屋良有希のロンドン日誌 Yukki’s London Diary


屋良有希のロンドン日誌 Yukki’s London Diary


屋良有希(やうら. ゆき)、東京生まれ。アーティスト、ナチュラリスト、ロンドン住在。英国王立芸術大学院修士卒業(博物画生態学研究科)。大学臨時講師、ウェス・アンダーソン、を含む映画やTV、書、水墨、 出版の分野で活躍する、英国人の夫君がいる。関心事は自然と動物。 


 

屋良有希の

ロンドン日誌

Yukki's 

London Diary

 

屋良有希のアーティスト日誌」とし、

過去、現在、未来の事柄、

エッセイ、またいただきました

質問などをブログの中に

書いてもらうつもりでおります。

読者のみなさまに深くお礼を申し上げます。

今後ともよろしくお願い致します。
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©By Yukki Yaura 屋良有希画

 

 

5月のロンドン散歩

ウエストミンスター

 

 

©yukkiyaura

 

 

5月のロンドン散歩朝から

太陽が照り返していた。

 

3月4月雨が多くて、先月まで 

10度という寒さだったし、

雨が続いていた。

 

ケントにある市民農園のために

1年近くかかって芽から育てた

サツマイモの花が咲いた。

©yukkiyaura

 

 日本からは禁止で送れなくなったので、

日本のサツマイモのように

栗のような甘さは期待できないし、

ここでは精一杯オーガニックの

サツマイモを買って

育てることにしたのだ。

 

©yukkiyaura

 

この日は朝から暖かく、太陽の

日差しが向かい側の赤煉瓦を

オレンジ色にしていた。

散歩に行こう

久しぶりだった。

 

どちらの方向に行こうか

たまには東にしよう。

 

散歩は家から大体10分から 

15分ほど歩いたところに決めている。

 

今日は東を選んだ、 つまりテムス

川沿いに向かって歩いて行った。

 

Horseferry Road を東に向かって歩く。

 

向こうのほうにテムズに

かかる橋が見えてきた。

 

しかしすぐに左に折れる。

 

©yukkiyaura

そこはSt・John’s Smith Square で、

そこは昔ティンパニストだった

マックスが幾度もここの

コンサートに出ていた。

 

©yukkiyaura 

 

ガーデンにはオオカメノキ

(大亀の木)の白い花が

よく目だっていた。

Viburnum furcatum 

階段に腰掛ける。

 

5月の差しが気持ち良い。

 

それに木々の葉はまだ

青くはなっていない

 

柔らかな若葉色だ。

プレインツリーは、

フランス語ではプラタナス、

ロンドンのそこら中に

ある、美しい木肌にパターンの

ある大きな街路樹だ。

 

©yukkiyaura

 

St・John’s Smith Square の

下にはレストランやカフェがあるが、

まだ開いてはいなかった。 

 

近くに可愛いパブがあった。

誰かに似ている

とマックスが言った。

ニックだ。 

ニコラスは本物の男爵で

そういえばこんな顔つきだけれど、

とても優しい。

 

©yukkiyaura

 

ミルバンクの横切ると

ヴィクトリア・タワー・ガーデンズがある。

 

ミルバンク©yukkiyaura

ここからの眺めは素晴らしい。 

 

正面には、ウェストミンスター宮殿、 

つまり国会議事堂だけが、

まるで観光用の絵葉書のように

そこにあるのだから。

 

それに邪魔をする何者もない。

©yukkiyaura

 

ウェストミンスター宮殿、国会議事堂、

 

ここはロンドンのテムズ川北岸に 

ある公共の公園で、ウェストミンスター 

宮殿の南西隅にあるビックベン、 

ヴィクトリア・タワーに隣接している。

 

©yukkiyaura 

ウェストミンスター・カウンティーホール、

 

 

 

 

左にロンドン・アイ2000年、

ミレニアムミレニアムを記念行事として建設された大観覧車

 

赤い二階建てのロンドン・バスが忙しい。

 

©yukkiyaura

 

 

ウェストミンスター・カウンティーホール、

ロンドン・アイと赤い二階建てのロンドン・バス

 

 

ローカルのレストランには

多くの人たちが

ランチを楽しんでいた。

 

 

お腹がすいた、もうじき12時になる。

急いで帰ろう。 

 

 

 

 

(おしまい)

 

 

 

ありがとうございました。

 

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4月

 ガブリエル・ボヌール・

シャネル展3

V&A

ココ・シャネル

 

 

ハリウッドでの仕事

 

亡命中のドミトリー・

パヴロヴィチ大公。1920年代。

 

1931年、モンテ・カルロにいる間に

シャネルは共通の友人であった

ドミトリー・パヴロヴィチ大公

を通じて映画プロデューサーの 

サミュエル・ゴールドウィン

と知り合った。

ドミトリー・パヴロヴィチ

大公は最後のロシア皇帝

ニコライ2世の従兄弟である。

 

サミュエル・ゴールドウィン

はユナイテッド・アーティスツ

を経営する映画界の大物で、

ゴールドウィンはシャネルに

興味深い提案を行った。

 

1989年に出版された彼の伝記

「ゴールドウイン」の中で、

A.スコット・バーグが語って

いるように、彼は

「女性は他の女性がどのような服を

着ているかを見るために映画を

見に行く」と信じていた。

 

ゴールドウィンは映画ファン、

特に女性を呼び込む新しい

方法を模索していた。

 

シャネルに彼はチャンスを見出した。

 

彼女のデザインによって、

シャネルはハリウッドに

「気品」をもたらすだろうと

ゴールドウィンは考えたのだ。

 

それは総計100万ドル、

現在のおよそ7500万ドル

 約110億6,195万円

に相当するの報酬でMGMの

ためにのスターたちのための 

衣装デザインを依頼する

というものだった。

 

©Elle

 

MGMは知ってのとうり、

ビバリーヒルズにある

映画スタジオで映画スターが

夢見る会社である。

 

そのためにシャネルを

ハリウッドに2年間招き仕事を

するというものだった。

 

ハリウッド行きに同意した理由は?

