屋良有希のロンドン日誌 Yukki’s London Diary


屋良有希のロンドン日誌 Yukki’s London Diary


屋良有希(やうら. ゆき)、東京生まれ。アーティスト、ナチュラリスト、ロンドン住在。英国王立芸術大学院修士卒業(博物画生態学研究科)。大学臨時講師、ウェス・アンダーソン、を含む映画やTV、書、水墨、 出版の分野で活躍する、英国人の夫君がいる。関心事は自然と動物。 


 

屋良有希の

ロンドン日誌

Yukki's

 London Diary

 

 

屋良有希のアーティスト日誌」とし、

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エッセイ、またいただきました

質問などをブログの中に

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©By Yukki Yaura 屋良有希画

 

 

7月

ガブリエル・ボヌール・

シャネル展5

V&A 

ココ・シャネル

 

 

 

シャネルNo.5 

バレエとコスチュームデザイン

バレエと音楽のパトロン

シャネルとストラヴィンスキー

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

 

アーサー・カペルの影響

シャネルNo.5

 

初めての香水

シャネルNo.5の容器デザインの

原型となったデザインは

ココ・シャネルの恋人だったカペルの

旅行鞄に忍ばせていたカペルの

トイレタリー・ボトルから採った

もの、またはカペルが使用していた

「ウイスキー・デカンタ」のデザイン

を採用、その高価な、極上の、風情の 

あるグラスを再現したもの

だと言われている。

 

 

もしもシャネルにカペルの資金と

センスがなかったら、世界で最も

有名なデザイナーズブランドの

ひとつを作り上げる資金や

ファッションミューズを得ることは

なかっただろうといわれている。

 

 

1919年、彼女は最初の香水、

シャネルNo.5を発売した。

 

アーサー・ボーイ ・カペルから

インスピレーションを得ていた。 

 

 

恋人の名前アーサー・ボーイ ・カペル

のボーイBOYの名をつけた

 

BOY CHANEL

 

シャネルはボーイ カペルを

ソウルメイト以上の存在として考え

ていて、2人の愛にインスピレーション

されたボーイ シャネルは、伝統に挑戦し、

性別を超えた完璧なバランスの香り

「あなたにも彼氏にも必要な香水」

として売り出された。 

 

バレエとコスチュームデザイン

 

1920年の春、20世紀のヨーロッパ

で伝説的な興行師として名を馳せ、

バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)

の団長セルゲイ・ディアギレフは

シャネルにロシアの作曲家

イーゴリ・ストラヴィンスキー

を紹介した。

 

 

©George Barbier (French, Nantes 

1882–1932 Paris

 

バレエと音楽のパトロン

シャネルとストラヴィンスキー

 

ストラヴィンスキー一家は

ソヴィエト連邦からフランスに

逃れてきて、住処を探していた、

そのことを知ったシャネルは

ストラヴィンスキー一家をパリの郊外の

ギャルシュにある自分の新居

ベルレスピロ・Bel Respiroに招待し、

ストラヴィンスキー一家は

1920年9月から1921年の5月まで

一家が適当な住居を見つけることが

できるまでの間彼女の新居を提供した。 

 

二人の間に肉体関係があったかどうか

は定かではないが家族の生活費と

新居を提供し、公演のために、

巨額の寄付もしたパトロンだった。

 

イーゴリ・ストラヴィンスキー

 

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

 

イーゴリ・ストラヴィンスキー

 

1882年
ロシアのサンクトペテルブルク郊外

に生まれる。ストラビンスキーの父は

売れっ子オペラ歌手であった


1910年 28歳

パリ・オペラ座でバレエ

「火の鳥」初演が成功

1913年 31歳

パリ・シャンゼリゼ劇場柿落し

公演のバレエ「春の祭典」

初演大騒動、ブーイング


1920年 37歳

シャネルのパリ郊外の新居で暮らす

1959年 77歳

東京で来日公演

1971年 88歳

ニューヨークで死去

 

パトロンとなったシャネルは 

バレエ・リュスの新たな

ストラヴィンスキーの新作(1920年)

「春の祭典」Le Sacre du Printemps

 は金銭的損失となってしまった。

シャネルは300,000フランの金額

をセルゲイ・ディアギレフへ

匿名で贈与をしている。

 

 

セルゲイ・ディアギレフ

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

映画になった

シャネル アンド ストラヴィンスキー

 

「シャネル アンド ストラヴィンスキー」 

Coco Chanel & Igor Stravinsky

2009年フランス映画。

Ballet Russe

 

 

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

 

クチュール・コレクションの発表

に加えて、シャネルは

バレエ・リュスのためのダンス衣装

のデザインに没頭した。

 

1923年から1937年にかけて、

シャネルはディアギレフとダンサーの

ヴァーツラフ・ニジンスキーが

振付た作品群、特に

「青列車」Le Train bleu

ダンス・オペラの「オルフェ」Orphée

「オイディプス王」Edipe roi 

を手助けした。

 

