関ヶ原の戦い午前に関してはこちら を参照してください。



西軍はまとまりがないにしろ、まだ東軍地形などにより互角に戦うことができていました。

しかし、正午過ぎ、もう一つ西軍敗北の原因となる出来事が起こります。
松尾山に陣を敷いていた小早川秀秋が動かなかったことに業を煮やし、家康が威嚇射撃をし、これに臆した秀秋は手勢1万5千を率いて松尾山を下りて、こともあろうに麓にいた大谷吉継目掛けて攻撃を仕掛けます。
この時一般的には鉄砲により家康は威嚇射撃をしたとされていますが、松尾山は標高300mに達する山であり、戦闘の最中に火縄銃の音が届くのか、また麓では大谷隊と藤堂隊が激戦を繰り広げさらに西軍の武将がいたため、近づくことが困難ではないかという点から、打ち込まれたのは火縄銃ではなく大筒だったのではないかいう説もあります。
小早川の裏切りは麓にいた吉継も予想をしていたため準備として、脇坂安治小川祐忠など4千2百の兵を配置していました。
しかし、吉継にとって予想外のことが起こり、小早川封じに配置していた4千2百の兵も一緒に寝返りをしてしまいました。
これにより吉継は敗北を悟り自刃して果てました。
大谷隊壊滅により、小早川隊や藤堂隊はそのまま激戦区の宇喜多隊へ攻撃を開始し、関ヶ原の戦いは一気に東軍優勢へと傾きます。



小早川隊寝返りと大谷隊壊滅により、旗本中心の家康本隊3万もようやく動き出し、東軍は西軍に総攻撃を仕掛けます。
宇喜多隊も善戦しますが、3倍の兵力差により壊滅し、宇喜多秀家は秀秋と刺し違えようとしますが、家臣たちに止められ苦渋の思いで退却を開始します。
宇喜多隊総崩れに巻き込まれた小西隊は早々と壊滅し、小西行長も敗走してしまいます。
石田隊も東軍の総攻撃に粘りに粘り続けましたが、島、蒲生などの重臣が討ち死にし、壊滅します。
周りが壊滅状態に陥る中途中から戦闘に参加した島津隊も四方八方を東軍に包囲されてしまいます。ここにおいて、島津隊は敵中突破退却戦島津の退き口』が開始され、これにより井伊直政は鉄砲攻撃により傷を受けます。
この傷がもとで直政は関ヶ原から2年後死亡します。
他にも徳川四天王本多忠勝乗っていた馬が撃たれ落馬したと言われています。
島津追撃は度重なる重臣たちの負傷や、家康から追撃中止の命が出ていたことから深追いは中止になり、島津隊も兵80前後に激減しながらも撤退は成功します。
西軍戦場離脱により、関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わります。



しかし、東軍が勝利を収めたとはいえ、徳川主力の秀忠隊は大遅刻をして本戦に参加することができませんでした。
このため、関ヶ原後に行われた論功行賞では関ヶ原本戦に携わった豊臣家恩顧の武将が大幅に恩賞を受けることになりました。
関ヶ原の戦いで反徳川勢力を取り潰すことには成功しましたが、徳川の勢力はあまり増やすことができなかったため、徳川の天下が少し遅れる結果になったとも言われています。



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