「映画が私に何を与え、私が

映画に何を与えられるかを

確かめるために」

とシャネルは語った。

 

そして、シャネルはこの依頼を

受け、ハリウッドに渡った。

 

ハリウッドへ

 

彼女には2人の旅仲間がいた。

 

一人目はミシア・セルト、

 前衛芸術家のパトロンとして

知られ、トゥールーズ=

ロートレック、ボナール、

ルノワール、ヴュイヤール

のためにポーズをとり、

プルーストの散文にも描かれて 

いる「過去の追憶」の

ヴェルデュラン夫人と

ユアベレフ王女のモデル、

もう一人は前衛芸術家

ジャン・コクトーの秘書で若い

作家モーリス・サックスだった。

 

©Elle

 

3人は、シャンパンを片手に、

ロサンゼルスまでの約3,000マイル

を4日間かけて移動するために、

彼らのためだけに作られた、

内装が白で統一された豪華な

特急列車に乗り込んだ。

 

シャネルがロサンゼルスの

ユニオン駅に到着すると、

グレタ・ガルボが両頬に

ヨーロッパ風のキス

をして出迎えた。

 

しかし、シャネルは最終的に、

キャサリン・ヘプバーン

という高慢で角ばった

赤褐色の髪の美女に、より

強い印象を受けたらしい。

 

新聞

 

「ニューヨーク・タイム」

紙はおおむねシャネルの

アメリカ進出を歓迎したが、

「ロサンジェルス・タイムズ」

紙は、ハリウッドに活力を

与えるためにヨーロッパの

ファッションが必要だという

暗黙の示唆に腰を抜かした。

 

誰がパリを必要としたのか?

新聞はシャネルのハリウッド

訪問をこう報じた。

 

 

©Elle

 

シャネルがハリウッドに

来たのは、彼女のシックな

ブランドを業界に提供する

ためではなく、ハリウッドが

パリに代わってファッション

の中心地となり、その

引力がシャネルをハリウッド

に呼び寄せたからだ

ということだった。

 

ユナイテッド・アーティスツ

は、シャネルがハリウッド

に長期的にコミットする

ことを期待して、

ミシンとドレスのマネキン

を備えた豪華なサロンを

用意した。

 

しかし、シャネルはそのサロン

を使うことを拒否したのだ。

 

後に監督となる

ミッチェル・ライゼン

と助手のエイドリアンは、

ゴールドウインのための

シャネルの処女作

「パルミー・デイズ」の

撮影を手伝うことになった。

 

シャネルはエイドリアンが 

優れたデザイナーである

ことを見抜き、それを

尊敬したからだ。

 

©Elle

彼女は特に、1931年の

「マタ・ハリ」でガルボの

ために彼がデザインした

ワードローブを賞賛した。

 

歓迎パーティー

 

ハリウッドにある

ゴールドウィンの豪華な

イタリア風の邸宅で開かれた

シャネルの名誉を称える

レセプションでは、

マレーネ・ディートリッヒ、

クローデット・コルベール、

ガルボ、フレデリック・マーチ、

ジョージ・キューカーと

エーリッヒ・フォン・シュトロハイム

監督といった地元の名士たちが

シャネルを出迎え、

彼はヒールを鳴らして

シャネルの手にキスをしながら、

「あなたは......お針子さん

ですよね?」と尋ねたと

アクセル・マドセンは

記している。

 

シャネルは、嫌な気持ち 

だった筈だが、彼のその

発言を許したらしい。

 

ミュージカル「パルミー デイズ」

 

ゴールドウインがシャネルの

最初の仕事として選んだのは、

エディ カンターと

バスビー ・バークレーの

ミュージカル「パルミー デイズ」

だった。

 

個人的な趣向だけれど、

バスビー・ バークレーの白黒

映画は忘れられないものだった。

 

タップをやったことのある

人なら、昔の映画、

フレッド・アステア、

女優ジンジャー・ロジャース

などの古めかしい、

バスビー ・バークレーの振り付け

を見ているはずだ。

 

バスビー ・バークレーは

天才的な振付師で、

映画ならではの演出、

特撮、カット割りなどを使い、

ミュージカル映画に舞台とは

違う独自の趣向を取り入れた。

 

©hometownstohollywood

 

ダンサー達をその真上から

カメラで見下ろし、隊列を

作り花が咲き乱れるような

万華鏡のような映像を造り出す、

いわゆるバークレー・ショット

の創造を作った。

 

シャネルの仕事は、

「パルミー デイズ」のスター、

シャーロット グリーンウッド

のためにドレスをデザイン 

することだった。

 

しかし、コメディーが

強かったのでシャネルの

趣向ではなく、

気に入らなかった。

 

©hometownstohollywood

 

シャネルのハリウッド

訪問は話題を呼んで、

当代一流だった映画関係者、

美術監督の

ミッチェル・ライゼン

や映画監督の

セシル・B・デミルなどが

シャネルとともに仕事をした。

 

シャネルは

マーヴィン・ルロイ監督

の映画「今宵ひととき」 

Tonight or Never 1931 

1931年で

グロリア・スワンソン

が身に着けた衣装と、

ローウェル・シャーマン監督

の映画Lowell Sherman

「黄金に踊る」1932年で

アイナ・クレアが身に着けた

衣装をデザインした。

 

©Wiki

 

また、グレタ・ガルボと

マレーネ・ディートリヒの

二人が個人的な顧客となった。

 

女優スワンソン

 

エイドリアンはシャネルに、

映画のワードローブは 

「フォトジェニック 」で

なければならず、繊細さは

スクリーンには反映されない

と説明しようとした。

 