歴史に残るアーティストたち

 

セルゲイ・ディアギレフは1909年に

バレエ・リュス(ロシアバレエ団) 

をパリで旗揚げ20年ほどパリで

人気を得たこのバレエ団には

ダンサーのニジンスキー、

 

 

 Nijinnsky

 

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

作曲家のドビュッシー、

ラヴェルといった音楽や 

画家のマリー・ローランサン、

小説家のジャン・コクトー

や画家のパブロ・ピカソなど

当時一流の才能あるアーティスト

たちが集う場所であった。

 

Irina Baronova

 

 

英国貴族

ウェストミンスター公爵

 

シャネルにとってもうひとつの重要な

ロマンスは1923年に始まった。

 

 シャネルは裕福な世界有数の大富豪

第2代ウェストミンスター公爵

ヒュー・ベンダー・グロスヴェナーと

モンテカルロで開かれた彼の

ヨットでのパーティーで出会った。

 

当時公爵は2番目の妻の

バイオレット・メアリー・ネルソン

と結婚していたが、シャネルを

何ヵ月も追いかけ、結果2人は 

数十年にわたる交際を始めた。

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

ヒュー・グロスブナーは、父親が

亡くなり、新しい相続人には姉が

いたが、相続のルール、遺産と爵位

を相続できるのは男性の相続人

のみであったため、25歳で

ウェストミンスター公爵の

称号を相続した。

 

爵位とともに、彼は

スコットランドにある3つの山と

ローズホール農園を含む

10万エーカー近い土地も相続

したため、ヒューの資産は

93億5000万ポンドを超え、

世界で68番目、英国で3番目の

大富豪となっていた。

 

公爵贈ったフランスの別荘

 

1927年にはウェストミンスター公は

プロヴァンスのコート・ダジュール

地域圏に購入した土地をシャネルに

贈り、彼女はこれを

ラ・パウザLa Pausa、休息所と呼んだ。

 

シャネルはそこに別荘(villa)を建設、

このことから、ウェストミンスター公と

シャネルの関係はゴシップ誌に

結婚を噂されるほどのもの

になっていった。

 

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

ウェストミンスター公もシャネルに

仕事を辞めてパートナーになることを

求めていたが、シャネルが彼と

結婚することはなかった。

 

なぜウェストミンスター公と結婚

しなかったのか、と問われた時、

シャネルは

「ウェストミンスター公爵夫人は

何人もいるけれど、シャネルは

たった一人しかいないのよ!」

と言ったと伝えられている。

 

英国の別荘隠れ家ローズ・ホール

 

2人は、ヒュー "ベンドール "の

22の部屋と700エーカーの敷地を

持つレスコットランドの別荘、

ローズホール エステートで何度も

夏を過ごした。

 

この邸宅は、シャネルが内装を

手がけた英国で唯一の邸宅

として知られている。

 

1923年から1929年まで続いた

二人の関係の間

ウェストミンスター公は

ローズホールでシャネルと

夏を過ごした。

 

スコットランドの高原に囲まれた

2人は、そこで釣りや狩猟、

乗馬を楽しんだ。

 

ココは朝から晩まで釣りをし、

2ヶ月で50匹のサーモンを

仕留めたという。

 

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

重要なチャーチルとの出会い

 

公爵は、親友の

ウィンストン・チャーチルを

はじめ、多くの友人にシャネルを

紹介した。 

 

1928年には

ウィンストン・チャーチルが

病気療養のために

ローズホールに滞在した。

チャーチルは妻のクレメンタインに

宛てて手紙を書き、

 

「彼女はとても好感が持てる。

本当に人間や帝国を支配するに

ふさわしい偉大で強い存在だ」

と、フランスの

ファッションデザイナー

を賞賛している。

 

この出会いは、第二次世界大戦中、

シャネルにとって大いに役立ち

シャネルの命を救うこととなった。

 

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

シャネルがベンドールと共有していた

秘密の邸宅は、60年以上も空き家

のまま放置されていたが、最近、

ローズホールの邸宅は300万ポンド

で売却され、ホテルに生まれ変わった。

 

 

(続く)

 

ありがとうございました。

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6月

ガブリエル・ボヌール

シャネル展4

V&A

ココ・シャネル

 

ココ・シャネル

 

ココ・シャネルの全ては

書ききれないくらいの量の

物語で埋まっているのだけれども

あまりに長すぎるので、ココ・シャネル

という人物に相当の興味がない限り

読むのをためらってしまうと思う。

 

私自身、ココ・シャネルのデザインを

好んでいるわけでもないし、彼女の 

性格や生き方も羨ましいとは

思わない。女として、愛情枯渇

の人生ではなかったかと想像する。

 

それで、ここからは明細を省いて

サマリーを書いていこうと思う。

どう削っても後2-3のストーリー

が続きそうなので、時たま

ココ・シャネル以外の

ものを入れていくつもりだ。

 

