僕の敬愛する作家である高橋源一郎が「文学とは何か」について書いていた。
彼によると、「文学」とは「複雑なものを複雑なままで理解しようとする試み」であり、「最初から最後まで、その対象と共感しようとする試み」であるらしい。
(高橋源一郎『丘の上のバカ』朝日新聞出版, 2016.11, p.110.)
この点において、神聖かまってちゃんとはまさに「文学」だと思った。
フロントマンである"の子"は正気と狂気がないまぜになった表現をする。また、男性的な表現もすれば、ボイスチェンジャーを使ったり女装したりして女性的な表現もする。暴力的であり、繊細でもある彼の表現はどちらか一方の要素に割り切れるものではなく、「複雑なものを複雑なままで理解しようとする試み」であると言ってよいと思う。文学が複雑な要素を作品という一つの結晶に昇華するものだとしたら、神聖かまってちゃんはアンビバレント(両義的)な文学である。
また、彼が作る曲の主人公はメンヘラだったり、社畜だったり、ニートだったり、犯罪者だったり、自殺志願者だったりして、幅広い人間を曲想に据えている。これは、「最初から最後まで、その対象と共感しようとする試み」であると言ってよいだろう。文学が近くや遠くにいる人にドアをまたがずに会いに行ける魔法だとしたら、神聖かまってちゃんはアヴァンギャルドな文学である。
ポピュラーミュージックにおいて、歌詞の地位をメロディやサウンドと同等に引き上げた最初のアーティストはボブ・ディランだろう。それは、彼の歌詞に文学の要素があったからだ。彼が登場して以降、日本や世界において、文学的な歌詞を歌ったアーティストは数知れない。
僕は日本の文学ロックが好きだ。それは、僕が嗜癖する文学の要素とカウンターカルチャーとしてのロックの要素があり、日本語だから聴いてすぐ歌詞の意味が分かるからだ。
前述した神聖かまってちゃんを始めとして、銀杏BOYZ、RADWIMPS、amazarashi、きのこ帝国、羊文学、リーガルリリー、ふくろうず、スピッツ、アジカン、笹口騒音、くるり、中村一義、初期のバンプオブチキン、相対性理論、サカナクション、大森靖子などなど、この『とかげ日記』でレビューするアーティストは文学ロックばかりだ。そして、これらのアーティストの音楽には、前述した「複雑なものを複雑なままで理解しようとする試み」や「最初から最後まで、その対象と共感しようとする試み」であることが共通すると思う。
世の中を「右」と「左」や、「日本人」などの属性であるか否か云々の二項対立で捉えて単純化し、一方を切り捨てる昨今の政治的な動きに抗することができるのは、こういった文学的なアーティストだと思う。(「政治的な動き」とは、自民党のことを言っているのではない。大衆が全体として織りなす政治的な姿勢について言っている。)文学は政治ではないけど、政治的な働きもするのだ。
人ひとりひとりのあり方は多様であるはずだから、多様性が尊重される社会こそ目指していくべきだと思う。人と社会は複雑なままでも素晴らしいんだよ、って言い続けたい。
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