クチュールでは、

マネキンはデザインを

引き立てて見せるため

のものであり、スクリーン

では、デザインは女優を

引き立てて見せる

ためのものだった。

 フレンチリーブ

シャネルは、

グロリア・スワンソンが

オペラの歌姫に扮した

次の作品Tonight or Neverで、

さらなる称賛を得た。

 

スワンソンはすでに

「世界で最も着飾った

女性トップ10」の

一人に数えられていたが、

問題があった。

 

©fromthebygone.wordpress

 

スワンソンにはすでに

ルネ・ユベールという好みの

デザイナーがおり、

彼女はシャネルに

抵抗していたから。

 

パリに戻ったシャネルは、

ゴールドウインとの

契約条件を変更し、

ハリウッドのための

デザインはパリで行うから、

女性スターはヨーロッパに

来ればよいと伝えた。

 

当時、スワンソンは

すでにロンドンに滞在

していたため、カンボン通りに

あるシャネルのアトリエで、

今度は鏡で縁取られた

蘭の花のような色のガウン 

のフィッティングを

受けることは容易だった。

 

©fromthebygone.wordpress

1931年の

「トゥナイト・オア・ネヴァー」

でシャネルデザインの

ガウンを着たグロリア・スワンソン。

フォトフェストより。

リー・ルエルによるデジタル彩色。

 

しかし、フィッティングの

間に女優が太って

しまったことを知った

シャネルは激怒し、

スワンソンに5ポンド

痩せるよう要求した。

 

やがて彼女は、

スワンソンがアイルランド人

の恋人でプレイボーイの

マイケル・ファーマーとの

間に密かに妊娠して

いることを知った。

 

女優は妊娠を隠すために

硬いゴムのコルセットを

つけるよう主張し、シャネルは

それがドレスのラインを崩すと

考えたが、シャネルは体重増加を 

隠すことに成功し、スワンソンに

ガウンだけでなく、テーラードスーツ

の上に真珠のロープを着せる

ことで、彼女の持っていた

セクシーなルックスを

アメリカの観客に紹介

することができた。

 

©fromthebygone.wordpress

 

1931年の

「トゥナイト・オア・ネヴァー」

でシャネル・デザインの

ガウンを着たグロリア・スワンソン。

 

いくつかのシーンでは、

黒髪のスワンソンは、

クリステン・ウェルチが

観察したように、

「シャネル本人に酷似している 」

とさえ言われ、スワンソンを 

「シャネルの理想の体現者 」

にしてしまった。

 

「トゥナイト・オア・ネヴァー」

は、スワンソンを

サイレント映画スターから 

サウンドの時代へと

導く作品だった。

 

 

©fromthebygone.wordpress

 

「市民ケーン」の

グレッグ・トーランドが

撮影を担当し、

「リトル・シーザー」の

マーヴィン・ルロイが

監督を務めたこの映画は、

ゴールドウィンが期待したほど

の注目を集めることはなかった、

その理由には、スワンソンの

私生活に関する

センセーショナルなニュース

がついていた、それは

アンリ・ファレーズ・ド・

ラ・クードレー侯爵との離婚、

それに続くマイケル・ファーマー

との急な結婚が映画の

宣伝に影を落としたことが

挙げられている。

しかし、シャネルのデザイン

は高い評価を得た。

 

 

(続く)

 

ありがとうございました。

ドンッドンッドンッDASH!DASH!DASH!ドンッドンッドンッ

 

 

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Thank you

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3月 

ガブリエル・ボヌール・

シャネル展2

V&A

ココ・シャネル 

 

 

シャネル・モードChanel Modesを開店

 

1910年、シャネルは27歳で

婦人用帽子職人の

ライセンスを取得した。

 

そして、パリ1区西側にある

ヴァンドーム広場に近い

パリで最もファッショナブルな

地区のカンボン通り21番地に

帽子専門店ブティック

「シャネル・モード」 

Chanel Modesを開店した。

 

 

©historyextra

 

このあたりは既にブティック

業界が確立されていたため、

シャネルはこの店では彼女が

作った帽子だけを販売した。

 

1800年代の帽子

1870年代頃には、女性用の帽子

に羽や翼、時には鳥全体が 

あしらわれるようになり

150年の間に、女性の帽子の

サイズと同じように、飾りや

装飾も多様化した。

 

©geriwalton.com

 

リボンは羽にフクロウの頭や、

ボルティモア・オオルリ、

ハチドリ、アオカケス、

ローラー、ブルーバード、キツツキ、

のような鳥の剥製が使われる

ようになったが、それだけに

とどまらなかった。

 

ネズミや小さな爬虫類などの

動物も帽子の上に乗せられ、

時には、フクロウの頭、

ダチョウの羽、スズメの羽、 

何房もの花やリボン、

そして4、5羽のウグイス

で覆われていた。

 

1890年代に流行したもうひとつ

の帽子は、アルザス・ボンネット

と呼ばれるものだった。

 

©geriwalton.com

 

それはボンネットに大きなリボンと、

時には毛皮の飾りを付けただけの

シンプルなスタイルだった。

 

 

女優が装ったシャネルの帽子

 

シャネルの名前がで始めたのは

1912年に「女の一生」などの

小説で有名なギ・ド・モーパッサン

の小説「ベラミ」Bel Amの戯曲化

で演出家フェルナン・ノジエール

の舞台女優ガブリエル・ドルジア

がでシャネルの帽子をかぶったこと

からシャネルの名前が売れ始めた。

 

その後、ドルジアは「レ・モード」

Les Modes誌に掲載された写真に

おいて再びシャネルの帽子

を使用している。

 

ブティック「ガブリエル・シャネル」を開業

1913年、30歳になったシャネルは

アーサー・カペルの資金提供で

港・ヴィラ・カジノ・ホテル等

を擁するリゾートの町である 

ドーヴィルにブティックを開業し、

レジャーやスポーツに適した

豪華でカジュアルな服装

を打ち出した。

 