 

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

 

ハリウッドはどうでした?」

 

「ハリウッドはいかがでした?」

とシャネルに質問すると、

「おしりとおっぱいの殿堂ってとこね。」

「キャバレーの夜会みたいなものよ。

 

女の子はみんな綺麗で、 

羽根飾りをつけてた。それだけよ。

でも……でもなんてことないのよ。

だいたい「超」がつくものなんて、

どれもこれも同じよ。

 

超性性染色体の比率が乱れた

中性の有機体にしろ、

超大型プロダクションにしろ……

ああいうものはみんな、いつか

かならずだめになるわよ…」と答えた。

 

 

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

しかし、シャネルがハリウッドで

仕事をしたこと自体は大きな

宣伝効果を発揮しており、また彼女は

ハリウッドの映画産業から

「写真映りフォトジェニック」

を学び取り、以降の仕事において

「写真映り」に配慮するようになった。

 

ユナイテッド・アーティスツは、

シャネルがハリウッドに長期的に

コミットすることを期待して、

ミシンとドレスのマネキンを

備えた豪華なサロンを用意したが、

シャネルはそのサロンを

使うことを拒否した。

 

シャネルのデザインがうまく

ハリウッドに適合しなかった

ことから、予定されていた二度目

のハリウッド訪問は中止になり、

ハリウッドとの関わりは終わった。

 

映画界の大物たちにとっては

シャネルのデザインは派手さ

が足りなかったのだろう

と推測している。

 

シャネルはハリウッドでの経験

について多くを語っていない。

 

しシャネルはいくつかのフランス

映画の衣装デザインは続けた。

 

その中にはジャン・ルノワール監督

の1939年の映画「ゲームの規則」

があり、彼女は「ラ・メゾン・シャネル

La Maison Chanel)」として

クレジットされている。

 

© copyright Drawing by Yukki Yaura 屋良有希画

 

彼女は当時無名だった

ルキノ・ヴィスコンティ

(1906-1976)

をルノワールに紹介した。

ルノワールはヴィスコンティを

次の映画プロジェクトに招待した。

ルキノ・ヴィスコンティは

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で

映画監督としてデビューしている。

 

 

シャネルが一生涯愛した男、

アーサー・カペル

(通称ボーイ・カペル)

Arthur Edward 'Boy' Capel

 

ファッション帝国の始まり

20歳の頃、シャネルは裕福な

将校エティエンヌ・バルサン

と交際するようになる。 

彼はシャネルがパリで婦人服飾

のビジネスを始めるのを手伝って

くれると言ってくれたがシャネルは

すぐにバルサンのもとを去り、

彼の裕福な友人の一人、

アーサー ・カペルの恋人となった。

 

alchetron.com

 

この2人は、シャネルの最初の

ファッション事業に

大きく貢献している。

 

1909年、シャネルは

バルサンの友人の一人、

アーサー・エドワード・"ボーイ"・カペル

と関係を持ち始めた。

 

通称ボーイ・カペル。

 

彼はイギリス軍大尉で

ポロの選手だった。 

 

サセックス州ブライトンで

生まれたアーサー・カペルは、

船主、政治家、大物政治家、

ポロ選手であった。

 

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カペルは富裕なイギリスの

上流階級で、シャネルを

パリのアパルトマンに住まわせ、

シャネルの第1号店に

資金を援助した。

 

シャネルに教養を身につけさせる

ために、おすすめの詩や哲学 

などを自ら書いたノート

贈っている。

アーサー・カペルは白い花を

好み、シャネルに贈っていた。

カペルとシャネルの関係は、

二人の関係は9年間続いた。

 

©©alchetron.com

 

身分が相応・空の愛

2人はドーヴィルなどの

ファッショナブルなリゾート地で

一緒に過ごしたが、カペルは

シャネルに誠実であったことは

一度もなかったという。

 

彼女の一生涯において

一番愛した男からは、恋人と

しては重宝されたが伴侶としては

愛されてはいなかったのだ。

 

当時、貴族との結婚は

結局身分違いの恋で、それは

叶わず、アーサー・カペルのような

上流階級は身分相応な結婚が

自然にアーサー・カペルの生活や、

思想の中に潜在的に

あったに違いない。

 

©alchetron.com

 

つまり、結婚と恋人を自然に

分けることが出来ていた

のではないかと思う。

 

どちらにしても、

アーサー・カペル

はシャネルに対しては結婚の

対象にはしては

いなかったと言うことだ。 

 

勝気なシャネル自身もそれが

わかっていたので、英国貴族で

あるダイアナ・ウィンダム夫人

(Lady Diana Wyndham)

との結婚を承認していた。

 

つまり、割り切っていた。

 

©alchetron.com

 

アーサー・カペルの結婚

 

