昔、新さくら丸という客船がまだ就航していた頃のお話です。1997年7月1日の香港返還式典の際もこの船は香港に入港中でした。1990年代の香港は、1984年に署名された英中共同声明に基づき、英国から中華人民共和国に主権が移譲される前の最後の煌めきを示していた時期です。東洋のなかに西洋が融合して存在する香港独特の魅力がこの街には香っていました。私は船乗りとして世界三十数ヶ国の港町に入港しましたが、当時の香港は世界でも有数の美しい港として、最も愛された寄港地の一つでした。

   香港入港中は忙しい乗組員も皆、寸暇を惜しんで上陸したものです。私のお気に入りの上陸コースは、まず白と緑に塗り分けられた「スター・フェリー」という前後両方に進める可愛らしい船に乗って香港島に渡り、セントラル・ピアという船着き場から歩いて、ザ・ビクトリア・トラム駅からのケーブルカーに乗ってビクトリア・ピーク山頂まで登り、頂上にあるザ・ピーク・カフェ(現在はザ・ピーク・ルックアウト:*見張りの意)という英国式の小さくて瀟洒なレストランでひとときを過ごすことでした。当時と運営形態は変わってしまったかもしれませんが、今も引き続き営業はしているようです。

   新さくら丸など商船三井客船では、香港出航は必ず日没後の出帆と決まっていて、当時客船が必ず着岸した尖沙咀(ツィム・シャ・ツイ)の海運大厦(オーシャン・ターミナル)を静かに離れ、九龍半島と香港島の間の水路をゆっくり抜けてゆくとき、眩ゆいばかりの香港島の夜景を眺めながら船内に必ずかかる曲が、1955年公開の映画「慕情」のテーマ・ミュージックと決まっていました。その美しい夜景にこれほどぴったり合う旋律はほかにあり得ないという、この定番の音楽がデッキに流れたものでした。

   この映画の原作は、私の手元には英語版の “A MANY-SPLENDOURED THING” (by HAN SUYIN, The Sheridan Book Co.) というPaperbackしかありませんが、翻訳は角川文庫から出ていましたが今は絶版です。映画のネタバレはあまりしたくありませんが、この映画の印象的なシーンは先ほどのビクトリア・ピークとされる丘が舞台です。また1950年代の香港の街並みや人々の生活の様子がこの映画には出てきます。

   同じような香港のシーンが出てくるのは、主演男優も同じウィリアム・ホールデンの「スージー・ウォンの世界」という映画があります。こちらは1960年に英米両国で公開され、なんとも魅惑的なナンシー・クワン演じるスージーとアメリカ人画家との恋が、当時香港島にあった六國飯店をモデルとした、小さなホテルを舞台に描かれています。DVDも出ていますので、皆さんもぜひこの二作品を観てみてください。

https://youtu.be/lPDngfrBdFk :映画の雰囲気はわかります。

https://youtu.be/Dzeh-kVwiYI :冒頭はスターフェリーから始まります。

   特に、映画「慕情」の主演女優であるジェニファー・ジョーンズの、切なく哀しい恋であるにもかかわらず、彼女の愛が深まってゆくにつれて輝きを増してゆく表情が、本当に素晴らしい変化を魅せてくれるのです。ぜひ鑑賞して戴きたいお薦めの一本です。もちろんウィリアム・ホールデンのウイットが効いた大人の男性の魅力も女性たちには必見の演技です。そして映画ではフォー・エイセスが歌っていますが、のちにコニー・フランシスやナット・キングコールなどもカヴァーして歌った主題歌も、1950年代らしくシンプルに何度も繰り返されますが、それがまたこの時代の香港の物語にはとても似合っているのです。香港の夜の出航シーンを想い出すたびに、いつも私の心の耳にはこのメロディーが聴こえてくるのです。

   蔣介石総統が率いた中華民国国民党政権は、毛沢東率いる中国共産党との内戦に敗れて台湾に脱出し、中華人民共和国が成立したのが1949年、そしてこの映画の主人公でもある新聞記者のマーク・エリオットが赴く朝鮮戦争が勃発するのが1950年です。共産党の政治支配から逃れるために大勢の難民が香港に流れ込んできていた時代が、この作品の背景になっています。

   元を辿れば、1840年から1842年のアヘン戦争中、英国海軍のチャールズ・エリオット大佐が香港島に上陸して占領したことに始まる英国領の時代に、中国大陸への西洋列強の窓口として大いなる発展を遂げた香港。映画「慕情」や「スージー・ウォンの世界」にもよく映し出されている東洋の中の西洋の世界が、「東洋の真珠」と讃えられた独特の魅力ある街造りをもたらしました。その意味では、シンガポールにも通じるものがあります。

   英国海軍は、PAX BRITANNICAと呼ばれる地球上で「陽の沈むことのない帝国」の一時代を築き、アフリカ南端のケープタウンやパナマ地峡に通ずる西インド諸島、フォークランド諸島やビーグル水道など南米南端のドレーク海峡周辺海域のほか、ジブラルタルやマルタ島、スエズ運河、セイロン島、シンガポール、そして上海とこの香港という海上交通の要衝を抑えて発展しました。まさに「海洋立国」を実現した大英帝国のシンボルの一つがこの香港だったのです。そこには「制海権」が世界を制する時代の海洋戦略が伺えるのです。