ドーヴィルのブティック前に立つ

ガブリエル シャネル、1913年

© Collection Deauvilloise, Deauville (France)

 

シャネルの製品は当時主に

男性用下着に使用されていた

ジャージーやトリコットのような

安手の生地で作られていた。

ブティックの立地は最高であり、

ドーヴィルの中心にある

ファッショナブルな

通りにあった。

 

ここでシャネルは帽子、

ジャケット、セーター、そして

セーラーブラウス

のマリニエール(marinière

)を販売した。

 

妹たちの援助

 

シャネルは妹の

アントアネット(Antoinette)

と同い年の父方の叔母

アドリエンヌ(Adrienne)

という2人が献身的な

支援をしている。

 

シャネルの作品のモデルを

務め、シャネル製品を

宣伝するためにシャネルの

デザインの服を着て、毎日の

ように街の遊歩道を練り歩き

回ったのだった。

 

ロングスカートからパンツへ

 

シャネルが31歳の1941年、

第一次世界大戦が始まった。 

 

女性たちのファッションは

長いスカートから、動きやすい

男性のようなパンツスタイル

に変わっていった。

 

シャネルと彼女の犬

©hungertv Coco Chanel in 1930, with her dog, Gigot

 

シャネルは

そのパンツのデザインの新作を

発表すると、それは人々に

取り入れられていった。

 

ビアリッツにブティックを開業

 

1915年、シャネル32歳、ドーヴィル

での成功を再現することを決意し、

ビアリッツに本格的な店舗を出す。

 

ビアリッツBiarritzは19世紀

以来、王族貴族の集う 

リゾート地として知られていた。

 

ビアリッツのクチュール メゾン、1931年

なかなか素晴らしい所だったようで、

ヴィクトル・ユーゴーは

「私はビアリッツより魅力的で

より素晴らしい場所を知らない」

とまで言わせている。

 

© National Library of France / Frères Séeberger

 

スペインの富裕層の顧客に

近いコスタ・バスカの

ビアリッツは金持ちグループ

や第一次世界大戦で自国から

亡命してきた人々の遊び場であった

 

クチュリエール・仕立て屋

 

ビアリッツのブティックは

クチュリエール、つまり

仕立て屋、仕立て師のことで、

顧客の一人一人に、デザイン

から仕上げまで全てのサービス

を請け負うことで裕福な顧客用

のブティックだった。

 

ビアリッツの店舗は

フロントがなくカジノの

正面の別荘内にあった。

 

ここでは1年間の営業で、ビアリッツ

でのビジネスは成功を収め、

シャネルは1916年にカペルが

提供した資金借金を全額返済する

ことができるようになっていた

 

最後のロシア皇帝の従弟

ドミトリーとの恋

 

シャネルはビアリッツで

ドミトリー・パヴロヴィチ大公

Grand Duke Dmitri Pavlovich 

(1891 - 1941) 

と出あった。

ドミトリーは追放

されたロシア貴族の

ロシア大公で最後の

ロシア皇帝ニコライ2世

の従弟にあたる。

 

©Wikipedia

 

グリゴリー・ラスプーチン暗殺の

実行者として知られている。

 

ドミトリーは1991年の

ソビエト連邦の崩壊後、

王党派から帝政復古の活動に

ロシア皇帝として祭り

上げようとされたが、

彼はこの求めを辞退している。

 

ドミトリーはイケメンな外見からも

プレイボーイとして知られ、

ロシア社交界の中心でもあった。

 

ドミトリーは関係を持った

女性のことを日記に書き残して

いるが、その中でも

ココ・シャネルとの関係が最も

印象に残ったと記している。

 

ドミトリーはロシア時代の 

コネクションで、シャネルの香水

として有名な「NO.5」の調香、

開発で知られる

エルネスト・ボーを紹介するなど、

シャネルに少なからず影響を与えた。

ガブリエル シャネルとディミトリ パヴロヴィチ大公

 

© Collection Chanel 

 

こうしてビアリッツで始まった

ロマンティックなドミトリーとの恋は

密接な関係となって続いた。

 

 

「メゾン・ド・クチュール」

 

1915年「メゾン・ド・クチュール」

シャネルは、パリの文学界や

芸術界の人気者となっていた。

 

バレエ リュスやジャン コクトー

の舞台「オルフェ」の衣装など

をデザインし、コクトーや

画家のパブロ ピカソと

友好を持った。

 

1918年、シャネルは事業を

拡大して、同じカンボン通りの 

31番地に新店舗を開店した。

ガブリエル シャネルはカンボン通り

31番地の建物を購入し、そこに

クチュール ハウスを構えた。

この「31番地」の建物には

ブティック、サロン、アトリエが作られ、

それは今日も続いている。

 

© The Regents of the University of California / 

City of Paris / Bibliotheca historica

 

1919年までに職業を

「クチュリエール」、

この店舗をメゾン・ド・クチュール

maison de couture)として 

登記現代的なブティックを

目指す彼女は、1921年から、

香水のほか、衣服や帽子に

合ったアクセサリーを、次いで

ジュエリーや化粧品なども

販売するようになった。

 

©amanaimages

 

敷地もさらに拡大し、

1927年までに、カンボン通り

23番地から31番地までの

一画に相当する5件の

不動産を手に入れた。

 

 

シャネルの本物の恋

アーサー・エドワード・

“ボーイ"・カペルと

関係を持ち始めた。

 

 

(続く)

 

 

ありがとうございました。

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枕草子英語 

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枕草子日本語

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Cow

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Thank you

 

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ロンドン日誌

Yukki's

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屋良有希のアーティスト日誌」とし、過去、現在、未来の事柄、

エッセイ、またいただきました質問などをブログの中に

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読者のみなさまに深くお礼を申し上げます。

今後ともよろしくお願い致します。

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©By Yukki Yaura 屋良有希画

 

 

 ココ・シャネル 

ガブリエル・ボヌール・シャネル展 

 

生い立ち

1883年生まれる

1906年ヴィシーへ

バルサンの愛人となる

1909年帽子のブティック開店

 

 

2月

 ガブリエル・ボヌール・シャネル展 

ココ・シャネル

 

©V&A

 

ココ・シャネルとは?

