戦争をやる可能性があるということです。そして本ブログ(2021-07-29)でもご紹介した「”中国の軍事研究組織「核攻撃での日本平定」と題する動画を公開”」という記事が示す「恫喝的言辞」が、決して現実とならないように真に願っています。そして日本の核兵器廃絶運動をしている皆さんはぜひ、米・英・仏のみならず中・露・北朝鮮など他の核兵器所有国に対しても、同様にその鋭い矛先を向けることを厭わないで戴きたいと心より期待しています。(今回はここまで)

(参考記事: 

https://ameblo.jp/yukohwa/entry-12689211591.html