福島県会津市その2 会津城下

   

 

   

 会津若松市内南東部にある天寧寺の近藤勇の墓です。戒名をつけてくれたのは松平容保で、墓の建立主はもちろん、会津に滞在していた土方歳三です。地元の方に、建立当時はもっと山の上の方にあり、後に現在の場所に移転されたお聞きしました。その折、墓の下をほったものの、何も出ず・・だったとか。近藤の首は何処に。

 

   

 近年、近藤の墓の横に土方の墓も建立されました。現在、「ゴールデンカムイ」の実写版が上映されています。ドラマではなんと、土方は箱館一本関では死んでいず、70歳まで存命!舘ひろしさん演じる、かっこいい土方をスクリーンで見ることができました。

 松平容保のお墓も近くにあるのですが、今回は暑さに負けて、断念でした。

 

   

 

   

 天寧寺近くにある会津武家屋敷です。家老西郷頼母の屋敷を復元して、歴史テーマパークになっています。幕末時の上級武家の屋敷の様子がよくわかります。

 

   

 

 

 会津若松市内西部、七日町駅近くの阿弥陀寺です。当寺に藤田五郎こと、斎藤一の立派な墓があります。明石藩士だった父が江戸に出て、御家人となり、幕臣斎藤が生まれますが、明治以降は会津藩士として生きました。以前、明石の郷土資料館で学芸員の方に、「斎藤の父は明石藩士だったのでは」と聞いてみたのですが、残念ながらご存じなく、驚いておられました。斎藤の先祖の資料が発掘されるとよいですね。

阿弥陀寺近くには会津新選組記念館もあります。

 

 今回、白虎隊関連の史跡めぐりができなかったのですが、次回はぜひ、訪れたいと考えています。

      若松城(鶴ヶ城)

 

  

 室町期の若松城城主は蘆名氏でしたが、戦国期末になってからは、蒲生氏郷が城主となり、その後、120万石で上杉景勝が入城しました。関ヶ原の戦い後には、松山から移転した加藤嘉明が城主となりました。その後、2代将軍徳川秀忠の庶子、保科(松平)正之が城主となり、それ以降、明治初期まで城主は会津松平家でした。

 幕末期の城主は会津中将松平容保で、家訓により京都守護職を拝命し、幕末期京都政局の主要人物の一人となりました。

 

  

 慶応3年12月、容保は大坂城にいました。翌1月の鳥羽伏見の戦い後、徳川慶喜に引っ張られて、たまたま大坂天保山沖に停泊していた開陽丸に乗船し、館長榎本武揚は陸に残したまま、船は出港し、江戸へと帰還しました。大坂城内に居た会津藩士たち、京都見廻組、新選組も、順次、江戸へと戻っていきましたが、各々、江戸帰還には苦労したようです。

 慶応4年3月には会津藩士たちは、全員会津領内へと引き上げ、恭順を示すも新政府に認められず、8月には会津戦争が始まりました。1か月の籠城戦の後、9月22日、開城しました。新政府軍の砲撃でも天守閣は崩れず、ぼろぼろになった写真をご覧になった方も多いかと思います。この会津攻防戦が慶応4年1月3日に鳥羽伏見で始まった戊辰戦争の中で、最も激戦であったことは間違いないでしょう。

 

  

 再建された天守閣です。内部は会津の郷土資料館になっています。

 

  

 本丸跡はきれいな芝生広場になっています。今回は、城内にある茶室麟閣を訪問しました。

 

  

 豊臣秀吉に切腹を命じられた千利休ですが、その死後、会津城主蒲生氏郷が利休の息子小庵を会津にかくまい、千家の再興を願いました。その折に立てられたのが、この麟閣だと伝わります。小庵は後に京都へ戻り、千家を再興し、千家の茶道が今日に伝わります。

 

    山形県山形市 山形城

 

  

 戦国期、山形地方を領土にしたのは、戦国大名最上義光でした。山形城内には、騎乗の勇壮な義光の像が建立されています。山形城跡は霞城公園として、整備され、保存されていました。一部、復原されていて、広大な城跡公園は立派なものです。

 

  

 最上義光は山形藩の初代藩主となりましたが、1622年には最上家は改易され、その後、鳥居忠政、保科正之、越前松平家・・・と藩主が目まぐるしく変わりました。最上家が建造した当時は広大な城でしたが、段々時代が下がるとともに、山形藩の石高は小さくなり、城もコンパクトになっていきました。

 

  

 こういう物騒な遺物も残されています。

 

  

 この寺は城下にある専称寺です。本寺には、義光の娘駒姫の遺髪塔があります。駒姫は関白豊臣秀次の側室に望まれ、15歳で京に送られましたが、秀次は謀反の疑いをかけられて高野山へ逃げ、その後、自害しました。駒姫とは面会することもなかったそうです。

 

 駒姫も秀次の一族処刑に連座し、三条河原で亡くなりました。現在、京都木屋町三条の瑞泉寺には、秀次はじめ、処刑された側室や子供、小姓たちの墓があります。

 娘の死を嘆いた義光は、専称寺を駒姫の菩提寺としました。生母の大崎夫人もすぐに亡くなったと伝わりますから、娘の後を追ったのかもしれません。駒姫は伊達政宗の従妹にあたります。娘を殺された最上義光、関ヶ原の戦いでは東軍方に参戦し、その功績から山形藩の初代藩主となりました。

 

  

 

  

 山形市にある見事な旧県庁です。明治期の創建で、山形の豊かさの象徴です。以前、「ブラタモリ」で、タモリさんが訪れていて、絶賛されていた建物です。

 

 れんが造りの建物が囲む中庭ですが、映画「るろうに剣心」のロケ地になったとか。

 

  

 山形城下に残る古い商家です。山形といえば、紅花。布の染料ですね。さぞや、儲かったかと思います。