ファッションデザイナーの

ココ・シャネルは、1920年代、

彼女は最初の香水を発表し、

やがてシャネルスーツとリトル

ブラックドレスを発表、シャネル

はジャン・コクトーの舞台衣装

をデザインし、パブロ・ピカソ、

作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー

他パリの文学界や芸術界の仲間

との交流を持ち、過去から現在に

至るまで、シャネルのブランドは 

毎年数億の売上を上げる

繁栄を続けている。

 

ガブリエル・ボヌール・シャネル展

ココ・シャネル

 

友人が誘ってくれたシャネルの

展示会に久しぶりで

Victoria & Albert Museum

 を訪れた。

 

ココ・シャネル・ファッション

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

気候は8度だったが、そんなに寒さを

感じさせない明るい日だった。

 

展示会は100%女性で、

列ができていた。

 

シャネルの初めの時代1920から

 1930年代は個人的に好感の持てる

時代だったけれども、1950年代

に入ると、それからは社交会ドレス

以外はあまり興味がなかった。

 

あっさり展示会の事だけを

書こうと思っていたのに、彼女の 

生き様や人脈、背景を見ていくと

かなり面白い。多分1回では

まとめることができないと思う。

 

©V&A

 

生い立ち

ココ・シャネル

ガブリエル・ボヌール・シャネル

 

(1883年8月19日~1971年1月10日)

ココ・シャネルは

 

父のアルベール・シャネル

(Albert Chanel)と母の

ウジェニー・ジャンヌ・ドゥヴォル

Eugénie Jeanne Devolle、

との子として、フランスの

メーヌ=エ=ロワール県

ソーミュールの、修道女会

Sœurs de la Providence

が運営する慈善病院、

貧困者を収容する施設である

救貧院(きゅうひんいん)で

ガブリエル・ボヌール・シャネル

として生まれた。

 

1800年代フランスの貧困児 

cherbourg-titanic.com

 

母親のジャンヌは洗濯婦

として働いていた。

 

当時のフランス、パリでは

洗濯は外部に頼むことが多く、

その仕事を担うのは主に女性で、

2~3割の女性がこのような

洗濯業に従事していたという。

 

ガブリエルはジャンヌと 

アルベール・シャネル

(Albert Chanel)の第二子で

上に姉のジュリアがいた。

 

当時の貧困家庭

©library.brown.edu

 

シャネルが有名になってから、

彼女の幼少期のことを聞かれ

ても、執拗に話したがらな

かっただけでなく、歳老いて

からも当時の思い出の為に

感情障害をきたした。

 

行商人で住居を持たなかった

父のアルベールと母ジャンヌ 

が結婚したのは1884年のこと

だった。

その結婚はジャンヌの家族が

金を出してなされたものだった。

 

当時の貧困家庭

©paris10

 

シャネルの出生届は、両親は立ち会えず、

代理人の手で行われたため、シャネルの

スペルが誤って登録されてしまった。

 

アルベールとジャンヌの間には 

二男三女があり、一家7人は、たった

一部屋だけの住居で、すし詰めで暮

らさなければならなかった。

 

12歳の時、母が32歳で結核に

より亡くなったと言っているが、

実際には貧困から来た、妊娠、肺炎

が原因であったと思われる。

 

©laceincontext.com

 

母親のジャンヌが亡くなった後、

父アルベールは息子2人を

農場労働者として働きに出し、

娘3人はオーバジーヌの聖母マリア聖心会

religieuses du Saint Cœur de Marie

が運営する孤児院に預けた。

シャネルにとって孤児院での

生活は苦い思い出だったらしい

が、ここで修道女から裁縫を

学んだことは、彼女の後の仕事に

大きな影響があったと想像できる。 

 

©laceincontext.com

 

シャネルが18歳になると

オーバジーヌの孤児院を

出なければならず、次に

ムーランの町のカトリック

女子寄宿舎に預けられた。

 

ココとは

 

6年間裁縫を学んだ後、

シャネルはある仕立て屋で

職を見つけた。

 

当時のお針子

 

そして副業として騎兵将校の

溜まり場となっていたキャバレー

で歌を歌っていた。

 

当時人気の娯楽の場だった

ムーランのパビリオンの

ショーを見せる飲食店

カフェ・コンセールと言われた

ラ・ロトンドLa Rotondeで舞台

デビューとなる歌を歌った。

 

それはスターたちの幕間の場を

繋ぐパフォーマーだったので、

給料は無く、その収入源

はチップであった。 

Cocoのニックネームは、

歌った歌が

「ココを見たのは誰?

Qui qu'a vu Coco ?」

からだったという。

 

©1-une-bien-belle-epoque-salle-1890

 

デビューを夢見る

 

1906年、シャネルは芸能人を

夢見て、温泉リゾート地と、

ミネラルウォーターで有名な

「水の都の王妃」と呼ばれる

ヴィシーに行った。

 

ヴィシーは皇帝ナポレオン3世

が温泉保養地として整備をすすめ 

たことで脚光を浴び、ここには

ルイ15世の娘、ヴィクトワール、デュマ、

ドラクロア、シャトーブリアンほか

多くの名士が湯治に訪れた。

 

シャネルがヴィシーを選んだのは

当時年間4万人、の湯治客が

ヴィシーを訪れるようになリ、

コンサートホール、劇場、カフェ

が林立していたからだった。

 

©thevintagenews.com

 

30年代に黄金時代を迎えたが、

その期間を通じて国内外から

やって来る湯治客をもてなす

ために整備されたホテルや湯治施設

、余興設備などが作られた。

 

シャネルはそこで歌手としての

デビューを夢見たが競争の激しい

ヴィシーで実績も実力も無い

時代遅れのシャネルには舞台の

仕事を得ることはできなかった。 

 

しかし、職を見つけなければ

暮らしができずその上、貸衣装

やレッスン代がかさんだ為、

グランド・グリーユGrande Grille

でdonneuse d'eauとして

働くことになった。

 

 

©galerie-roger-viollet.fr.

