瞑想で迷走しないように | 心に光を呼びます Padme★yuki

心に光を呼びます Padme★yuki

誰の心にも、神様とのホットラインはあります。
いろんなもので隠れてしまってるだけです。
私でよければ、見つけるお手伝いをします。

 

 

 

 

瞑想

って、いったい

どういうものでしょう?

 

座禅や阿字観などと

どう違うの?

と聞かれました。

 

座禅は、修行の一つで

心を無の状態にすることだと思います。

これができてからの

瞑想へと移行していくのでは?

 

阿字観は

この、アという梵字を見つめて

宇宙を感じること。

宇宙とは

空の向こうのことではなく

ここも、宇宙の中なのですよ。

宇宙の中に在る自分を感じる。

ということではないでしょうか?

 

瞑想は

上記の二つができて

初めて行う段階なのではないか?

と感じました。

 

瞑想は

宇宙に自分を溶け込ますようなかんじ

ではないのかなぁ?

宇宙と一体となる。

だからこそ

チベットの高僧たちは

瞑想によって宇宙の情報網とつながり

(いわゆるアカシックレコード。時空を超えた情報の母体)

ダライ・ラマの転生を見つけ出すことができるのだと思います。

 

 

以前

★瞑想はカンタン★

なんて記事を書いてしまいました。

全然カンタンじゃなかった!!

でも、集中力を高める

自分を感じるということでは

有効です(*^^)v

 

 

先日

Facebookで

スピリチュアルの

基礎中の基礎である本に

書かれている

瞑想を行う注意事項

を書いたブログを

シェアされていた方がいて

その部分にとても

共感したので

抜粋して紹介させていただきます。
★神尾 学さんの記事★から。

 

なるべくわかりやすいように~と

私の解説ヒヨコも付けました。

ぜひとも

みなさまにお読みいただきたいと思います。

 

 

****************

 

 

瞑想に関して、最近はブームであり、

すでに実践あるいは

これから挑戦されようとしている方も多いと思いますので、

慎重にしなければいけない

注意事項をご紹介させていただきます。

 

 

その1

良い性格

清い生活

という

基礎がなければ、

暝想を始めることは

危険であり、

有益ではない。

この場合、

雑草が生い茂る庭に肥料を施すことで、

途方もなく雑草が繁茂し、

弱い小さな花々を枯らしてしまうのと同じように、

暝想は彼の生命の

望ましくない様相を刺激するエネルギーを引き込む手段になるだけである。

 

ヒヨコわかりやすく言うと

良心と欲の区別ができない者や、

無意識に欲を満たすことを求めているような状態の者が

自分を制御できていないまま

瞑想してしまうと

その欲から生じる良からぬ幻想が

それを満たすための

良からぬエネルギー

または

良からぬエネルギー体を

引き寄せるだけである。

結果

その者は、自分が瞑想によって得たものが

自分を破滅へともたらすとは気づかず

自分がつながっている者の真相を

見ようともせず

そこに拠り所を求め

のめりこんでいく…

 

 

その2

暝想は、

個人の成長や

霊的な能力を求める

といった

間違った動機

がある場合には

危険である。

というのは、

このような条件下では

瞑想はイリュージョンの谷間の影を強めるだけであり、

利己的な欲求の谷間にひそむ

高慢という蛇を大きく成長させるからである。

 

ヒヨコわかりやすく言うと

瞑想とは

自分の生き方への答えなど求めるものではなく

自分の霊感的な能力を高めるためのものでもない。

利己的な成長を欲して瞑想すれば

その1で書いたようなことが起き、

結果、

自分は優れた霊感の持ち主だと誤解し

高慢になってしまうのである。

 

 

その3

奉仕したい

という願望が

『ない』とき、暝想は

危険である。

奉仕とは

魂のフォース(見えない力)を

グループのために使うことを意味する

別の言葉である。

この衝動が欠けているとき、

エネルギーは

諸体に流れ込むかもしれないが

利用されず、

出口が見つからないため

センターを過度に刺激することになり、

初心者にとって

災いになる状態を生み出す。

 

ヒヨコわかりやすく言うと

他者への奉仕の心がない者が瞑想すると

エネルギーを取り込むことはできたとしても

利用されないために

循環ができず

エネルギーは新鮮さを失い

瞑想した者の中を

過度に刺激してしまい

その者に災いをもたらす。

 

 

****************

 

 

これは

私が考えたことではなく

基礎中の

基礎の本

に書かれている

注意事項です。

 

いかがでしょうか?

瞑想すれば

霊感が高まるとか

ガイドの存在から答をもらえるとか

勘違いしていませんか?

 

補足的に書かれた

神尾さんのコメントです。

 

自分はまだそういう段階ではない、

と感じられた方は、

何をすれば良いのでしょうか?
数日前からの一連のブログをお読みいただければ、

回答が見つかるはずです。
特に

「性格構築における悪徳と美徳」

あたりを読まれると良いと思います。
http://ameblo.jp/spiken777/entry-12293146519.html
味気ない日常の中にあって、

「ヤマ・ニヤマ」などを通じて、

地道に「性格構築」に励むことです。
そうやってしっかりグラウンディングをして、

社会に興味をもち、

よりよい社会をつくるために

自分にできる最適な道で奉仕をすることです。
それが、真のサードアイや

クンダリーニの覚醒に近づくための、

(今生では達成できなかったとしても)

最短のルートのはずです。
どうか

誤ったスピリチュアルの

幻想から脱して、

真のスピリチュアルを

探究してください。
今の社会が真に必要としているのは、

そういった人たちです。

 

 

 

 

「ユータンは瞑想とか、祈りとか

   毎日していますか?」

と聞かれることがありますが

 

私の場合

 

 

 

 

 

 

なーんにもしてませーん

すいませーん

 

なんて説明したらいいか

よくわからないけど

 

 

なのですよ。

怠惰という意味ではなく

常に

神の存在を感じ

共にあるという感覚に満たされています。

満たされているので

不平不満がないです。

すべてに感謝ラブラブ

儀式や

心を向ける時間

なんて

あえてセットしなくても

自分の中の神を

常に感じていれば

そういうものも必要ないです。

自分の心そのものを

『我』を神に明け渡す

そんなかんじです。

 

でも

怒ることもありますよ。

それはどういう時かというと

私のまわりに集まった方々が

がんばって築いている

和氣愛愛の輪を乱されること。

円をゆがめられること。

そのような行為には

少々きびしく対応いたします。

すいません。

切り捨てるのではなく

心の在り方を見つめ直し

改心してほしいのです。

 

大日如来の憤怒相は

不動明王です。

地蔵菩薩の憤怒相は

閻魔大王です。

閻魔大王のまわりの十王たちは

観音菩薩たちの

憤怒相なんです。

 

如来様も

観音様たちも

なんでもゆるすわけじゃないんです。

 

ナウシカも

漫画本の方では

破壊と慈悲の混沌。

間違っていることには

とことん立ち向かう。

 
 
神さまはね
なんでもゆるしちゃう
やさしい存在なんかじゃ
ないんだよ~
大いなる慈悲とは
そういうことじゃない。
 
そこも
瞑想と同様に
勘違いしないでね。