英国貴族である

ダイアナ・ウィンダム夫人

はリブルスデール卿の娘であり、

第2代ウェストミンスター公爵

ヒュー・グロスヴナーの異母弟

であったパーシー・

リュルフ・ウィンダム大尉の

未亡人であった。

 

カペルが当時、身分の差の

障害のため、英国貴族である

ダイアナ・ウィンダム夫人 

(Lady Diana Wyndham)

と1918年に結婚した後でさえ、

カペルはシャネルとの関係を

完全に絶つことはなかった。

 

 

©lilyfieldfashion.com

 

2人の関係は9年間続き、

1918年にカペルが結婚した後も、

1919年末にカペルが亡くなるまで、

シャネルとの不倫関係は続いた。

 

アーサー・カペルの突然死

 

アーサー・カペルは、

1919年12月22日月曜日、

シャネルとのクリスマスの

待ち合わせに向かう途中、

自動車事故に遭ってしまう、

そこで悲劇的な死を遂げた。

 

事故現場には、十字架に

碑文が刻まれた慰霊碑が

設置された。

 

©alchetron.com

 

道路脇に設置されたカペルの

事故の記念碑はシャネルが依頼

したものであると言われている。

 

後にシャネルは友人の

ポール・モラン(1888-1976)

フランスの作家、外交官に

「彼こそ私が愛したただ一人の男」

と語り、その死について

「彼の死はわたしにとって

恐るべき打撃だった。

わたしはカペルを失うことで

すべてを失った。」

と述懐している。 

 

1919年12月24日、フランス

南東部のプロヴァンス・

アルプ・コート・ダジュール地方

にあるフレジュ大聖堂に、

軍人としての栄誉を讃えられ

埋葬された。

 

©alchetron.com

 

彼の死後、ココは悲しみに

暮れる間、黒い服を着る

ようになり、彼女は友人に

「世界中が彼女と一緒に

悲しんでくれるだろう」

と語り、それが

「リトル・ブラック・ドレス」

の由来となった。

 

 

(続く)

 

 

 

 

ありがとうございました。

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5月のロンドン散歩

ウエストミンスター

 

 

©yukkiyaura

 

 

5月のロンドン散歩朝から

太陽が照り返していた。

 

3月4月雨が多くて、先月まで 

10度という寒さだったし、

雨が続いていた。

 

ケントにある市民農園のために

1年近くかかって芽から育てた

サツマイモの花が咲いた。

©yukkiyaura

 

 日本からは禁止で送れなくなったので、

日本のサツマイモのように

栗のような甘さは期待できないし、

ここでは精一杯オーガニックの

サツマイモを買って

育てることにしたのだ。

 

©yukkiyaura

 

この日は朝から暖かく、太陽の

日差しが向かい側の赤煉瓦を

オレンジ色にしていた。

散歩に行こう

久しぶりだった。

 

どちらの方向に行こうか

たまには東にしよう。

 

散歩は家から大体10分から 

15分ほど歩いたところに決めている。

 

今日は東を選んだ、 つまりテムス

川沿いに向かって歩いて行った。

 

Horseferry Road を東に向かって歩く。

 

向こうのほうにテムズに

かかる橋が見えてきた。

 

しかしすぐに左に折れる。

 

©yukkiyaura

そこはSt・John’s Smith Square で、

そこは昔ティンパニストだった

マックスが幾度もここの

コンサートに出ていた。

 

©yukkiyaura 

 

ガーデンにはオオカメノキ

(大亀の木)の白い花が

よく目だっていた。

Viburnum furcatum 

階段に腰掛ける。

 

5月の差しが気持ち良い。

 

それに木々の葉はまだ

青くはなっていない

 

柔らかな若葉色だ。

プレインツリーは、

フランス語ではプラタナス、

ロンドンのそこら中に

ある、美しい木肌にパターンの

ある大きな街路樹だ。

 

©yukkiyaura

 

St・John’s Smith Square の

下にはレストランやカフェがあるが、

まだ開いてはいなかった。 

 

近くに可愛いパブがあった。

誰かに似ている

とマックスが言った。

ニックだ。 

ニコラスは本物の男爵で

そういえばこんな顔つきだけれど、

とても優しい。

 

©yukkiyaura

 

ミルバンクの横切ると

ヴィクトリア・タワー・ガーデンズがある。

 

ミルバンク©yukkiyaura

ここからの眺めは素晴らしい。 

 

正面には、ウェストミンスター宮殿、 

つまり国会議事堂だけが、

まるで観光用の絵葉書のように

そこにあるのだから。

 

それに邪魔をする何者もない。

©yukkiyaura

 

ウェストミンスター宮殿、国会議事堂、

 

ここはロンドンのテムズ川北岸に 

ある公共の公園で、ウェストミンスター 

宮殿の南西隅にあるビックベン、 

ヴィクトリア・タワーに隣接している。

 

©yukkiyaura 

ウェストミンスター・カウンティーホール、

 