 

 

この仕事は、有名なヴィシーの

ミネラルウォーターをグラスに

注いで分けるという仕事をし、やがて

ヴィシーの行楽シーズンが終わると

シャネルはムーランの古巣

「ラ・ロトンド」に戻っていった。

 

バルサンとカペル 二人の男

 

ムーランでシャネルはフランス軍

の元騎兵将校かつ繊維業者の息子

であるエティエンヌ・

バルサンと出会った。

バルサンはプレイボーイと

して名を覇していた。

兵役後に両親の遺産を受け継ぎ、

十分な資産を抱え、シャネルが

23歳の頃、彼は

コンピエーニュ近郊に乗馬道と 

狩猟場で知られる

ロワイヤリューRoyallieuの

シャトーを購入し、そこで

競走馬の育成を始めた。

 

この計画に乗ったシャネルは、

バルサンの愛人となって

ロワイヤリューで生活を始めたが、

そこでの生活は自堕落なもので、

バルサンの富によって退廃的な

パーティーでの歓楽、美食に溺れた。

 

©virtual-history.com.

 

バルサンはシャネルを社交界の

場に立たせようとはしなかったが、

卑小なダイヤモンド、ドレス、

そして真珠を与えた。

 

乗馬とズボン

 

その間、競馬狂いであった

彼の下でシャネルは乗馬

を学び、馬に熱中した。

 

その経験は後のシャネルの

デザインに影響を与えている。

当時のフランスでは、富裕な

女性の服装は貴族女性の 

必需品でありコルセットと

共に彼女たちのファッションに

欠かせなかったのが、

ドレスの下に着用してスカートの

形を保つアンダースカートだった。

 

 

©a-l-ancien-regime

 

18世紀に流行し、

かのマリー・アントワネット

も着用したスカートを横に

広げるために籐や柳の茎、

クジラのヒゲなどを輪にして

重ねたものでその上に腕を

もたせかけることができた。

スカートがあまりにも広がった

ため、女性たちは扉をまっすぐに

通り抜けることが

できなかったという。 

 

王侯貴族の男性服は女性服に

劣らず華美で豪奢だった。

 

自らの特権的地位を誇示し、

着飾った姿は富と地位を証明する

ものであり、女性たちが敢えてこれ

を拒否することもなかった。

 

 

18世紀末のフランス革命では、

それまで支配階級であった

貴族に代わり、貴族と市民の

間に位置する上層市民階級、

産業ブルジョワジーが、政治・

経済的な権力の座に着いた。

 

サン・キュロット

 

衣服で市民に優位を維持して

いた「身分装束令」の

廃止は貴族衣装を

廃れさせていった。

そうして登場したのが、

船乗りや囚人の衣服である

長いズボンを着用した

サン・キュロット党派

のスタイルだ。

 

女性のサン・キュロット

wikimedia.org

 

キュロットとは半ズボンの

ことで、当時貴族の一般的な

スタイルであった。

そして、長ズボンを履く庶民を

貴族が馬鹿にして

「サン・キュロット」と呼んだ。

 

サン・キュロットSans-culotte

とは、フランス語で

「キュロットをはかないひと」

というような意味で、 

フランス革命の推進力となった

社会階層のことで、主に

手工業者、職人、小店主、

賃金労働者などの固定資産の

無い無産市民を指し、当時

のパリでは貧困層に属した。

 

©nationalclothing.org

 

フランス革命の到来は

こうしたサン・キュロットに

熱烈に支持され、暴動で

バスティーユ牢獄を襲撃

した襲撃事件や九月虐殺など、

はすべてサン・キュロット

によって引き起こされ

たものだった。

 

シャネル乗馬用ズボン

 

新しく登場していた自動車

と異なり、乗馬は上流階級

の婦人たちも参加したのだが、

乗馬時の服装もロングスカート

が普通であったために、

横座りで騎乗しなければ

ならなかったし、スカート

から足首を露出させない

ように乗馬用のブーツも

必要であった。

 

©katetattersall.com 

 

しかし、こうした作法には

無頓着で無知であった

シャネルは、現地の仕立て屋に

自分の体形に合わせて乗馬用の

ズボンを作るように求めた。

 

これはズボンが明確に男性用の

ものであった当時としては 

突拍子もない話であり、

エドモンド・シャルル・ルー

はシャネルが仕立て屋に

出した注文について

「彼女は自分がいかに過激な

ことを言っているのか気づいて

いなかったに違いない」

とコメントしている。

 

 

©katetattersall.com

 

愛する人との出会い

 

1909年、シャネルは

バルサンの友人の一人、

アーサー・エドワード・"ボーイ"・カペル

Arthur Edward 'Boy' Capel 

(1881 - 1919)と関係を持ち始めた。 

 

通称ボーイ・カペル、彼はイギリス

軍大尉でポロの選手であった。

 

©luxuryactivist.com

 

カペルは富裕なイギリスの

上流階級で、シャネルを

パリのアパルトマンに住まわせ、

シャネルの第1号店に資金援助した。

 

カペルはシャネルの生涯の中で

シャネルが唯一愛した男だった。

 

 

(続き)

 

ありがとうございました。

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2024年ニューイヤー対談

 

1月

ニューイヤー対談 

 

はじめに

 

初めに、このブログは

シーザー(Seezaa)のブログで

今年で12年目を迎えました。

 