   一方中国からすれば、まさに領土の一部が最初に植民地化された場所であり、1997年の香港返還までの一世紀半に及ぶ英国支配を、遂に終焉させた象徴ともなりました。同時にそれは大英帝国最後の植民地の終焉でもあったのです。また近隣のポルトガル領マカオも1999年に返還され、これを以って中国本土の西洋植民地は完全に消滅しました。民族自決の意味では望ましいことですが、問題は返還時に約束された五十年間の「一国二制度」による香港の「高度な自治」が、いつまで保たれるかにかかっています。

 返還された1997年から17年後の2014年には、早くも「高度な自治」はもはや無効だとする意向が英国政府に伝えられたといいます。そして50年ではなく、20年経っただけの2017年には、「英中共同声明」はもはや意味をなさないと中華人民共和国政府は表明し、昨年の2020年には香港に「国家安全法」を導入する決定が全国人民代表大会で採択され、同年6月30日に「香港特別行政区国家安全維持法」が施行されて、香港の「高度な自治」は事実上の終焉を迎えました。返還後たった23年間しか、返還交渉時に当時の鄧小平最高指導者が高唱していた「四大原則」は事実上守られなかったことを示しています。

 この鄧小平氏の「四大原則」とは、「一国二制度」「香港の高度な自治」「港人治港(香港人による香港統治)」「50年間は従来の資本主義体制を変えない」でした。このことは、中国共産党が一党独裁している中華人民共和国政府は、イギリスとの国際的な約束である「英中共同声明」をいとも簡単に葬り去ったことを意味しています。つまり、同政府は国際法を守らないことを世界に明瞭に示したのです。南シナ海の島嶼の軍事占領・支配と同様です。

   「民族自決」の原則からは、英国領であるよりも中国領であることが望ましいことは当然であるとしても、もう少し掘り下げてこの「民族自決」の意味を考えてみれば、それはそこに住む民族、つまり住民たちが自分たち自身で自分たちの政治を決めることを、根底的には意味しています。つまり鄧小平氏が、かつて高らかに謳った「香港の高度な自治」と「港人治港(香港人による香港統治)」こそが「民族自決」の根本精神なのです。

   そして少なくとも50年間は制度を変えないと約束したにもかかわらず、半分にも満たない23年間でこの国際的な約束を破った事実は、中華人民共和国政府が「国際的な約束を守らない政府」であることを内外に鮮明に示したという意味において、極めて残念でありかつ遺憾な事態です。その意味では、ヒットラー率いるナチスドイツが一方的にヴェルサイユ条約を無視して行った数々の所業と一体どこが異なるのか、是非とも同国政府の格調高い説明を聞いてみたいものだと存じます。

   この「一国二制度」の実態が明らかになった以上、台湾は一体今後どうなるのか。そしてこの延長線上に沖縄や日本があるのではないかという懸念も、あながち空想的とは言えないのです。1989年に天安門での事件が起こっていますが、香港では2020年9月以降の高校教科書からこの事件の記述が削除されたといわれます。香港での自由民主主義とは何かが改めて問われています。

   皆さんには、もう一本ぜひ観て戴きたい映画があります。それはちょうど香港返還の1997年に製作された「レッド・コーナー 北京のふたり」(原題:Red Corner)というリチャード・ギア主演の映画です。ダライ・ラマ14世の支持者であるギアが主演であるため、中国国内での撮影が不可能となり、北京が舞台であるにもかかわらず、全編がアメリカ国内で撮影されました。

   https://youtu.be/3ORjZwiNS3M この部分は、たまたま現場検証のための護送中の車から脱出できた無実の主人公が、米国大使館に必死で逃げ込んだものの、そのままでは今まで裁判で弁護してくれていた中国人女性弁護士がどうなるかわからないことを案じて、危険を知りつつも自ら再逮捕されるシーンを描いています。圧巻は、これに続く中国での法廷のシーンなのですが、この国の司法制度や警察制度、そして共産党の支配が一体どのようなものであるかということを実感できる映画に仕上がっています。これもDVDが出ていますので、ぜひご覧ください。

 また同じく1997年に製作された「セブン・イヤーズ・イン・チベット」(Seven Years in Tibet)というブラッド・ピットとデヴィッド・シューリスが主演した映画もお勧めです。この映画にはチベット侵攻のシーンが出てくるため、やはり中国国内(*つまりチベット)での撮影は許可されないため、大半はアルゼンチンやネパールなどで撮影されましたし、この映画の関係者は無期限で中華人民共和国支配地域への立ち入り禁止措置にあったといいます。こうした強い反応が同国政府からあったということは、この映画の侵攻シーンが見られたくないものを描いているという逆の事実を示していると理解することができます。映画や小説はもとより事実そのものではありませんが、紫式部もいうように、それゆえにこそ真実を描けるという面があるのです。

(ご参考:https://youtu.be/2KP0MGnhqZE )

   もちろんこうした社会科学的分析の眼だけで映画を鑑賞するのではなく、そこに描かれる作品の世界を堪能することが大切です。その意味で、ぜひこれらの映画そのものを楽しんでほしいと願っています。