新約聖書 マタイによる福音書 6章9節 (新共同訳)
「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。』」

「どう祈ったらいいですか?」

弟子たちがこうたずねた時、イエス・キリストは弟子たちに祈りを教えてくれました。
その祈り(『主(しゅ)の祈り』)の始まりが冒頭の言葉。

『父よ』は、幼い子供がお父さんに呼びかける時の言い方。

ギリシア語だと「アバ」

赤ちゃんがアブアブとか言います。
その意味では赤ちゃんでも発しやすい言葉。

親しみと信頼の言葉「アバ」

「父ちゃん」あたりが近い表現でしょうか。

冒頭の言葉を大胆に言い換えると、

「父ちゃん、あなたを尊敬させてください」となります。

自分を振り返るととんでもない父親でしたので、そう言われると「ごめんなさい。尊敬できるような父親ではありませんでした(それどころか、「尊敬できる父親だ」と勝手に思い込んでいたゴウマンな愚か者でした)」としか言えません。

でも、イエス・キリストが命懸けで教えてくださった全知全能の方、あらゆるものを創造し、命を与え、保っておられる方は違います。

まさに「素晴らしい方」

でも、私たちがいつでもそう感じられているかというと怪しいですね。

「私がベストの道へ導いてあげる」とおっしゃっているのに、神様を待たずに「いや、自分の考え通りに進みます」と自分のやり方を通して自分や周りの命を傷つけてしまうことの何と多いことか。

そんな状況に迷い込んでしまう人間に、イエス・キリストは、「そんなあなたたちだからこそこう祈りなさい」と大切な祈りを教えてくれました。

「天の父さん、あなたを、自分が、まわりの人が心からあがめられるように、感謝できるように、尊敬できるようにしてください」

祈りは神様に届きます。
そして、神様は、私たち一人一人が神様を大好きになれるようにいろんなことを用いて教えてくださいます。

今日は日曜日。
礼拝の日。

心から神様にお願いしましょう。

「天の父さん、あなたをほめたたえさせてください」

祈りは答えられます。
自然に、神様が望まれる「神の国(愛の国)」のために生かされていきます。

素直に祈り求めることから始めましょう。
期待して待ち望みましょう。
神様の奇跡が起こります。

心の中で何かが変えられます。

愛がじわじわと満ちてきますよ。