1600年11月6日(慶長5年10月1日)は豊臣政権五奉行の一人石田三成の命日にあたります。

石田三成は永禄2年(1559年)に近江国坂田郡石田村(現滋賀県長浜市石田町)で石田正継の次男として生まれます。
織田家が浅井家を滅ぼし(こちら 参照)、天正2年(1574年)頃、信長から秀吉は北近江12万石を預かり、琵琶湖の畔近くの長浜に城を築き、長浜周辺で浪人を雇い始めます。
その一人が石田三成です。



三成と秀吉の出会いには有名な逸話があります。
それが『三杯の茶(三献茶)』です。
秀吉は鷹狩りの帰りに喉の渇きを覚え、近江国伊吹山の観音寺に立ち寄り、茶を馳走になります。
寺の小姓は初めに大きめの茶碗にぬるめの茶を渡し、2杯目にやや小さい茶碗にやや熱い茶を入れ、3杯目には小ぶりの茶碗に熱い茶を振る舞いました。
秀吉は何故3杯とも違う形で茶を出したのか問うと、


『まずぬるめの茶で喉の渇きを潤し、後に熱めの茶を出すことで茶の味を楽しんで貰おうと思ったからです。』


これを聞いた秀吉は寺小姓の気配り・心配りに関心をし、和尚に頼み自分の家臣に取り立てたという逸話です。



また、茶にまつわる逸話はもう一つあります。
それは三成と親友だった大谷吉継とのエピソードです。
秀吉は茶会を開き、自ら茶を立てそれを家臣たちに振舞っていました。
その際吉継も茶会に招かれていましたが、吉継はらい病(今で言うハンセン病)を患っていたため、吉継は飲むふりだけして茶碗を回そうとしたのですが、顔から膿が茶に落ちてしまいます(吉継も気づきますが、取ることができませんでした)。
回された者たちはそれを見てとても飲む気になれず、いずれも飲むふりだけして回していきますが、三成はためらわずすべて飲み干しました。
これ以降二人の間には一層深い友情が生まれたと言われています。
後の関ヶ原の戦いの際、当初は家康側についていた吉継は大垣城にて三成の家康討伐の話を三成から聞き、初めは説得をしましたが、三成の意思が固いことを知った吉継は友情を取り三成に加担し、関ヶ原の地で散っていきました。



三成は賤ヶ岳の戦い柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当したり、小牧・長久手の戦いこちら 参照)にも従軍します。
また、太閤検地でもその政治手腕を発揮していきます。


しかし、三成は戦争に関してはあまり大きな手柄を立てることがほとんどありませんでした。
有名なものとしては今映画放映されている『のぼうの城』で有名になった忍城攻めでは、秀吉の小田原城包囲が終結しても落とすことができず、水攻めする際完成間際で堤防を壊され、大損害を受けてしまいます。

慶長5年9月15日の関ヶ原の戦い(こちらこちら 参照)において、松尾山に陣を敷いていた小早川秀秋の裏切りにより西軍壊滅してからは、裏切り者秀秋他脇坂安治らにより9月18日、三成の居城佐和山城は落城します。
そして9月21日、家康の命令を受け、三成を捜索してた田中吉政の部隊に見つかり、身柄を拘束されます。
翌22日大津場に護送され、城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見します。
9月27日、大阪に護送され、28日には小西行長安国寺恵瓊と共に大坂・堺を罪人として引き回されることになります。
9月29日に京都に護送され、10月1日、家康の命により六条河原で斬首されてしまいます。
首は三条河原にさらされ、後に京都大徳寺の三玄院に葬られます。
また、大徳寺には三門という重要文化財があり、千利休この門の上層に自分の木像を安置した事から、秀吉の怒りを買い切腹を命じられたとする説があります。
像を門の上層に置くことにより門を通るものは利休の下を通るとの事で秀吉の怒りを買ったと言われています。




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