 

 

 

左にロンドン・アイ2000年、

ミレニアムミレニアムを記念行事として建設された大観覧車

 

赤い二階建てのロンドン・バスが忙しい。

 

©yukkiyaura

 

 

ウェストミンスター・カウンティーホール、

ロンドン・アイと赤い二階建てのロンドン・バス

 

 

ローカルのレストランには

多くの人たちが

ランチを楽しんでいた。

 

 

お腹がすいた、もうじき12時になる。

急いで帰ろう。 

 

 

 

 

(おしまい)

 

 

 

ありがとうございました。

 

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屋良有希の

ロンドン日誌

Yukki's

 London Diary

 

屋良有希のアーティスト日誌」とし、

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suekichibook フミコ. イチノ

 

 

 

©By Yukki Yaura 屋良有希画 


 

 

4月

 ガブリエル・ボヌール・

シャネル展3

V&A

ココ・シャネル

 

 

ハリウッドでの仕事

 

亡命中のドミトリー・

パヴロヴィチ大公。1920年代。

 

1931年、モンテ・カルロにいる間に

シャネルは共通の友人であった

ドミトリー・パヴロヴィチ大公

を通じて映画プロデューサーの 

サミュエル・ゴールドウィン

と知り合った。

ドミトリー・パヴロヴィチ

大公は最後のロシア皇帝

ニコライ2世の従兄弟である。

 

サミュエル・ゴールドウィン

はユナイテッド・アーティスツ

を経営する映画界の大物で、

ゴールドウィンはシャネルに

興味深い提案を行った。

 

1989年に出版された彼の伝記

「ゴールドウイン」の中で、

A.スコット・バーグが語って

いるように、彼は

「女性は他の女性がどのような服を

着ているかを見るために映画を

見に行く」と信じていた。

 

ゴールドウィンは映画ファン、

特に女性を呼び込む新しい

方法を模索していた。

 

シャネルに彼はチャンスを見出した。

 

彼女のデザインによって、

シャネルはハリウッドに

「気品」をもたらすだろうと

ゴールドウィンは考えたのだ。

 

それは総計100万ドル、

現在のおよそ7500万ドル

 約110億6,195万円

に相当するの報酬でMGMの

ためにのスターたちのための 

衣装デザインを依頼する

というものだった。

 

©Elle

 

MGMは知ってのとうり、

ビバリーヒルズにある

映画スタジオで映画スターが

夢見る会社である。

 

そのためにシャネルを

ハリウッドに2年間招き仕事を

するというものだった。

 

ハリウッド行きに同意した理由は?

「映画が私に何を与え、私が

映画に何を与えられるかを

確かめるために」

とシャネルは語った。

 

そして、シャネルはこの依頼を

受け、ハリウッドに渡った。

 

ハリウッドへ

 

彼女には2人の旅仲間がいた。

 

一人目はミシア・セルト、

 前衛芸術家のパトロンとして

知られ、トゥールーズ=

ロートレック、ボナール、

ルノワール、ヴュイヤール

のためにポーズをとり、

プルーストの散文にも描かれて 

いる「過去の追憶」の

ヴェルデュラン夫人と

ユアベレフ王女のモデル、

もう一人は前衛芸術家

ジャン・コクトーの秘書で若い

作家モーリス・サックスだった。

 

©Elle

 

3人は、シャンパンを片手に、

ロサンゼルスまでの約3,000マイル

を4日間かけて移動するために、

彼らのためだけに作られた、

内装が白で統一された豪華な

特急列車に乗り込んだ。

 

シャネルがロサンゼルスの

ユニオン駅に到着すると、

グレタ・ガルボが両頬に

ヨーロッパ風のキス

をして出迎えた。

 

しかし、シャネルは最終的に、

キャサリン・ヘプバーン

という高慢で角ばった

赤褐色の髪の美女に、より

強い印象を受けたらしい。

 

新聞

 

「ニューヨーク・タイム」

紙はおおむねシャネルの

アメリカ進出を歓迎したが、

「ロサンジェルス・タイムズ」

紙は、ハリウッドに活力を

与えるためにヨーロッパの

ファッションが必要だという

暗黙の示唆に腰を抜かした。

 

誰がパリを必要としたのか?

