8月15日は日本の太平洋戦争の終戦の日、

敗戦の記念日である。

私はテレビはほとんど見ないが、

朝、女房が起きた時(五時半)に、

朝食の支度をしてあげて、弁当を作ってあげて、その後、

起きてくる娘の朝ごはんも作ってあげてという、

女房が出勤するまでの二時間ほどは、

毎朝、テレビを見ている。

一応、見ているのはテレ朝の朝番組。

まず、オリンピックの話。

日本はたくさんメダルを取った。

フランスと日本の時差は八時間あり、

日本時間の朝六時というと、

フランスは夜の十時で、その日、

パリで行われたオリンピックの

いろんな競技の決着がつく時間で、

けっこう熱心に日本選手の活躍する様子を

朝のテレビ番組で見せてもらった。

かなりたくさんのメダルが取れてよかった。

国別に獲得したメダルの数のランキングで第3位。

私はスポーツはその国の国民の民度の高さ、

大衆文化の程度を表したものだと思っている。

中国のメダル数は、国の指導者が、

「メダルの獲得数は国の権力を体現したもの」という意識があり、

作為的な国家主導のスポーツ政策の結実なのではないかと思う。

そういうことは、昔、ソ連が一生懸命にやっていたことだった。

日本ももちろん、国が一枚、奨励策を打ち出して

応援したということもあるだろう、

しかし、例えば、松山英樹のゴルフは当然の結果としても、

乗馬とか、近代五種とか、こんなスポーツでも

メダルが取れたかという競技でも、入賞した。

伝統的な競技も十分に活性的だし、

新しいブレイキンやボルダリングのような

新しい競技も成績が良かった。

スケートボードは14歳の女の子が金メダルを取っている。

そういう、さまざまのことをパリオリンピックで目撃して、

日本の大衆文化は、新しいレベルに発達しようとしている

かもしれないという気がちょっとした。これはまさに、

戦後の七十九年間日本という国が守りつづけてきた

[自由]という思想の結実だと思う。

 

ここから本題。

8月13日のテレビ朝日の『大下陽子ワイドスクランブル』で

共同通信の論説委員久江雅彦氏が出てきて、

日米地位協定の不平等の話をしていた。

日本に米軍基地があるなかで、

日本はアメリカ軍に関わる司法の権限を

ほとんど持っていないという話、沖縄に

米軍関係の関連施設(基地など)の70%以上が集中していて、

沖縄の住民は駐在米軍とのトラブルでいつも悩まされている、

という話をしていた。そのことについて、

日本人の90パーセントが「それはそれでしょうがないと

考えている。ないしはそれ(沖縄に基地が集中していること)を

気にしていない」というのである。

 

これはちょっと考えさせられた。女房が夏休みで、

一緒に昼飯(前日に作ったミネストローネにパスタを茹でて、

スープスパゲティにして食べた。女房はダイエットで、

シリアルにミルクをかけて食べていた)を食べながら、

久しぶりにちゃんと昼間放送のテレビを見た。

 

沖縄が体現している日米の防衛協定の偏務性とか、

このへんの話は、電波メディアのタブーに近く、

うっかりするとスポンサーや政府から横槍が入りやすい、

テレビで公然と放送できるギリギリの話で、大下容子と

あの番組のスタッフはよくやっていると思いながら、番組を見た。

他の民放のお笑い芸人たちが無原則に出てくる番組も、

チョイ見したのだが、そういうのは、いくら本人たちが笑って、

面白そうにしていても、ちっとも面白くない、

コイツらどうにもならないなというのが感想である。

 

大雑把なことを書くのだが、日本は敗戦国で、

戦争に負けてアメリカに言われた通りの国づくりをして、

戦争責任の取り方が不明瞭なまま、

[戦後]という約80年の歳月を歴史にしてきている。

(太平洋戦争も元を糺せば日本だけの侵略戦争ではなく、

19世紀の西欧先進国の侵略・植民地政策から

始まったことではないかというのが私の持論なのだが)、

思えば(どの資料を読んでもわかるが)、

8月14日まで鬼畜米英、本土決戦などといっていたのに

次の日(15日)には一億総懺悔、アメリカは救世主という話になって、

自国の膨大な戦死者やアジアの侵略戦争の被害者たちに目をつむり、

次の日から、戦争が終わってよかった、これから自由な生活が始まる、

みたいなことで、いきなり「リンゴの歌」とかが流行した。

進駐軍の急進派が作った戦争放棄をうたう憲法を受け入れ、

経済成長を最優先して貿易に依存する産業国家として

資本主義がめいっばい発達するところまでやってきた。

わたしはあの戦争の終わらせ方のねじれが、まだ未解決のまま、

ここまできてしまったということを考える人間の一人で、

その敗戦後の立国の矛盾が80年の歴史のなかで、

沖縄に凝縮的に体現されている基地問題や、

日米の不平等な地位協定の歪んだバランスや、

米兵の犯罪を日本の司法が捌けないなどの具体的な形として、

さまざまの事件がまさしくいま露呈しているのだと思う。

沖縄の人たちがかわいそうだと思う。

また、自民党で起きたパーティ券問題のように、

はっきりと汚職と言える政治的な不祥事があっても、

当事者がなかなか責任を取ろうとしないなど、

自分が汚れていることを知ってもなんともなくて、

平気でいられるどこかの県の知事のように

本人が汚れの感覚を自覚できないという[不感症]な情況も、

敗戦の、戦争で負けたことをこれでいいんだと誤魔化した

戦後の文化風土の曖昧さが醸成したものと、私は考えている。

 

