プレジデントという雑誌に、作家・五木寛之氏のインタビューが載っていた。
のを、夫が見つけた。
インタビューテーマは、「捨てない生き方」。
夫が図書館で借りてきたのだが、いかにも私に読みなさいと言わんばかりの雰囲気で、リビングテーブルに置かれていた。
「捨てない妻」への強い配慮を感じる景色…。
五木さんは、「捨てる」ことがとっても苦手な方らしい。
ガラクタでもついつい保管してしまう、そういう自分を以前はあまり世間に出せなかった、とも。
世の中は片付け・断捨離ブームで、「終活」という言葉まである。
私たちの親世代がいろんなものを溜め込むことについて、本人が生きているうちにどうにかしてほしい、と私たちは常々思っている節がある。
それは仕方がない。後処理をするのは子である私たちだから、私たちのために少しでも片付けておいてほしいと思うのは自然だと思う。
ただ、断捨離することで、親たち自身も今よりきっと豊かに暮らせるはずだと、多分私は思っている。
捨てたり、ものを減らしたりすることで豊かに生きられる人がいる。
それと同じように、ただのガラクタも、浅く長い人付き合いも、執着なんかも全部そのまま身の回りに残すことで豊かに生きられる、そういう人もいるんだよということを、五木さんはインタビュー内で語っていた。
よく知らないおじさんがそういうことを言っても「ふーん」だけど、あの五木寛之がとなると話はちょっと変わってくる。
多くのモノを残してきたからこそ心が豊かになり、あんなにたくさんの作品も生まれたのかなとか考えたら、ものすごく説得力があるなと…
断捨離については、私も一つ思うことがある。
「断捨離で豊かになる」とか、「断捨離でお金が貯まる」とかって言えるのは、すでにある程度のお金(稼ぎ)がある人に限られるんじゃなかろうかということだ。
私が幼い頃、自営をしている実家にはとにかくお金がなくて、父はダブルワークで生計を立てていた。
築100年以上の古い実家家屋、私が生まれた時は居間がペラッペラの板張りだったけど、カーペットみたいなものを買うお金が無かった。
代わりに、ちょっと分厚いビニールシートみたいなものを敷いて過ごしていた。
それが湿気でペタペタと足裏にくっ付く感じやなんかを、いまだによく覚えている。
実家にお金がないのは、家業自体がとにかく稼げない職種なのと、家業の継続自体にとんでもなくお金がかかることが原因だ。
もはや本業みたいな副業でお金を稼ぎ、それを代々の家業に費やして、生活費がちょっとだけ残る、みたいな感じ。
そういう家計状況だと、「ダブってるから」みたいな理由でものを捨てるなんてできない。「賞味期限切れてるから」みたいな理由でも無理だ。
タオルは絶対自分で買わずに、粗品でもらったものを地道に消化していった。
頂き物の乾物も、賞味期限は無視。少しずつ少しずつ、順番に消費していった。
食器もそうだ。皿もコップも時々割れることがある。棚の中に山ほどある頂き物の食器を少しずつ使った。
100年前からありそうな、錆びたトンカチもあった。古いものが数本あって、でも、捨てない。
どのトンカチも古すぎて、使っているうちに木製の柄が割れることがあったからだ。
そうしたらまた次の、クソ古いトンカチの出番である。
底が抜けそうな廊下を、そういった工具で修理しながら過ごした。
お金は無かったが田舎で土地はあったので、「いつか使うかもしれない」っていうものが山ほど保管してあった。
その「宝の山」を有効利用しながら、両親は私を育てた。
家にはたくさんのモノがあったけど、あの当時に「さぁ断捨離しましょう!その方が豊かに暮らせます!」なんて言われても、両親も私も鼻で笑ったと思う。
ただ、それはもしかしたら、私が本当の「断捨離」ってものを知らないだけなのかもしれない。
プロのアドバイスをもらいながら、ちゃんと取捨選択して、今使うものだけを残したら、実家のお金が貯まるのはもっと早かったという可能性はある。
でもそういう発想って、「もし断捨離に失敗して必要なものを捨てちゃっても、最悪もう一度買うことができる」、そういう余裕ある家計状況が前提になるような気がする。
当時の両親に、そういう余裕は、金銭面にも心理面にも存在しなかったんじゃなかろうか。
「捨てない生き方」の五木寛之さんも、少年時代に朝鮮半島で終戦を迎え、母を亡くし、幼い弟の手を引いて38度戦を越え、ようよう日本へと引き揚げた方だ。
モノを持てない辛さというのを、これでもかというほど経験していらっしゃるだろう。
39歳の私と、両親の世代とでは、やっぱり生きてきた時代・世界が違う。
私個人的には断捨離賛成派だが、果たして両親にとってはどうだろうか。
私が両親に断捨離を勧めることは、たくさんの「宝の山」を活かして私を育ててくれた父母の人生を否定することにもなりかねないなと、最近は思うようになった。
だから、「もうこれ捨てたら」みたいなことはあえてあんまり、言わないようにしている。
いつか私が、親の代わりに、すべてをキレイサッパリ捨てなきゃいけない。
そういう大変な日が来るだろうことも覚悟しているつもりだ。
※以下、長い余談です。
当記事を書くにあたり、私は五木寛之さんの著作を何一つ読んだことがない、語れることが一つもないぞと思い、折角の機会なので図書館で本を借りてみた。
たまたま棚にあったのがこちら。
五木寛之「親鸞」
親鸞とは、浄土真宗の宗祖。
この「親鸞」という物語が、昔とっても話題になっていたことは知っている。たしか電車の中吊り広告で見た。
親鸞の一生を、清く正しく美しく描いた(言い換えれば退屈な)宗教本なのかと思っていたが、実際に読んだら全然違っていた。
スカッとするシーンが山ほど出てきて、かと思えばちょっと目を背けたくなるような生々しい表現もあったりする、冒険活劇だった。
分かる人にしか分からない感想で申し訳ないが、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を文字起こししたらこんな感じだろうなと。
いろんなどんでん返しとか、伏線回収なんかがスーパーミラクル鎌倉殿だった。
(浅い感想ですみません。)
本書「親鸞」の舞台も、ちょうど鎌倉殿と同じ時代である。
山川日本史的には「鎌倉仏教」というワードがある通り、親鸞が生きたのは鎌倉時代だ。登場人物も丸かぶり。
鎌倉殿の裏側ではリアルにこんなことが起きていたのかなと、スピンオフみたいな気分で「親鸞」も読んだ。
すごく面白かったので興味のある方は是非読んでみてほしい。
まだ9歳の親鸞が殺されかけるところから始まる。
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