新聞はシャネルのハリウッド

訪問をこう報じた。

 

 

©Elle

 

シャネルがハリウッドに

来たのは、彼女のシックな

ブランドを業界に提供する

ためではなく、ハリウッドが

パリに代わってファッション

の中心地となり、その

引力がシャネルをハリウッド

に呼び寄せたからだ

ということだった。

 

ユナイテッド・アーティスツ

は、シャネルがハリウッド

に長期的にコミットする

ことを期待して、

ミシンとドレスのマネキン

を備えた豪華なサロンを

用意した。

 

しかし、シャネルはそのサロン

を使うことを拒否したのだ。

 

後に監督となる

ミッチェル・ライゼン

と助手のエイドリアンは、

ゴールドウインのための

シャネルの処女作

「パルミー・デイズ」の

撮影を手伝うことになった。

 

シャネルはエイドリアンが 

優れたデザイナーである

ことを見抜き、それを

尊敬したからだ。

 

©Elle

彼女は特に、1931年の

「マタ・ハリ」でガルボの

ために彼がデザインした

ワードローブを賞賛した。

 

歓迎パーティー

 

ハリウッドにある

ゴールドウィンの豪華な

イタリア風の邸宅で開かれた

シャネルの名誉を称える

レセプションでは、

マレーネ・ディートリッヒ、

クローデット・コルベール、

ガルボ、フレデリック・マーチ、

ジョージ・キューカーと

エーリッヒ・フォン・シュトロハイム

監督といった地元の名士たちが

シャネルを出迎え、

彼はヒールを鳴らして

シャネルの手にキスをしながら、

「あなたは......お針子さん

ですよね?」と尋ねたと

アクセル・マドセンは

記している。

 

シャネルは、嫌な気持ち 

だった筈だが、彼のその

発言を許したらしい。

 

ミュージカル「パルミー デイズ」

 

ゴールドウインがシャネルの

最初の仕事として選んだのは、

エディ カンターと

バスビー ・バークレーの

ミュージカル「パルミー デイズ」

だった。

 

個人的な趣向だけれど、

バスビー・ バークレーの白黒

映画は忘れられないものだった。

 

タップをやったことのある

人なら、昔の映画、

フレッド・アステア、

女優ジンジャー・ロジャース

などの古めかしい、

バスビー ・バークレーの振り付け

を見ているはずだ。

 

バスビー ・バークレーは

天才的な振付師で、

映画ならではの演出、

特撮、カット割りなどを使い、

ミュージカル映画に舞台とは

違う独自の趣向を取り入れた。

 

©hometownstohollywood

 

ダンサー達をその真上から

カメラで見下ろし、隊列を

作り花が咲き乱れるような

万華鏡のような映像を造り出す、

いわゆるバークレー・ショット

の創造を作った。

 

シャネルの仕事は、

「パルミー デイズ」のスター、

シャーロット グリーンウッド

のためにドレスをデザイン 

することだった。

 

しかし、コメディーが

強かったのでシャネルの

趣向ではなく、

気に入らなかった。

 

©hometownstohollywood

 

シャネルのハリウッド

訪問は話題を呼んで、

当代一流だった映画関係者、

美術監督の

ミッチェル・ライゼン

や映画監督の

セシル・B・デミルなどが

シャネルとともに仕事をした。

 

シャネルは

マーヴィン・ルロイ監督

の映画「今宵ひととき」 

Tonight or Never 1931 

1931年で

グロリア・スワンソン

が身に着けた衣装と、

ローウェル・シャーマン監督

の映画Lowell Sherman

「黄金に踊る」1932年で

アイナ・クレアが身に着けた

衣装をデザインした。

 

©Wiki

 

また、グレタ・ガルボと

マレーネ・ディートリヒの

二人が個人的な顧客となった。

 

女優スワンソン

 

エイドリアンはシャネルに、

映画のワードローブは 

「フォトジェニック 」で

なければならず、繊細さは

スクリーンには反映されない

と説明しようとした。

 

クチュールでは、

マネキンはデザインを

引き立てて見せるため

のものであり、スクリーン

では、デザインは女優を

引き立てて見せる

ためのものだった。

 フレンチリーブ

シャネルは、

グロリア・スワンソンが

オペラの歌姫に扮した

次の作品Tonight or Neverで、

さらなる称賛を得た。

 

スワンソンはすでに

「世界で最も着飾った

女性トップ10」の

一人に数えられていたが、

問題があった。

 

©fromthebygone.wordpress

 

スワンソンにはすでに

ルネ・ユベールという好みの

デザイナーがおり、

彼女はシャネルに

抵抗していたから。

 

パリに戻ったシャネルは、

ゴールドウインとの

契約条件を変更し、

ハリウッドのための

デザインはパリで行うから、

女性スターはヨーロッパに

来ればよいと伝えた。

 

当時、スワンソンは

すでにロンドンに滞在

していたため、カンボン通りに

あるシャネルのアトリエで、

今度は鏡で縁取られた

蘭の花のような色のガウン 

のフィッティングを

受けることは容易だった。

 

©fromthebygone.wordpress

1931年の

「トゥナイト・オア・ネヴァー」

でシャネルデザインの

ガウンを着たグロリア・スワンソン。

フォトフェストより。

リー・ルエルによるデジタル彩色。

 

しかし、フィッティングの

間に女優が太って

しまったことを知った

シャネルは激怒し、

スワンソンに5ポンド

痩せるよう要求した。

 

