1595年3月17日(文禄4年2月7日)は陸奥黒川城主42万石になった蒲生氏郷の命日にあたります。




氏郷は引冶2年(1556年)蒲生賢秀の嫡男として生まれます。
氏郷は織田信長に早くからその才を見出され、信長の次女冬姫と結婚します。
その際信長自らが烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り、織田氏の一門して手厚く迎えられます。

武勇にも優れ、永禄11年(1568年)の伊勢国北畠具教具房との戦いで初陣を飾り、その後は元亀元年(1570年)の姉川の戦い(こちら 参照)、天正元年(1573年)の朝倉攻めこちら 参照)・小谷城攻めこちら 参照)、天正2年(1574年)の伊勢長嶋攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍し、数々の武功を挙げています。
天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により亡くなると、安土城にいた信長の妻子を保護し、居城日野城にて明智光秀に対して対抗姿勢を示します。
光秀は近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野城を攻略する手はずでしたが、光秀は直前に山崎の戦いにおいて羽柴秀吉(後の豊臣秀吉(こちら 参照))に敗れ、落ち武者狩りにあい山林で討死します。


その後は秀吉に仕え、伊勢松ヶ島12万石を与えられます。
氏郷は秀吉に仕えてからも、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いこちら 参照)、天正13年(1585年)の紀州征伐、天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐などに従軍します。
また、天正12年に秀吉から『羽柴』性を与えらえます。
氏郷は高山右近らの影響を受け、大阪においてキリスト教の洗礼を受けレオン(レオ)の洗礼名を受けます。
小田原征伐後は奥州の伊達政宗こちらこちら 参照)の抑えとして陸奥会津に移封され42万石(検地・加増により92万石)の大領を与えられます(会津は政宗の旧領)。
この転封には氏郷は不満を漏らし、大加増にはなったが、京から遠くはなされたことから自分に中央には来るなと言われたようなものだと家臣に漏らしたと言われています。
遠くはなされた秀吉の重臣に両兵衛の異名を持つ黒田官兵衛こちらこちら 参照)がいます。
この二人は秀吉からその才を恐れられ、遠くに飛ばしたとも言われています。
ちなみに徳川家康も中部地方から関東地方へ京から遠く離されましたが、関東平野の広大な土地を見て好機とし自身の力を蓄えていっています。



会津に移封されてからは政宗と度々対立し、天正19年(1591年)の大崎・葛西一揆において氏郷は政宗と共に一揆鎮圧をしますが、秀吉に『政宗が一揆を扇動している』と告発し、政宗は白装束に身をまとい、金の十字架を背負い京に赴いたと言われています。
このさいの政宗の弁解は自分が書いた文書には必ず花押の鶺鴒(せきれい)の目に穴を開けているが、氏郷の持ってきた文書には目がないという事で偽物だと弁解し、秀吉はこれを認めますが、米沢城72万石から岩手沢城58万石に減転封されます。
ちなみに政宗が送った正式文書にはどれも目に穴は開いていないといわれています。
文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城へと出陣しますが、途中体調を崩し会津に帰国しますが病状が悪化していきます。
秀吉は前田利家や家康に名のある医師を氏郷に派遣するよう命じ、秀吉自らも曲直瀬玄朔を派遣をしています。
しかし、氏郷は病が治ることはなく文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において、病死します。
氏郷の死は秀吉やその側近石田三成こちらこちら 参照)、あるいは政宗、上杉景勝の重臣直江兼続による毒殺とも言われていましたが、今ではほぼ否定され、曲直瀬玄朔が残したカルテ『医学天正記』にはその内容から今でいう直腸癌・膵臓癌だったと推測されています。
氏郷の死後嫡男秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され、12万石に減封されてしまい、会津には景勝が入ります。




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