1598年9月18日(慶長3年8月18日)は戦国時代日本を統一した豊臣秀吉の亡くなった日に当たります。

秀吉は尾張国愛知郡中村の農民の子として生まれました。

ただし秀吉の出生に関してははっきりとした記録は残ってはいなく、父は木下弥右衛門と言われていますが、弥右衛門についても謎が多く(足軽とも農民とも言われはっきりせず。また、鉄砲足軽とも言われていますが、死亡したのが本当に1543年だとしたら否定されるでしょう)、戦で足を怪我をして引退したとも言われています。
秀吉の母なか(後の大政所)は弥右衛門が死去してから竹阿弥と再婚します。
しかし再婚した義理の父(竹阿弥)とは仲が悪く家を飛び出しました。
そして秀吉は尾張で木綿針を大量に購入し、東(三河は木綿が盛んなためこれを売って旅費を稼いだと言われています)へ仕える相手を探し旅に出ます。
その際、秀吉は今川家家臣松下之綱(通称松下加兵衛)に拾われ短い間ですが今川家の陪々臣(今川家の家臣の家臣の家臣)として任官します。
秀吉の最初の主君は信長ではなかったわけですね。
秀吉の最初の主君は蜂須賀小六とされている資料もありますが、当時小六とであったと言われる矢作橋はまだなく、牛若丸と弁慶の五条大橋の出会いの逸話に習った後世の創作だと言われています。


まだ身分の低い秀吉は自分の名を名乗る工夫(?)をし、よく厠の下に忍び込んで上から用を足す人にいちゃもんをつけていたと言われています。

かけたものは謝りその場で名前を訪ねた際、秀吉は威張って『俺は藤吉郎だ』と名乗って回っていたと言われています。

それ以来、厠に潜む人物として秀吉は有名になったと言われています。

秀吉が今川家を出奔します(同僚に盗人の濡れ衣を着せられ、加兵衛が弁護しなかったため、嫌気を指して去ったとも言われています)。

この時秀吉は今までのご恩を忘れませんと言ってはいますが、さらに『上のものが部下を選ぶ権利があるのと同じように下の者が上司を選ぶ権利もある』と言ったといわれています。

そして尾張に戻り信長に仕えます。


信長と秀吉の有名なエピソードとしてはある寒い雪の日、信長が預けていた草履を履いた時、暖かかったため秀吉に問い詰めたところ


『信長様の足が冷たいだろうと思い、懐で温めておりました。』


と弁解し気の利くヤツと気に入ったと言うのは有名なエピソードですね。
(ギャグマンガとかだと尻に敷いているなんていうのもありますけど)

また秀吉は城造りにもとても長けていて、ある日嵐により城壁が100間壊れ、これを10組に分け1組10間を担当させ競争させることで3日または5日で修復しました。
そして墨俣に一夜で築いた墨俣一夜城も有名ですね。

また、秀吉は人を惹きつけるのがうまく、信長の美濃攻撃時には竹中重治(半兵衛)や蜂須賀正勝(小六)、前野長康らを配下に組み入れたりしています。
その後も数々の戦で活躍し、越前攻めの金ヶ崎の退き口や小谷城攻め、中国毛利攻め等で功績を上げていきます。

そして毛利家の備中高松城を水責めにしている最中秀吉のもとに凶変が届きます。


『織田信長京本能寺にて明智光秀の謀反により討死。嫡男信忠二条城にて討死。』


後に戦国の世を震撼させた本能寺の変です。
しかし、秀吉にとって好都合だったのが毛利側にこれをまだ知られていなかったということです。
秀吉はすぐさま毛利と和睦松城から姫路城さらには摂津国富田までの道のり(約200km)を約10日で終わらせ、明智光秀と山崎にて決戦を行います。
光秀は細川藤孝筒井順慶などに呼びかけますが動かず、兵が集まらないまま決戦を迎えあっけなく敗北し、秀吉は織田家での発言権を大きくしていきます。
この後織田家臣達で誰が信長の後継者になるかを話し合う清洲会議にて秀吉は信忠の嫡男三法師を推すことに成功し、ますます力を拡大していきます。
その後も柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、旧織田の勢力をほとんど自分のものにし、どんどん勢力を拡大していき1590年小田原討伐を最後に天下を統一します。


通常の人の指は5本だと思いますが、秀吉は右手の指が6本(多指症)だったと言われ、信長から『六ツ目』と呼ばれていました。
多くの場合、これは幼少期までに切除して五指とするのが普通ですが、秀吉は周りからどんな目で見られても六指で生涯を通し、天下人になるまでこれを隠すことをしなかったと言われています。
しかし、天下人になってからは記録などから抹消し、肖像画も親指を隠しているものも多いです。


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