やがて彼女は、

スワンソンがアイルランド人

の恋人でプレイボーイの

マイケル・ファーマーとの

間に密かに妊娠して

いることを知った。

 

女優は妊娠を隠すために

硬いゴムのコルセットを

つけるよう主張し、シャネルは

それがドレスのラインを崩すと

考えたが、シャネルは体重増加を 

隠すことに成功し、スワンソンに

ガウンだけでなく、テーラードスーツ

の上に真珠のロープを着せる

ことで、彼女の持っていた

セクシーなルックスを

アメリカの観客に紹介

することができた。

 

©fromthebygone.wordpress

 

1931年の

「トゥナイト・オア・ネヴァー」

でシャネル・デザインの

ガウンを着たグロリア・スワンソン。

 

いくつかのシーンでは、

黒髪のスワンソンは、

クリステン・ウェルチが

観察したように、

「シャネル本人に酷似している 」

とさえ言われ、スワンソンを 

「シャネルの理想の体現者 」

にしてしまった。

 

「トゥナイト・オア・ネヴァー」

は、スワンソンを

サイレント映画スターから 

サウンドの時代へと

導く作品だった。

 

 

©fromthebygone.wordpress

 

「市民ケーン」の

グレッグ・トーランドが

撮影を担当し、

「リトル・シーザー」の

マーヴィン・ルロイが

監督を務めたこの映画は、

ゴールドウィンが期待したほど

の注目を集めることはなかった、

その理由には、スワンソンの

私生活に関する

センセーショナルなニュース

がついていた、それは

アンリ・ファレーズ・ド・

ラ・クードレー侯爵との離婚、

それに続くマイケル・ファーマー

との急な結婚が映画の

宣伝に影を落としたことが

挙げられている。

しかし、シャネルのデザイン

は高い評価を得た。

 

 

(続く)

 

ありがとうございました。

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3月 

ガブリエル・ボヌール・

シャネル展2

V&A

ココ・シャネル 

 

 

シャネル・モードChanel Modesを開店

 

1910年、シャネルは27歳で

婦人用帽子職人の

ライセンスを取得した。

 

そして、パリ1区西側にある

ヴァンドーム広場に近い

パリで最もファッショナブルな

地区のカンボン通り21番地に

帽子専門店ブティック

「シャネル・モード」 

Chanel Modesを開店した。

 

 

©historyextra

 

このあたりは既にブティック

業界が確立されていたため、

シャネルはこの店では彼女が

作った帽子だけを販売した。

 

1800年代の帽子

1870年代頃には、女性用の帽子

に羽や翼、時には鳥全体が 

あしらわれるようになり

150年の間に、女性の帽子の

サイズと同じように、飾りや

装飾も多様化した。

 

©geriwalton.com

 

リボンは羽にフクロウの頭や、

ボルティモア・オオルリ、

ハチドリ、アオカケス、

ローラー、ブルーバード、キツツキ、

のような鳥の剥製が使われる

ようになったが、それだけに

とどまらなかった。

 

ネズミや小さな爬虫類などの

動物も帽子の上に乗せられ、

時には、フクロウの頭、

ダチョウの羽、スズメの羽、 

何房もの花やリボン、

そして4、5羽のウグイス

で覆われていた。

 

1890年代に流行したもうひとつ

の帽子は、アルザス・ボンネット

と呼ばれるものだった。

 

©geriwalton.com

 

それはボンネットに大きなリボンと、

時には毛皮の飾りを付けただけの

シンプルなスタイルだった。

 

 

女優が装ったシャネルの帽子

 

シャネルの名前がで始めたのは

1912年に「女の一生」などの

小説で有名なギ・ド・モーパッサン

の小説「ベラミ」Bel Amの戯曲化

で演出家フェルナン・ノジエール

の舞台女優ガブリエル・ドルジア

がでシャネルの帽子をかぶったこと

からシャネルの名前が売れ始めた。

 

その後、ドルジアは「レ・モード」

Les Modes誌に掲載された写真に

おいて再びシャネルの帽子

を使用している。

 

ブティック「ガブリエル・シャネル」を開業

1913年、30歳になったシャネルは

アーサー・カペルの資金提供で

港・ヴィラ・カジノ・ホテル等

を擁するリゾートの町である 

ドーヴィルにブティックを開業し、

レジャーやスポーツに適した

豪華でカジュアルな服装

を打ち出した。

 

ドーヴィルのブティック前に立つ

ガブリエル シャネル、1913年

© Collection Deauvilloise, Deauville (France)

 

シャネルの製品は当時主に

男性用下着に使用されていた

ジャージーやトリコットのような

安手の生地で作られていた。

ブティックの立地は最高であり、

ドーヴィルの中心にある

ファッショナブルな

通りにあった。

 

ここでシャネルは帽子、

ジャケット、セーター、そして

セーラーブラウス

のマリニエール(marinière

)を販売した。

 

妹たちの援助

 

シャネルは妹の

アントアネット(Antoinette)