シーザーでは始めたのは、

12年前2011年のバルセロナでの

個展の記事が初めてでした。

 

アメブロ(Ameba)が始まった

のは今年で2年目で、まだ新しい

ブログですので、読者の方も少なく、

過去ブログもありません。

 

 シーザーは読者の方が多いので、

アメブロに移転しようと思い

ましたが、読者様が迷子に

なられるから、シーザーもその

まま続けることになりました。

 

シーザ、アメーバ・ブログ共に、

今年もよろしくお願い致します。

 

©yukkiyaura

 

 

今日は2024年の

ニューイヤー対談です 

 

🌸フミコ

🍀ゆき

 

🌸おめでとうございます。

今年もよろしくお願いいたします。

 

🍀あけましておめでとう

ございます。こちらこそ

よろしくお願いいたします。

 

ウエストミンスター

 

🌸長年長い間いらしたチェルシー 

からウェストミンスターに

移られていかがですか。

 

🍀ウェストミンスターは

良いところですよ。

部屋はチェルシーの時よりずっと

狭くなりましたけれど(笑)

 

©yukkiyaura 駐車場

 

🌸私もこちらに来るときに

ウェストミンスター寺院

から歩いてきました。

あっという間でした。

🍀そう結構近いわね。 

 

🌸それにここの駐車場は

ずいぶん広いですね。

お支払大変でしょう。

🍀いいえ、タダです。

 

 

© copyright by Yukki Yaura 屋良有希画 パグ1 Pug Dog1

 Pencil on paper, paper180g   鉛筆 紙180g 

 

🌸タダなの?

🍀そう、住民は皆タダですよ。

 

🌸この辺で、こんなに大きな

駐車場はめづらしいですね。

🍀それだけが取り柄です。

 

🌸この車は何? 

🍀シトロエンのC1です。

マックスが選んだの。

私たちは「パグちゃん」

て呼んでいます。

 

©yukkiyaura

 

🌸そういえばパグに似ているわね。

 

🍀でしょ?小さな車は初めてなの、

ロンドンでは最高よ、

駐車にもってこいだわ。

といっても私は運転を

しませんけれど。

5年前、日本に行った時、

日本でしか見られない可愛い

小さな車を見て感激した

のを覚えています。

 

🌸何かしら?

 

 

 

© copyright by Yukki Yaura 屋良有希画 パグ2 Pug Dog2

 Pencil on paper, paper180g   鉛筆 紙180g 

 

🍀小さな車、四角っぽいのとか、

こちらのミニのような車。 

 

🌸あるある、トヨタやスズキで

可愛いのがありますね。

でも英国では見かけませんよね。

🍀とっても残念。

 

🌸なぜ車を買ったんですか?

ロンドンだったら、

いらないでしょ。

 

🍀そうなの、だから車は随分

前に売ってしまったのだけど、

マックスがこの1年間同僚の

仕事で1週間に4日

ノーフォークで働いていたんです。

 

🌸ノーフォックてどこかしら?

 

©yukkiyaura 駐車場

 

🍀英国の東部、北海に面していて、

西にケンブリッジがあるわ。

ビクトリアから汽車で

約2時間半かかるところ。

それでまぁ仕方なく車を

買うことにしたの。

ノーフォークのお仕事は今年の

10月で終えたんですけれども

車があると重いものを運ぶには

何かと便利だわ。

 

🌸家はロンドンの郊外に

あたるので、車が必要だわ。

🍀そうね、フミコさんはいつも

車に乗り慣れているから。

🌸仕方がないからよ。

 

ウェストミンスター寺院

 

🍀話は変わるけれど、

フミコさんが今日歩いてきた

ウェストミンスター寺院、

あの建物素敵でしょ。

 

©yukkiyaura

 

🌸寺院の裏を通って来たの

ですが、裏通りも同じような

建物で美しいわね。

すごいビクトリアンの

エリートのエリアという感じ。

 

🍀あの建物ね、多分タタリアンの

物だと思われるのよ。

はじめにマックスの友人が

「まるでタタリアンの建物みたいだ」

って言ったのをきっかけに、

2人でなんとなく調べ始めたのが

1年前の事、それからタタリアンの

建築とテクノロジーが素晴らしい

ということを発見したわ。

 

🌸ちょっと調べてみる、 

 

タターリアンの建築とテクノロジー

タターリアン帝国

 

 

stolenhistory.orgタターリアン帝国の地図

 

タターリアンね。

英語では「タタール帝国」として

知られているけれど、

日本では「タルタリア」

っていうのね。

 

「タタールは中央アジアとシベリアの

歴史的呼称である。

 

その領土はユーラシア大陸の

北側全体、シベリア、

中央アジア全域、東は千島列島

から満州、朝鮮半島まで、 

南はインドの一部、西はウラル

山脈から小アジア半島、

北アメリカ大陸の大半と、

ブラジル、ペルーなどの

南アメリカ大陸の一部まで

含まれていた、史上最大の帝国。

 

 

1802 蒸気馬車©pinterest.

 

13世紀から19世紀初頭まで、

タターリアン帝国と言う国が

存在していた。

 

タタールの主流をなしていたのは、

白人のロシア系のアーリア人、 

黄色のモンゴル系のタタール人

黄色のネイティブアメリカン

だったようです地名としての

タタールには「隠された過去」や

「泥の洪水」といった偽史的陰謀説

を生んだ。このような説は、

タタールまたは「タタール帝国」

が高度な技術と文化を持つ失われた

文明であったと主張する。

つまり陰謀論。

 

 

©pinterest.

オリジナルミッドタウン・イーストジェネラル・

エレクトリックビル-マンハッタン、ニューヨーク

 

🍀残念ながらそうされてきたみたい。

でも、電気を抽出する技術が

確立されていて、文明は

フリーエネルギーで動いていたの。

電気を無料で大量に使う事が

出来たから電気技術が発達して、

技術水準は現代文明を 

はるかに超えていた。

写真もテクノロジーもちゃんと

残っているから否定はできないの。

こんな感じ。

🌸どれどれ、すごくたくさんあるわね。

数えきれない。

 

 

 

©pinterest.

