伊達政宗は父輝宗を非常に慕っていたと言われています。
母義姫は政宗ではなく、次男の小次郎を次期当主にさせようとしていましたが、輝宗は政宗を当主にさせようと努力していました。
しかし、その輝宗に当主としてはあるまじき事が起こります。
敵対していた二本松義継が降伏のため伊達氏の居城に赴き、そこで領土安堵されますが、義継は伊達氏が自分を殺すために居城に呼んだと思い、当主輝宗を拉致し二本松城に居城に人質として連れ帰ろうとします。
その時政宗は、山で狩りをしていたと言われています。
父輝宗が拉致されたということを家臣から聞いた政宗は急いで父のもとに駆けつけます。
そして川のところで義継に追いつきますが義輝が人質に取られているため、政宗は手を出すことができませんでした。
すると輝宗は政宗に


『当主が人質になったなど後世の恥だ。
このまま自分と一緒に義継を撃ち殺せ。』


と言い、政宗はためらいながらも覚悟を決め、率いていた鉄砲隊に輝宗もろとも義継を撃ち殺せと命じ義継を撃ち殺しました。
その際輝宗は鉄砲の弾にも当たったと思いますが、その前に死を悟った義継に刀で輝宗を八つ裂きに切りつけたと言われてもいます。
こうして政宗は伊達家を継ぐことになります。
政宗は報復として二本松城に攻め込みますが、援軍に駆けつけてきた佐竹軍などに伊達軍は窮地に陥りますが、老臣鬼庭良直などにより窮地を免れます。
この戦いで政宗は矢弾を身体に浴びていたとも言われています。
この戦いを後に人取橋の戦いと呼ばれ、優勢に進んでいた佐竹軍は北条軍が本拠目指して進撃してきたという知らせを受け、その晩撤退して戦いは終わります。
その後は様々な戦いに勝利を重ねていく政宗は奥州で覇を唱えていくことになります。


政宗には数々の派手な逸話が多く残っています。
1591年に蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を平定しますが、この一揆を政宗が扇動したという噂が立ちます。
そして氏郷は決定的な証拠として、一揆に当てた手紙を見つけ、これを秀吉に提出をし、政宗は審議にかけられます。
その際政宗は白装束で赴き、金の十字架を背負い秀吉の前に現れたと言われています。
それは政宗自身死を覚悟し、自分が死ぬのはこの金の十字架が似合うという事を示しています。
そして審議での供述は


『一揆勢に出した証拠文書は鶺鴒の花押に目が入っていません。
私が送った書状にはかならず花押に目をつけています。
嘘だと思うならこの場にいらっしゃる方々に送った書状を目を凝らして見てください。
かならず目が入っています。
これは私が送った書状と偽物の書状を見分けるために付けています。
偽物を書いたものにはこのことを知らないので当然目が入っていることを知らないので、氏郷殿が持って来た書状は私が書いたものではありません。』


と言い訳をします。
この言い分は秀吉自身嘘だと思っていたでしょうが、それを立証する証拠がなく、秀吉はこの罪を許したと言われています。


別の話では朝鮮出兵の際、政宗は京へ上洛するのですが、その際政宗軍の部隊は非常に豪華絢爛なもので、京の町の人々の目をおおいに惹きつけたと言われています。
このことから派手な装いを好み着こなす人を『伊達者』と呼ぶようになったと言われています。


1595年、実は秀吉からまた謀反の疑いをかけられ呼び出されることがありました。
関白豊臣秀次が謀反の疑いで切腹をさせられ、親しかった政宗もこれに関わっていたのではないかというのです。
しかし、これは徳川家康が助言をしたため、無関係とみなされ、難を逃れます。
この時から政宗と家康は親しき間柄になっていきます。


大坂の陣というのが後に起こりますが、その戦いの夏の陣というのがあります。

その際、伊達軍は独自で編み出した戦術馬上鉄砲隊を使い、後藤又兵衛基次を討ち取り、戦況を有利に進めていきます。

そして遅れて六連銭の旗印を掲げ真田幸村率いる真田赤備えに敗れます。

そして大坂の陣は徳川の圧勝に終わり、豊臣方についた武将たちは捕らえられてほとんどの武将は討ち首にされました。

代表的な人物としては大阪五人衆と言われた長宗我部盛親などがそうです。

盛親は大阪落城後逃亡を図り、京にて家康を討ち取ろうとしますが、失敗に終わり三条河原にて首を晒されました。

これにより長宗我部家は事実上滅亡をします。

しかしそうならなかったものも中にはいます。

それが伊達政宗と戦った真田幸村です。

真田幸村と嫡男大助幸昌は大阪の陣で討死をしてしまいますが、幸村の次男真田守信は大坂の陣の後、伊達家家臣片倉重長に身柄を引き取られ、守信をかくまいました。

片倉重長は片倉小十郎景綱の子で、真田幸村の娘阿梅を妻としていたため、真田一族を絶やすのを心持たないと思い、かくまったと言われています。

そして幕府の捜査が落ち着いた頃、守信の子真田辰信の代で性を片倉から真田に戻すことを許され、今もこの家系は続いています。

ちなみに守信は真田性を名乗らず、片倉性を名乗っていました(幕府の捜査を免れるため)。


伊達政宗の墓所は瑞鳳殿(ずいほうでん)にあります。

青葉神社には武振彦命とし政宗を神号として祀られています。


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