と同い年の父方の叔母

アドリエンヌ(Adrienne)

という2人が献身的な

支援をしている。

 

シャネルの作品のモデルを

務め、シャネル製品を

宣伝するためにシャネルの

デザインの服を着て、毎日の

ように街の遊歩道を練り歩き

回ったのだった。

 

ロングスカートからパンツへ

 

シャネルが31歳の1941年、

第一次世界大戦が始まった。 

 

女性たちのファッションは

長いスカートから、動きやすい

男性のようなパンツスタイル

に変わっていった。

 

シャネルと彼女の犬

©hungertv Coco Chanel in 1930, with her dog, Gigot

 

シャネルは

そのパンツのデザインの新作を

発表すると、それは人々に

取り入れられていった。

 

ビアリッツにブティックを開業

 

1915年、シャネル32歳、ドーヴィル

での成功を再現することを決意し、

ビアリッツに本格的な店舗を出す。

 

ビアリッツBiarritzは19世紀

以来、王族貴族の集う 

リゾート地として知られていた。

 

ビアリッツのクチュール メゾン、1931年

なかなか素晴らしい所だったようで、

ヴィクトル・ユーゴーは

「私はビアリッツより魅力的で

より素晴らしい場所を知らない」

とまで言わせている。

 

© National Library of France / Frères Séeberger

 

スペインの富裕層の顧客に

近いコスタ・バスカの

ビアリッツは金持ちグループ

や第一次世界大戦で自国から

亡命してきた人々の遊び場であった

 

クチュリエール・仕立て屋

 

ビアリッツのブティックは

クチュリエール、つまり

仕立て屋、仕立て師のことで、

顧客の一人一人に、デザイン

から仕上げまで全てのサービス

を請け負うことで裕福な顧客用

のブティックだった。

 

ビアリッツの店舗は

フロントがなくカジノの

正面の別荘内にあった。

 

ここでは1年間の営業で、ビアリッツ

でのビジネスは成功を収め、

シャネルは1916年にカペルが

提供した資金借金を全額返済する

ことができるようになっていた

 

最後のロシア皇帝の従弟

ドミトリーとの恋

 

シャネルはビアリッツで

ドミトリー・パヴロヴィチ大公

Grand Duke Dmitri Pavlovich 

(1891 - 1941) 

と出あった。

ドミトリーは追放

されたロシア貴族の

ロシア大公で最後の

ロシア皇帝ニコライ2世

の従弟にあたる。

 

©Wikipedia

 

グリゴリー・ラスプーチン暗殺の

実行者として知られている。

 

ドミトリーは1991年の

ソビエト連邦の崩壊後、

王党派から帝政復古の活動に

ロシア皇帝として祭り

上げようとされたが、

彼はこの求めを辞退している。

 

ドミトリーはイケメンな外見からも

プレイボーイとして知られ、

ロシア社交界の中心でもあった。

 

ドミトリーは関係を持った

女性のことを日記に書き残して

いるが、その中でも

ココ・シャネルとの関係が最も

印象に残ったと記している。

 

ドミトリーはロシア時代の 

コネクションで、シャネルの香水

として有名な「NO.5」の調香、

開発で知られる

エルネスト・ボーを紹介するなど、

シャネルに少なからず影響を与えた。

ガブリエル シャネルとディミトリ パヴロヴィチ大公

 

© Collection Chanel 

 

こうしてビアリッツで始まった

ロマンティックなドミトリーとの恋は

密接な関係となって続いた。

 

 

「メゾン・ド・クチュール」

 

1915年「メゾン・ド・クチュール」

シャネルは、パリの文学界や

芸術界の人気者となっていた。

 

バレエ リュスやジャン コクトー

の舞台「オルフェ」の衣装など

をデザインし、コクトーや

画家のパブロ ピカソと

友好を持った。

 

1918年、シャネルは事業を

拡大して、同じカンボン通りの 

31番地に新店舗を開店した。

ガブリエル シャネルはカンボン通り

31番地の建物を購入し、そこに

クチュール ハウスを構えた。

この「31番地」の建物には

ブティック、サロン、アトリエが作られ、

それは今日も続いている。

 

© The Regents of the University of California / 

City of Paris / Bibliotheca historica

 

1919年までに職業を

「クチュリエール」、

この店舗をメゾン・ド・クチュール

maison de couture)として 

登記現代的なブティックを

目指す彼女は、1921年から、

香水のほか、衣服や帽子に

合ったアクセサリーを、次いで

ジュエリーや化粧品なども

販売するようになった。

 

©amanaimages

 

敷地もさらに拡大し、

1927年までに、カンボン通り

23番地から31番地までの

一画に相当する5件の

不動産を手に入れた。

 

 

シャネルの本物の恋

アーサー・エドワード・

“ボーイ"・カペルと

関係を持ち始めた。

 

 

(続く)

 

 

ありがとうございました。

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