このことを解消するには、どうすればいいのか。

文化はそもそも、人間存在のありようと同じように

表裏を持ったものだと思うが、

いまの日本の状態というのは、[表]はいいとして、

[裏]は、このままではちょっとまずいのではないか。

[裏]の具体的なことなのだが、日本は敗戦したことで、

戦争の後片付けをほったらかして、ここまで来てしまった。

沖縄の状況とはまったく別の例を挙げれば、ニューギニアとか

ミャンマーの奥地とか、ガダルカナルなどには、死ぬ時に

「天皇陛下万歳!」といったかどうかまではわからないが、

何十万人という80年前の戦死者、戦病死者の遺骨が

誰にも知られることなく、弔われることもなく

ジャングルの中に未拾のままいまも眠っている。

そういうことを思い出すにつけ、

忘れてはならないことがある、

やらなければならないことがあるという気がするのだ。

三島由紀夫ではないけれど、英霊たちの鎮魂も

きちんと精算しなければいけないことなのだ。

これは軍国主義の復活というような話ではない。

日本の侵略戦争の被害者はアジアの二千万人とよくいうが、

これも関係国(中国や韓国など)とそういうことの

調査組織を作って、事実をきちんと突き止め、

実態を確定する努力をしなければならない。

悪いことは悪いのである。ただ事実は正確にするべきだ。

これも、ほったらかしになっていることの一つである。

ほったらかしにしているから、

中国や韓国の嫌日勢力からひどい言われ方をする。

社会のなかで、自由と責任は同じ重さで

存在しなければならない。これらの問題を解決するには、

原点に戻って、最初から、国の形を作り直す

それしかないのだが、それは無理な相談なのだろう。

そこのところ、国の形を現実の地勢に合わせながら、

(中国やロシア、北朝鮮の無茶苦茶に喝然と対応しながら)

敗戦処理の捩れを解消して、国の形をきちんと作り直す、

多分、これがいま、日本ができる自分から進んで

実行が可能な[革命]ではないか。

そのためにはやはり、国(特に官僚たち)が冷静になって、

沖縄がこのままでいいのかという問題意識、

アメリカ軍駐留をどうすればいいかという問題意識、

清潔な政治を実現させるにはどうすればいいかという問題意識を

国民全体に広げて、いまの捻れた状況をどうすれば解決できるか

というところから、護憲派も改憲派も一堂に集まって、徹底的に

この問題を論じるところからしか、脱出口は見つからないと思う。

いまは、ジャーナリズムのなかにも、

そういう対立する意見のものが同じ土俵に登って、

徹底的にやるという、そういうことさえ

当事者の意志も機会も場もなくなってしまっている。

右翼とか左翼といっても、そういう区割りも通用しなくなった。

保守とか革新という区別も、同じように基礎的なところが捻れて、

そのままになっている土壌から寄生的に育った

花木のようなもので、どこかが奇形な印象である。

共産党やその他の野党ももいまや、自民党とセットの

クレーム担当のような存在に堕してしまっている。

 

国が、これ以上盛んなものになって、

一人一人の国民、全員が

みんなで日本に生まれてよかったと思えるような、

そういう国として、さらに繁栄して、文化のレベルが

さらに高くなっていくためには、

そういう全体が一つの流れを作るために集まる、

全体性を保持する[場]が必要だと思う。

これはもしかして出版界がやらなければならないことではないか。

まず、

講談社、小学館(集英社)、岩波書店、文藝春秋の四社が集まって、

編集共同体を作り、そこで共同編集した雑誌を、

[戦後文化の再構築]ということを趣旨にして

創刊させたらどうだろう。

発売はマガジンハウスがやるといいかもしれない。テレビや

いま、儲かってしょうがない商業広告のクライアントたちも、

みんなで、清潔な日本を改めて作り直すために一堂に集まるといい。

そうすれば、日本の経済成長率は、往年の勢いを復活させ、

外人の観光客も、外国からの留学生ももっともっとたくさん、

日本に来たいと思ってくれるのではないか。

いま、金がじゃんじゃん儲かっているのだから、

このままでいいじゃないかという意見もあるだろうが、

わたしはなんか気持ちが悪い。

 

他人を犠牲にして自分の平穏な生活がある。

そのことに自分に対する不潔感を感じる。

世界の貧困までは責任は負えないが、

日本国内のことはやはり[自分の世界]で起きたことだ。

どうすればいいかといえば、この国のみんな、

国民一人一人がそういう感覚をはっきりと自覚して、

自分の生活の意識を変える、

このことが、わたしたちがいますぐできる[革命]だと思う。

金の問題だというのなら、とりあえずは、

ふるさと納税を沖縄に集中させて沖縄を

米軍が駐在していても、産業の盛んな、物質的に豊かな、

住みやすい場所にするとか、そういうことだろう。

金回りさえ良くなればいいということではないが、

恒産なくして恒心なし、と孟子もいっているではないか。

ふるさと納税なら、税金を払っている人、誰でもできる。

[革命]という言葉は使い古されて、

映画『翔んでさいたま』の中では完全にパロディ扱いで、

汚れに汚れてしまった単語だが、

他に適当な言葉がない。私がいう[革命]は

自分の生活のなかで自分一人でやる、

生き方の仕切り直しである。

 

21世紀の革命がどういうものなのか。

そういう[汚れ]を、わたしたち一人ひとりの問題として

真摯に受け取る、そして、自分にできることをする、

それは政治活動とかそういうことではなく、

生活

のなかで、自然にできることなにかを探す。

そういうことなのではないか。わたしたちはまず、

その新しい[社会意識]の形を作り直すべきだと思う。

 

戦争が終わった日にまつわって、

今日はちょっと、硬い話を書いた。

 

どんなものだろうか