アメリカン・ラジエータービル,NYC

 

🍀建物はすごく高級アート、

アートの質が高い、

建築には素晴らしい。

 

ワシントンDCの

アメリカ議会議事堂、

インドのタージマハルなどが

有名、これらの建築方式こそ

「タターリアン様式」の建物、

ニューヨークのクライスラービル

ディングあれも建築タターリアン

・テクノロジでできているみたい。

 

🌸本当に美的感覚があるだけでは

なくて、現代ではこんな大きなもの、

作れないでしょ。

そういうテクノロジーがあったのね。

 

Ancient tartarian technology

下記のURLをクリックすると見られます。

 

https://www.tiktok.com/

@live4laughing/video/7220781497324817670

 

フリーエネルギー 

🍀タタール帝国のことを書いた本に

なんと日本のことが出てくるの。

それは世界の中で美的な感覚

を持った国、またはその民族は

タタールと日本と書いて

あってすごく嬉しかった。

 

1900年建物が壊されてきた。

アメリカでもヨーロッパでも

建物が壊されていった。

特にアメリカ。

🌸どうやって。

 

 

 

©pinterest.フリーエネルギー

 

 

🍀解体されたのよ。

🌸なぜ

 

🍀なぜかしら。

建物だけではないの。

テクノロジーの発展に魔が入った

ように突然切られてしまったわ。

タターリアンの時代では

フリーエネルギーだったのが、

突然なくなった。 

 

🌸おかしい。

🍀でしょ。

 

🌸まるで朝鮮の両班

(ヤンバン)みたい。

🍀そうなのよ。

 

朝鮮で車が突然消えた。

木を曲げる技術があったとしても、

🌸止められた。

 

 

©pinterest.1800年代の電気自動車

 

500年歴史が遅れて止まって

しまったのと似ているわね。

両班の為ね。

そういう社会構造と、彼らの

支配階級のコントロール?

🍀でしょうね。

 

🌸タタールも?

 

🍀何でも陰謀論で片付けられて

しまうけれども、私たち、毎日

こうしてヴィクトリアンの建物を

見ていて、とてつもない高い

金属の扉を開けられる技術、 

ヴィクトリアンが使ってきた、

ヒーティングの

テクノロジーがあるの。

私たちの目で確かめられるわ。

🌸嘘じゃないわね。

 

 

 

1909年、インド、カラチのマノラポイントライト

のために作られたハイパーラジアントレンズ。

特徴と範囲: 7.5秒ごとに白色閃光、航続距離26海里。

 

🍀だって彼らはもう100年

も使ってきたんだから。

日本にだって、本当は 

たくさんあるのよ。

みんな気が付かないだけ。

五稜郭もタターリア文明における

エーテルエネルギーを水流の形

から電気にっ変換させる

フリーエネルギーの

発電所見たいです。

 

🌸星型の要塞が水に

囲まれていますよね。

🍀そう。

 

 

 

ニューヨーク市クライスラービル

©pinterest.

 

ほかにも水走れる車とかね。 

それからすごいテクノロジーで

駐車できる車や、何百年も

いろいろな優れたテクノロジーが

あったのに、どうして

急になくなったのか。

 

🌸ある困る人たちが政治に

関わり、それらを私たちに

見せないようにした。

 

©pinterest.

Coco Chanel — Chic Simplicity 

Classic Chicago Magazine

ココ・シャネル が乗る

クラシック・シカゴ・マガジン

 

 

ウエストミンスター寺院

🍀ウエストミンスターの

屋上展望台に行くと、素晴らしい 

風景が広がっているの。

 

屋根の上には大きな銅板の

屋根が今は酸化されてさびが

美しい緑青色になり、それが

たくさんあるのよ。

🌸素敵ね。写真でわかるわ。

 

🍀これは私たちの想像ね、

雨水を溜める目的ではないかと

思われるの。

 

 

©yukkiyaura

 

マックスが考えるには、

そこには四角い入り口

がついている。

これはもしかすると、

その水が入ってくるときに

うずまき状にボーテックス

として入ると電気が生じるでしょ。

だから、つまり、発電機。

🌸発電機?

 

🍀でもね、これ、ほんとだと思う。

なぜって、「大聖堂」は 

CATHEDRALでしょ。

「キャサー」や「キャソー」は

ラテン語で電気にあたるから、

「発電所」という意味。

これは想像でなくって本当のこと。

©yukkiyaura

 

大聖堂が発電所なんて誰も言

ってはいないけれど、タターリアンは

そうやってテクノロジーを

使っていったんじゃないかしら。

 

🌸じゃー、「大聖堂」は「発電所」

っていうことね。

🍀そうです。

 

🌸すごい発見ですよね。

🍀もう、前から言われていたはずですよ。

ただ、ここの大聖堂の

銅板ドームは私たちの想像です。

このほかにも、まだあるの。

ここにいると色々な発見があるわ。

 

🌸展望台からゆきさんの

家が見えませんか?

 

🍀見える。すぐそばよ。 

ただし、建物は木々で隠れてしまって

いるけれど、道が見えるわ。

 

🌸次回は大聖堂、興味があるわ。

一緒に行かせて。

©yukkiyaura

 

🍀ぜひ一緒にいきましょうよ。

大聖堂もいいけれど、

展望台の眺めは

素晴らしいんだから。

 

🌸楽しいお話、

ありがようございました。

また今年1年、

よろしくお願い致します。

 

🍀こちらこそ、宜しく、

12年間ものお付き合い

ありがとうございます。

 

🌸皆様が、楽しい充実した

1年でありますように。

 

 

(おわり)

 

 

ありがとうございました。

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